石ころ

十字架 ①(マルコ15章)

 

夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」(1~2)

 

「あなたがそう言っています」新改訳2017  ピラトの質問は、イエスが王の王であることが分かっての言葉である。イエスさまはそれを肯定された。知っていることで、ピラトには無実のキリストを十字架で殺した責任がある。

 

そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。
ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。(3~5)

 

ピラトは、イエスに何の罪もないことを知っていたので、その沈黙に驚いたのだ。そう、神が「沈黙」されるのは人の罪を負うためである。

 

ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。(6)
そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」と言った。
ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。(9~10)

 

ピラトはユダヤ人を支配出来ると思っていた。自分で裁きを仕切ると思っていたし、無実のイエスを十字架につけることは、思ってもいなかったのだろう。

 

しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。(11~12)

 

群衆の支配者は同じユダヤ人の宗教者であった。ピラトはイエスを殺すために利用されているに過ぎず、此処で彼は自分の職権を放棄して、群衆にどうするのかを尋ねた。

 

すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。
だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。
それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。(13~15)

 

機嫌をとらなければならない時は、支配されている時である。群衆によってピラトは追い込まれ、イエスを見捨ててさばきの場から逃れたのだ。
神のご計画に用いられるにも色々ある。ユダも用いられた一人であり、ピラトもそうである。ただ、どんな役割を果たすのかは、自分で選んだ結果である。

 

そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。(17~18)

彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。(20)

 

キリストは、人がどのようにご自身に接するかをお任せになる。嘲ることも、無視することも、拒絶することも、また、信じて仕えることも、殉教する信仰もそのままに受け入れられる。
それは天での永遠の取り分となる。否定した者は否定され、命を預けた者には永遠をたまわる。

 

イエスさまは十字架で、人の罪の身代わりに死んでくださっただけではなく、鞭打たれ、嘲りを受け、嘲弄され、弟子に裏切られ、愛し育てた弟子に逃げられる悲しみをも経験してくださった。人のあらゆる体や心の痛み悲しみを、すべて知っていてくださる。

それゆえ苦痛の中でもイエスさまを仰ぐ時、痛みや悲しみを知っていてくださる主に、励ましや深い慰めをたまわるのである。

 

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)

 

そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。(21)

 

キリストの十字架は人類の救いの完成である。彼が負わされキリストの十字架は、まことに稀有な祝福である。人類史上ただ一人、キリストの救いの完成を手伝ったのであるから。神のご計画に在る出来事には偶然はなく、彼は選ばれていたのだ。

自分で望んだわけでもないのに、なぜかわからぬ重荷を負わされる時、その理不尽を黙って負うなら、それが大きな祝福であったことを知る時がある。そんなこともある。

 

そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。(22~23)

 

イエスさまは、十字架の苦痛を没薬で誤魔化すことはされずに、罪から来る罰を完全に御体に負ってくださった。
私は信仰の初めに、十字架のお苦しみを幾らかでも知るべきではないか・・と祈った。即座に「知らなくてよい。」とピシャリと返された。

後に自分の言葉の傲慢に気づいた。罪なきキリストの痛みを知ることなど、誰にも出来ない。ただ、感謝して赦しを受けるだけであった。

 

それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。(24)

 

イエスさまを近しく見て、彼らが求めたものはキリストの抜け殻であった。永遠のいのちをもっておられる方を殺して、脱ぎ捨てられ古びて行く衣を得たのだ。神を知らないこととはこのようである。

 

彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。(25)


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