しかし、息子の見立て通りに月曜日には完全に動かなくなった。修復は彼の戻ってくる週末にならないと無理。祈りによって選んだことだから、まあ、いいか。と家事をし、聖書をただ淡々と読む日々。どこにも何も発信することも受信することもなく、春の陽を受けやわらかな風を受けて過ごす。
でも、私の深いところで23日の礼拝の余韻がずっと続いている。「交わり」と言われたLukeさんのメッセージは、人の言葉でではなく静かな聖霊の無言の満たしのようだった。一つ場所に集う礼拝とは、復活のキリストの一つのからだの交わり。そのことが初めてわかった・・いや、味わうことができた。私は今までメッセージを聞くということに重点を置いていたけれど、saltさんの言われていた言葉の意味に気がつくことができた。
Sugarさん、Lukeさん、emiさんに初めてお目にかかれたことはとても嬉くて、主に心から感謝をした。Lukeさんのホームページを姉妹に教えられて一生懸命に読んだ日々。そしてカナン教会を知ることができた私には言葉にならない思いがあった。けれどもその集まりは不思議なほどすべてが自然、特に言葉はいらないほどで何をしていてもいなくてもただ満足だった。
Sugarさんの熱いメッセージはいつまでもいつまでも聞いていたかった。交わりの時も細やかに気遣いをされて、兄弟姉妹の間を回って交わってくださり、私にも「十字架は、まだまだ深いものです。」と大きな希望、喜びを教えてくださった。「もっともっと真っ正面から戸を叩きなさい。もっともっと知りなさい。」と・・・。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1~3)
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