石ころ

罪の認識

 

 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。(マルコ15:27)

 

この二人の強盗は救われる者と滅びる者に分かれる。自分の罪に気づいた者と、気づくことなくキリストを責める者の差である。

 

通りすがりの人たちは頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(マルコ15:29~31)

 

死罪とは無縁と思っている正しい人々は、彼らの罪を負う十字架のイエスを罵った。イエスが十字架を降りて自分を救った時、人類に自分の罪の故に滅びる運命が決定するのだ。

 

イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。(マタイ27:44~45)

 

強盗は二人ともイエスを罵っていたのだ。しかし、一人は闇の中で負いきれない己の罪の一つひとつを思い出し、キリストの聖さへの渇望が彼の心に押し寄せて来たのである。


キリストはそのために彼の隣に居てくださったのである。そう、キリストはこの強盗一人のためであっても、死の淵の十字架にまで付き添ってくださるお方である。

その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。(イザヤ11:2)

 

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。(ルカ23:39)

 

キリストが隣いてくださっても、自分の罪を悟らない者は救いを求めることが出来ない。キリストを悟るのは悔いた砕かれた心によることだからである。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)新改訳3版

 

すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(ルカ23:40)

 

主は罪を悔いて痛む者を憐れんでくださり、近しく居て救いの御手を伸べてくださる。それは一方的な神の愛に拠ることである。彼が悟ったキリストは、罪人に寄り添ってくださる愛と憐みの神であった。

 

「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42~43)

 

彼が救いに与ったのは一瞬の間であった。彼は命のある間に認識した罪を素直に悔いてイエス・キリストに救いを求めた。ただ、それだけで永遠のいのちをたまわったのは、キリストが彼の側にいてくださったからである。

みことばに触れることは、イエス・キリストが近くにいて下さるということである。


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