石ころ

なに一つ欠けたものがない主の備え②(申命記2章)

 

主は私に言われた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたには、その地を所有地として与えない。わたしはアルをロトの子孫に所有地として与えたからである。(9)

 

主がロトの子孫を守られるのは神のご性質に拠ることである。それは人の正しさには拠らぬことであるゆえ、私たちはみことばにより頼んで平安を得ることが出来る。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

 

主がお与えになったものは主が守られるゆえに、主に在るとき彼らは平和の中で主を恐れ、彼らに戦いを挑むことはしない。

 

セイルには以前フリ人が住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにし、彼らに代わって住むようになった。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有地に対してしたようにである──(12)

 

人は創造主なる神を恐れなければならない。ヒューマニズムも進化論も、その理屈によって神を裁くことは滅びをもたらせる。
天も地も創造主のものであり、神の権威によって定め命じられる。与えられた者は感謝をもって受け、取り去られた者は「アーメン」と捧げて礼拝するなら、御子の命に拠って、永遠のいのちの祝福をたまわるのである。

 

「今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。
カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。主が彼らについて誓われたとおりであった。(13~14)

 

死に絶えたのは戦士とある。戦うべき戦士が恐れてその役割を果たさず、多くの民を死なせたのである。
彼らは、多くの奇跡による神の勝利を覚えず信頼しなかった。主は彼らの弱さの中に働いて、選びの民を通して栄光を現わそうとされたが、不信仰によって恐怖を民に与えたのだった。

 

確かに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされたのである。
戦士たちがみな民の間から絶えたとき、
主は私に告げられた。(15~17)

 

何を口にするかはよくよく気を付けた方が良い。神がどのような方であるは自分の口で語ったように成るからである。彼らは自分の言葉によって荒野で死んだ。

それでも主は忍耐強い愛の神であり、不信仰の罪を悔い改めて、御子キリストに逃げ込むことを待っていてくださる。ただ命の在る間に・・、それは、私たちの子孫のいのちにも関わることである。

 

今日から、わたしは天下のあらゆる民に、あなたに対するおののきと恐れを抱かせる。彼らはあなたのうわさを聞いて震え、あなたの前でもだえる。(25)

 

勝利を与えるのは神のわざである。主が人を用いられるのは勝利の実を人と共に味わい、神の栄光を現させて主を知るためであり、すべての人が創造主なる神に立ち返るためである。

 

被造物が主なる神に勝利することはない。恐れるべきは人ではなく主であり御約束である。どれほど権勢を誇る君主であろうと、その命も主の許しの中にのみあるのだ。
すべての国々は終わりの日に、主の圧倒的な勝利をイスラエルに見ることになる。すべては御約束に拠ることである。

 

おまえはわたしの民イスラエルを攻めに上り、地をおおう雲のようになる。終わりの日に、そのことは起こる。ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。(エゼ38:1)


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