石ころ

モーセ (出エジプト記1~4章から)



 燃える柴の奇跡を見ても、神様のご計画に対するモーセの気は進まなかった。普通はそうであろう・・。
ある日突然、「奴隷状態の民を救い出す指導者になれ」と言われて、「はい。はい。」とその命令を引き受けることなどありえない。それはあまりにも突飛な話で、あまりにも恐ろしいことだから・・。

しかし、モーセは以前同胞を救おうとして失敗し、それによって育てられた王宮を追われたのであった。同胞を救う願いは彼の中にあった事である。
突然のことのようであっても、彼の願いへの神様の介入であり、彼の願いから出たことであったのだ。

こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。(出エジプト2:11~12)


 キリスト者も、多くの失敗や無駄な回り道をするけれど、神様の筋書きによって歩んでいるのなら、必ず成るべき事が主によって成ると信じている。その時、過去の失敗を覆い隠す必要はない。モーセの失敗が隠されていないように・・。


さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。((出エジプト4:24)

神の命令に従っている途上であったが、モーセの中途半端な気持は神の怒りとなり、彼を殺そうとされた。
人は誰でも、神への不従順によって永遠の死をむかえるのである。その時モーセは何もしないままにその死を迎えようとしていた。

 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」
そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。(出エジプト4:25~26)


妻の機転によって息子の血という代償を払ってモーセは救われた。
そう!私たちが神の息子であるイエスの血という代償によって救われたように・・。
神の前に証するものは血である。血はいのちである。命の代償はいのちであるから・・。

しかし、「主はモーセに会われ」とある。主は近しくモーセに会われていたのだ。主とお出会いするというそのことの重大さは、それ自体命がけなのだ。その時人は主に問われているのである。

キリスト者もイエス様の血に覆われて、時に、いや常に主にお会いする者である。それはとても厳粛なことなのである。
その時何を問われ何を答えているのだろう・・。
今私たちは、イエス様に買い取られたいのちの故に死ぬ事はないけれど、ならば、なおさら明確な返答をしたいものだ。


 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

神様はモーセに「あなたの靴を脱げ」と命じられたのである。
これまでの彼は自分で考えで、自分の良いと思う事を行って来たが、それらのすべてを捨てなければならないということである。それらを脱ぎ捨てて初めて、神のご計画という聖い道を進む事ができるのだ。

モーセが以前の失敗を繰り返さないために必要なことは、主のご計画を行うことなのである。
主の内を歩む者は、盲人のように日々手を引かれて歩かなければならないのである。しかし、彼の責任はそれだけである。
彼自身によるいかなる力も要らない。それが人が「神の代わり」となって神の計画を行うための必要なことなのだ。

あなたは彼に対して神の代わりとなる。(創世記4:6)

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