石ころ

十字架を負う(ルカ23章)



「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私(ピラト)のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」(ルカ23:14~16)


ピラトの結論はイエスは無罪であった。三度も民衆を説得しようとしたが、総督がただの人々を恐れ、自分の意志に反して、イエスを十字架刑に宣告する者となってしまったのである。人を恐れる者が神を恐れることはできない。

彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。(ルカ23:26)
彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。(マルコ15:21)


他人に、イエスさまの道具を運ばせられてはならない。それもむりやり押しつけられてはならない。そのことは、イエスさまがご自分で選び取ってくださった聖い神のわざである。人がキリストの十字架を助けることはできない。一緒に負うことができるものなどひとつも無いのだ。

おおぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。
「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。(ルカ23:27~28)


十字架のイエスさまを憐れむことも泣くことも違っている。私たちは罪ある我が身を悲しむことしかできない。
マリヤたちはじっと見ていた。神のしてくださる一部始終を、愛するイエスさまが処刑される事をじっと見ていた。
私たちが負う自分の十字架は、イエスさまが十字架で完成してくださった救いに、どんな時も安息して留まるものである。

 救われた当時罪の責めからの開放の中で、何もできないことが申し訳なくて、「イエスさまの十字架のお苦しみが、私にはわかりません。」と祈った。
すると即座に「知らなくて良い」と、はっきりと心に示されて驚いたことがあった。これからの信仰生活で知らされて行くと思っていたから・・。
あれから何十年もかけて、ゆっくりとその意味がわかって来た。十字架の苦しみを知ることなど、イエスさまは望んで居られないのだと・・。ただ、救いの実を賜るだけなのだと・・。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはなりません。(1テサロニケ5:16~19)


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