あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。(ルカ22:29~30)
イエスさまは十字架を前にして、最後の食事の中でこのように評価し、お弟子に天の王権を約束された。
しかし、この直前の弟子の会話は誰が偉いかと論じ合って、イエスさまにたしなめられたのであった。
また、十字架を前にしたイエスさまが、汗を血のように滴らせて祈られる時も彼らは眠っていた。
「わたしの試練の時にもついて来てくれた」と言われたけれど、主のもっとも苦しい十字架の時には逃げ出してしまった弟子であった。
ただ、この時まで彼らは確かに一緒にいたのだ。主はぎりぎりのところで彼らを評価された。
主は、人の一生の何処を切り取って評価してくださるのか・・、この記事からご愛が伝わってくる。人が何をしたかではなく、おことばだけが事実と成るのだから・・。
それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」(ルカ22:35~37)
イエスさまが地上に居られたときは、必要を世から受けて生きる者であったが、十字架でいのちをあがなわれた者は、世の養いに拠らず天からの養いによって生きるようになる。彼らの財布には、必要が天から満たされ養われる。
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅱ列王記17:16)
「着物を売って剣を買いなさい」とある。この日まで身を守ってきた物を、レーマとロゴス二振りのみことばの剣に変えて、それを守りとして生きる者となり、新しい革袋に福音を満たして運ぶのである。
主の危急のときに眠っていても、弱さ故に逃げ出しても、彼らには思い出すべきみことばの約束があった。また、いつも一緒に居た事実があった。
それゆえに再び主にお会いする時、恐れることなく逃げ隠れする必要もなく、幼子のように喜ぶことができるのである。
イエスさまは御父の言葉を語られた。聖霊はイエスさまのことばを思い出させ、折に叶ったみことばによって平安、力、知恵、慰め、希望・・また、弱さの避け所であることを教えてくださる。
しかし、私たちが常にみことばに親しみ、蓄え備えていなければ、聖霊も教えようがないだろう。
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