思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7~8)
神の子なら、まず自分のためになる種を蒔くこと。それはイエスさまからたまわっているみことばである。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)
善の出所が大切なのである。キリストの御霊の実による善なら、人の評価によって失望したり、コロコロと態度が変わることはない。神から出たものは、永遠に価値の変わらないものだからである。
あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。(ガラテヤ6:12)
世を取り繕う行いを強いる者は、自分を守ろうとしているに過ぎず、それは神から出た言葉ではない。神から出る良いものは純粋であり、人の目には見えないものである。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6:14)
世でほめられようとそしられようと、キリスト者が世に対しては死んでいるなら、なんの支配も受けずたまわった自由の中にいて、新しくされた者の喜びの中に生きている。
その、感謝と喜びをキリストに捧げ続けている心を主はご覧になる。
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)
これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。(ガラテヤ6:17)
イエスの焼き印を帯びているパウロは、キリストのからだである教会の不信仰に激しく痛むのである。キリスト者は主の痛みを感じる者である。
どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(ガラテヤ6:18)
キリストの恵みの在りかは、私たちの霊のうちにある。