私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:3~4)
人に、どうしてこのようなことを信じることが出来るだろう。あまりに思いも及ばないことである。
創造主なる神さまは、地上に生まれ来る全人類すべての人を知っておられたのだ。その上で、あらゆる霊的祝福をもってキリストにあって選んでくださったという・・。
個人的にキリストの十字架の完全なきよめと、赦しをたまわったのは、聖霊のバプテスマによってだった。十字架のあがないがどれほど完璧であるかは、とても変な表現であるけれど聖霊の炎が体を貫いたことで知った。頭で覚えたことは薄れて行くけれど、体に刻まれたことは決して忘れない。
牛や豚に所有者の焼き印を押すとき、人目に付くように表面に印すけれど、神は人の心の奥にキリストの十字架を焼き付けられる。それは他人からは見えないけれど、自分の霊の目には何時でも見えている。
其処は、いつでも逃げ込める避け所であり、すべての必要が満たされる所であって、自分が何ものであるのかを教わり続ける所でもある。
神が造られた人とは、なんと不思議な生きものなのだろう。それは体と精神だけではなく、心の奥深くにある霊に神のご支配を受ける部分を秘めている。そうでなければ、誰も神の言葉に心を傾けることなどないと思う。
義なる神と罪人はあまりにも価値観が違っているから・・。
だから、はっきりとしたわかりやすい経験がなくても、神のことばが心のうちにあることは、選ばれているということである。霊は神のご支配を受け入れて新しくされているから、みことばを喜んで聴いているのである。
いよいよ霊の目がはっきり見えて、神より受け継いだものがどれほどのものであるかを正確に知るようになり、救いの喜びにあふれて、ご計画の通りに永久までも御名をほめたたえる者となりますように。
あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:18~19)