石ころ

ヨシュア自ら割礼を施す忠実(ヨシュア記5章)

 

ヨルダン川の反対側、すなわち西側にいるアモリ人のすべての王たちと、海沿いにいるカナン人のすべての王たちは、主がイスラエル人の前で、彼らが渡り終えるまでヨルダン川の水を涸らしたことを聞くと、心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失ってしまった。(1)

 

イスラエルの為になされた神のわざは、ラハブたち異邦人にも力ある神の存在を知らせていた。


キリスト者が人々に責められている時、天地創造の力ある神が味方であることを証してくださる。恐れることなく弱さを曝らすことは、そこにある主の助けを世が見る時ともなる。

私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。(1コリント2:4)

 

弱さを持っている者が主に信頼してみことばに従い、問題だらけの世で平安に生きることは、それだけで、彼らの見たことも聞いたことも無いキリストの平安を知らせることになる。そのとき聖霊が彼らにうちにみことばへの渇きを起こしてくださる。私たちが、ただ主の守りの中に在ることによって。

 

そのとき、主はヨシュアに告げられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。」(2)

 

割礼を受けていたイスラエルの男たちは、主に逆った40年間に荒野で死んだ。神の憐みに拠る子どもたちが備えの地に入り、主の選びの民としての割礼をほどこすようにヨシュアに命じられた。

 

割礼は主がアブラハムと交わされた契約であり神の選びの民であることを証して、その印しによって神の選びを確認して安息したのであろうが、幼い時に施され大人になってからの施術はかなりの苦痛を伴うのである。

 

キリスト者には、キリストが十字架で死んで復活し、遣わしてくださった聖霊なる神が、キリストを信じる者を神の子として証してくださる。
私たちは、神のことばを解き明かしてくださる聖霊に聴くことによって、父なる神に親しみ子であることを信じて安息を得ている。

 

ヨシュアは自ら火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハ・アラロテでイスラエルの子らに割礼を施した。(3)

 

主の命令を受けて、ヨシュアは自ら道具を作り割礼をほどこしたとある。荒野で生まれた男子のすべてにとは、どれほどの人数であったのだろう。それは決して簡単なことではなかっただろう。

 

民に命じて行わせることも出来たことを、みことばに対するヨシュアの真摯な信仰は、自らその命令を行ったのである。辛い作業に対してリーダー自らが接することによってどれほどに信頼を増したことであろう。

 

ヨシュアはこの施術によって、戦士となる一人ひとりに触れて彼らの苦痛を知っている者となり、一人残らず主の命令に従ったことを確認することも出来たのだ。それは神の命令への忠実を現わしている。

 

民はみな割礼を受けると、傷が治るまで宿営の自分たちのところにとどまった。(8)

 

痛みを伴う従順を、リーダーと共に味わうことほどに信頼が増すことはない。苦痛に耐えていることをよく知ってくれているということは、どれほどその心身を癒やすであろう。一人ひとりが名を覚えられ手を触れて主への従順に助け導かれたことは、彼らに平安を与えるリーダーとして信頼や満足となったであろう。


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