石ころ

聴いたことばにとどまり続ける勤め ②(ヨシュア記4章)

 

イスラエルの子らはヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げられたとおり、イスラエルの部族の数に合わせて、ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、宿営地に携えて行って、そこに据えた。(8)

 

ヨシュアにイスラエルの民が従順したのは、主に信頼して命じたことばの通りが、目の前に現れて足で神のわざを経験したからである。

主を経験した者はみことばに従順することが易しくなる。主が折々に御わざを見せてくださるのは、人の弱さをご存じだからであり、神の御わざを経験させて下さる時に、人は主が共に居てくださることを見る。

 

これらの十二の石はヨルダン川の真ん中で、契約の箱を担いだ祭司たちが足をとどめた場所にあったもので、ヨシュアがそれらを積み上げたのである。それらは今日までそこにある。


箱を担ぐ祭司たちは、民に告げるようにと主がヨシュアに命じられたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真ん中に立ち続けていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。
民全員が渡り終えた後、民が見ている前で主の箱と祭司たちが渡った。(9~11)

 

イスラエルの民は神の御わざを見て、ヨシュアから語られる主のみことばを確信したであろう。その信仰が子孫にまで伝わるようにと、主が命じられたことである。

 

初めから終わりまで、主に安息してみことばに留まり続けるのは祭司の役割である。主の箱を運ぶ聖なる勤めである。民が急いで渡ったのは彼らには、まだ安息がないことを現わしている。

 

キリスト者のうちに居られる聖霊は、みことばを行う力を与えて、主を経験することを助け導いてくださる。キリスト者は主を経験して、大胆にみことばに従順する勇者として育てられ、成長してみこころを行って神の御名が崇められるためである。

 

ルベン人とガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたとおり、隊列を組んでイスラエルの子らの先頭を進んで行った。
このようにして、武装した約四万の軍勢は主の前を、戦いのためにエリコの草原へと進んで行った。(12~13)

 

これらの出来事はヨルダン川を渡って敵と戦うと言う、モーセとの約束を守る彼らの助けとなった。主を体験したからである。神を恐れることの祝福を見たからであり、彼らは主の御わざを見て勇気百倍で先頭を行ったのだ。

 

まだ見ぬ敵の恐怖の中でみこころを成すには、主がどなたであるかを知ることである。
小さな事々であっても生きて働くみことばを日々に経験して、主への信頼は積み上げられる。受けた恵みを覚えていなければ、何十年経っても主を知ることはないが・・。

 

ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われることを、あなたがたは次のことで知るようになる。(3:10)

 

近しく力強い神の存在を経験した者は、人を恐れることがないのは当然である。この時、彼らはこれらの敵に勝利することを確かに知っている。「次のこと・・」大河の水を分ける神を経験したからである。

 

ヨシュアはこの時、生ける神が信じる者のうちにおられることを知っていたのだ。

神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(Ⅰヨハネ3:24)

 

責め、訴え、みこころを阻むサタンには主が勝利を与えてくださる。その度に信仰が成長するのは、恐怖がキリストの赦しを経験する時となり、神に愛されている喜びに満たされる時となるからである。

 

敵の待ち構えるヨルダン川を渡ることが出来るのは、大河をも支配する主を御わざから見たからであり、その足で渇いた川底を歩いたからである。

 

キリスト者にも安住している此処を出て、ヨルダン川を渡れと命じられる時がある。その命令は神の愛を経験するための導きであり、神への愛を告白する場であり、敵に勝利させて神の栄光を共有させるためである。
そのとき主は私たちのうちに居られ、戦いの最中にも主の平安を経験させてくださる。

 

もし、主を経験していないなら未だ信仰のヨルダン川を渡っていないからであり、主を経験する度に主の備えを知り、もう、どのような敵の現れにも恐れる必要がないことを知るのである。


折々に新しく主を経験することで子孫にまで伝える神のストーリィを蓄え、神が味方である喜びにあふれて、主を礼拝する楽しみを得るのだ。

 

その日、主は全イスラエルの目の前で、ヨシュアを大いなる者とされた。それで彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間、恐れた。(14)

 

ヨシュアが主の選ばれたリーダーであることを証したのは、彼の賢さや力や行いではなく、主の御わざであった。
私たちが神の子である証は、私たちが心配することではなく、良い方である主がしてくださることであり、父なる神にたまわった恵みの特権である。

しかし、たまわった恵みに留まり続けることこそ私たちの責任である。

 

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)


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