石ころ

ヤコブよイスラエルであれ(創世記37章)

 

すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。
さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。

そのとき、ミディアン人の商人たちが通りかかった。それで兄弟たちはヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でヨセフをイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。(26~28)

 

その穴には水が無かったとある。彼らが手を下さなくてもヨセフを殺すことはできたのだ。ヨセフを救ったのは、主にが備えたユダの言葉であった。

 

さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。ルベンは自分の衣を引き裂き、
兄弟たちのところに戻って来て言った。「あの子がいない。ああ私は、私は、どこへ行けばよいのか。」(29~30)

 

ルベンは自分のために悲しんでいる。彼が計算したような善行によって、罪の重荷を取り除く材料と出来なかったからである。

彼は父の前でわびて、父に彼の罪の重荷を分かち持ってもらうことしかない。人が罪を許すということは、罪から来る苦痛を一緒に負うことだからである。完全な解放はキリストが支払ってくださることでしか得られない。

 

人間の罪の代価は、罪のまったく無いイエス・キリストによって支払われたように、人の行いによって埋め合わせできるものではない。罪を持った者が、罪をあがなって無かったことにすることなどできないのだ。

 

彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。
そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」


ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。(31~35)

 

此処ではイスラエルとは呼ばずヤコブと書かれてある。彼が神のご支配から離れて悲しんでいるからである。
神は、あらかじめヨセフの夢を通して将来を知らせておられる。その預言を覚えて信頼しておれば、このような悲嘆を経験する必要は無かったのだ。

 

預言の言葉にしっかり留まっておれば、子どもたちの欺きに引き回されることはなかった。
世にはあらゆる欺きが、もっともらしい姿で神の子さえも脅し続ける。しかし神はあらかじめみことばを備えて、永遠の望みに住まわせてくださっている。
神の子が世と一緒になって恐れ惑い、彼らの手段に奔走することはキリストの悲しみである。

 

すでにキリストに拠って「死は勝利に呑み込まれた」からであり、恐れるべきはみことばを忘れて御約束から迷い出ることである。
「平安があなたがたにあるように」死からよみがえられたイエスさまの祝福の言葉。

此処に立っていなければ、みこころを行うことはできないのだ。
ヤコブはイスラエルであらねばならず、キリスト者は神の子であらねばならない。


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