アブラハムは、息子イサクを捧げよとの神様の命令を受けて躊躇していない。彼が恐れたのは「神を知らない民」に対してであり、神様に対してではないことがわかる。
それでも、出発する前に薪を割る姿を思い浮かべると、そこに微塵も恐れがなかったかはわからない。不信仰を断ち切るように、木を割って薪にしていく姿を自分に重ねてしまう。
神様に命じられた事を行うには、自分を脇に置いて淡々と準備をすること。信仰を持って準備した薪を、イサクに負わせて山を登ること。語る言葉は信仰の告白であること。
「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」
このことは、アブラハムの証のために神様が準備されたことだと思う。証は神様が私たちに準備してくださる。信仰もこのようにして、深みに導いていってくださる。アブラハムには弱さがあったけれど、神様はそのまま放っては置かれないで、訓練させ、成長させ強めてくださる。「父」として鍛えてくださるお方。でも、もし神様に信頼できなかったら、神様は私たちをどうすることも出来ないと思う。
私は息子達に、信仰を燃やす薪を負わせたいと切に願う。不信仰のくすぶる木を負わせませんようにと祈る。
この時、神様に信頼することを選び取ったことこそが、アブラハムの強さなのだと思う。それはイサクの祝福となり、今、私たちへも祝福は及んでいる。信仰も、捧げものも、証も、すべては神様が備えて下さる。また、私たちの大切なものを惜しんでも下さる。
「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」聖書
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