石ころ

誘惑



 アブラハムがイサクを捧げるとき、悩み苦しむことは優しさだろう・・、しかし彼はそうはしなかった。一心にみこころを求めて朝早く山に登っていった。彼がイサクよりも神を愛することを選んだからである。

ノアが箱船の中で、滅びる人の声を聞いて胸が張り裂ける思いをすることは優しさだろう・・。でも、そうは書かれていない。
彼はただ主を恐れて今見ている滅びの中にも、なを主の良いご計画に希望を抱き静かに信頼していたのだ。
それは彼が誰よりも神を愛し、神の良いご計画に望みも抱いていたからである。彼らの心の内には「私」というものは存在しなかったのだ。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)
人を愛する神の豊かな祝福の結末から目を離さなかったのである。

 ロトの妻が滅びる人を惜しんで振り返ることは優しさだろう。しかし、彼女の愛は神ではなく人にあった。
神の命令が自分を救うことに始まっても、そこにみこころの完成という大切な役割があるのだから、一心に成し遂げるべきことであり、誰に先駆けてでも幸せを備えられたなら、大いに喜んでその幸いの中に住むべきである。そこで賛美に明け暮れることになるだろう・・。

キリスト者なら、家族よりも、友人よりも、恩人よりも、イエス様を一番に愛するのである。キリスト者には、誰よりもイエス様が一番大切なのである。神の御子が死んでくださったのだから。

御子の流された血の価値を知っているなら、その愛の深さを幾らかでも知っているなら、みこころと人を愛する愛を天秤に掛けることは決してないのだ。
体験していることは、十字架の愛であるから、誰をも愛するイエス様の愛を知っているゆえに、その間で思い悩んだりは出来ないのである。

 サタンは人の感情に訴え、もっともらしくねじ曲げて、苦悩する姿を差し挟むとき人がそれに感動してしまうなら、彼らの潔い信仰は貶められてしまうことになる。それは人と神の麗しい関係に水を差す働きである。
完全な神の愛を知ってなを、自分のみすぼらしい愛を引っ張り出してくるだろうか・・。

 聖書がエンターテイメントとして用いられるとき、そこ聖霊が働く場はないだろう。なぜなら、それらは必ず感情を揺さぶる仕掛けが不可欠であるから・・。
しかし、みこころを行う事は見えない方を愛する行為なのであり、人の目に触れることもなく地味にひっそりと行われる故に、真実はショーにはならない。

完全な聖書があるのだからそこから右にも左にも反れるべきではなく、まして、感情が絡みつく事柄故に、それを切り分ける面倒を考えると私はそれらを避ける。
敵は巧妙であり全くの嘘よりも数パーセントの毒を感情に吹き込むだけでも、そこに植え付けられた事柄は容易にパン種のように膨らんで、信仰を変形させるおそれがあるからである。


兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13~14)

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