長くなってしまいましたので、こちらに書かせて頂きます。
お知り合いの方の経験について私はよく分かりませんが、アザラシさんが神の声を求めておられる動機は何でしょうか。
だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。(マタイ7:8~10)
此処でパンや魚を求める動機は、乳ばかり飲んでいる者から成長して、主のみこころを行うためです。神はその願う所を見ておられます。動機が間違っているものを与えると、過ちを助長することになるからです。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。(マタイ7:11)
聖霊のたまものは、すべてその人を知り尽くしておられる、主のみこころのままに与えられるものです。それは神の栄光を現わすためのものであり、世の栄光の為ではありません。
イエスさまは5000人にパンと魚を食べさせて満腹させましたが、彼らが求め続けたものは食べ物でした。
どれほど満腹してもまたお腹は空きます。どれほど癒やしのたまものを頂いても、人はみな一度死にます。
大切なことはそれらではなく、永遠のいのちである主を求めることです。たまもので人を引き付けることではなく、信じない人には愚かな、神のことばを知らせ続けるための愛と忍耐、知恵の導きです。
イエス・キリストは多くのわざを行われました。そうして、十字架で人の罪を負って死刑となり(これ以上に重い罰則は無い)、信じる者が犯した罪の代金を神に支払って、墓に葬られ、三日目によみがえって天に昇り、今は御父の右の座にいて、信じる者を弁護していてくださいます。
また同時に、信じる者の霊のうちに住み、絶えることのないお交わりに居てくださいます。キリスト者もキリストの中でみことばを聴き続けて、安らいでいるのです。
キリストが来てくださったのは、永遠のいのちの在り処を知らせるためでした。天地創造の神の愛を、ご自身の死を通して見せるためです。
今も主は折々に必要な御わざをなさいますが、私たちはほどんと気づいてないし、あまりにも日常にあり過ぎて「あ、良かった」と思うだけで、一々覚えていないのです。気づいた時私は「イエス様感謝しまぁす」と口にします。
私も神の御声を聞いた覚えはありません。異言の祈りは日常ですが、何かを得るために祈ることはありません。与えられたたまものを用いて、呼吸をするように主とのお交わりの一つとしているだけです。
強いて言えば、世からの避け所として祈ったり、気落ちしたときのつぶやきだったり、助けてという叫びだったり、自分では内容はわからないけれど、いつもの言葉で祈るのです。
みことばを知りたいと願って、聖霊の導きを求めるのは常ですが、どのようにしてわかったのか説明はできません。聖霊が、私の霊にそっと必要を注いでくださったと理解しています。
それは私があまりにも何も知らないので、必要を満たしてやらないと一歩も進めず、何時までも立ち尽くして居るからです。
ただ、これらのたまものは世の役には立ちません。むしろ生きづらくなります。でも、永遠を求める者には、世を越えた望みの確信をたまわります。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)
みことばは信じない人には馬鹿々々しいのです。世で誉められ評価されるのは世の知恵であり、これらが両立することはありません。それは相反するものだからです。
みこころを行うときはこの世の評価を塵芥とし捨てて、主に従順することを求めます。使徒たちもみなそうしました。彼らはすべてのクリスチャンのモデルです。
しかしパウロの試練はパウロだけのものであり、ペテロの殉教と、ヨハネの長寿は違っています。神はそれぞれにある良きご計画に従って、ある時は豊かさによって証させ、また貧しさの中で生活費である二枚の小銭を捧げたやもめを、イエスさまは喜ばれて信仰を証させてくださったのです。
神の御声は聖書に書かれてあるので、聖書を読んでいる人はみな知っています。私たちが求めるのは、キリストに従うための今日の導きですが、不思議に、日々親しんでいる聖書の通読箇所に備えられてあります。
私はそれがわかるまで、教えられることを待って思い巡らせたりしています。それを私は聴き続けると表現していますが、それは聖霊の導きであって、肉の耳で神の声を聞くことではありません。
使徒の耳に届けられた御声は、神が御子を喜ばれ、ことばなるイエス・キリストに従うようにと命じられました。
このことは聖書を読んだすべての人に、「聴き従って救われよ」と命じておられるのです。
見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。(マタイ17:5)