森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

傍らの人

2013-05-29 14:00:58 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、その3》

《その2》の続きです。

 

 25日の朝、近所で暮らす独居老人であるスーパーばあちゃんの姑が、横浜に用があって本来なら数人で行くはずがいろいろあって一人で行くので、その帰りに私の実家に寄りたいと電話が掛かってきました。

我が夫殿は、生活全般が「無理をしないように」で成り立ってることが多いので、その電話にも同じ様なことを言っていました。姑はスーパーばあちゃんであっても、88歳なのです。横浜のみなとみらいで用を済まし、その後にうちに来るのでは大変だと思いました。だから私も夫から受け取った受話器に向かって同じ「無理をしないで」と言いました。だけど別のことも言いました。

―父は、いつもお義母さんの若くて元気な声に励まされていましたよ。お話はもう出来なくても耳元で声をかけてくだされば喜ぶと思います。だけど暑いし最近も忙しかったのでしょう。無理はしなくて良いんですよ。無理をされたら困ります。

―本当のことを言うと、そうなのよ。ここの所毎日出かけなきゃならない事が重なって、それで今日もみんなと同じ日に行けなくて一人で行くことになってしまったの。でもだから自由に動けるなって思ったのだけど、確かにちょっと疲れているので『みなとみらい』で自分の体に聞いてみるね。もしかしたらそこから申し訳ないと電話して失礼するかも。

―もう、それで十分ですよ。

その気持が嬉しいのです。実は私の心の中には鉛筆の先でちょっと印をつけたくらいのわだかまりがあったのです。なぜこの人は私の父に会いに行くと言ってくれないのだろうとちょっと思っていました。私の両親は舅が同じように肺がんで入院した時に病院に見舞いに行ったじゃないかと。もちろんお見舞いは直ぐに頂きましたし、舅が亡くなったのはかなりの昔で年齢も違います。それでも私はほんのちょっとだけ気になっていたのです。

しかし姑も同じ様に凄く気にしていたのですね。

疲れていたかもしれないのに、やっぱり義母はみなとみらいから私の実家に行ったのでした。

そしてその報告の電話がすぐに入りました。

私はその時には東京経由横浜に向かっていたので、後から夫にその時の話を聞きました。

母が、本当に疲れているように見えたと義母は言いました。

そうだと思います。母は自分はすごくしっかりして全く問題がないような顔を常にしているけれど、言ってることがズレていて姉をイライラさせることが多かったのです。まあまあとなだめながら、いつも肝心なときにどっかに行ってしまってる母に、私も口調が厳しかったような気がしました。だけど義母が言った言葉を聞いた時に、ちょっと反省をしたのです。

義母は言いました。

―苦しんでいる人をほぼ1年傍らで見続ける苦しみは経験のある者同士だから、私には分かる。

やはりどんなに家族を思う気持ちは同じでも妻と娘では全く違うのではないでしょうか。

「苦しんでいる人を傍らで見続ける苦しみ」―
そんな事を私は思い気遣ってきただろうか・・・・・

 

―おとうさんはきっと治るんだ。私が治してみせる。

母は最初、きっとそう思っていたのではないでしょうか。

―おとうさんはもうだめかもしれない。でもきっと5年は生きる。 私が生きさせてみせる。

父が死を覚悟してそれに向かって生きだした頃、母のこの考えはどれだけ父を苦しめたことか。双方で想いあっているというのにチグハグな時間があって・・・

―おとうさんはもう年内には・・・。きっと予想では10月。

5月23日を乗り越えることが出来るかなと私達がドキドキしていた頃、母はそんな風に考えていたように思います。姉が現実が見えていない母に確認しようとすると「全て分かっている。」と応える母。

母は母が言うとおり全て分かっていたと思います。ただ、時計だけが私達とは同じ様に時を刻んではいなかっただけなのだと。

 

父は20歳の時トランクひとつで横浜にやってきて、母の母、つまり私の祖母がやっていた下宿屋の住人になりました。その時母は16歳。

私はこの馴れ初めがとってもロマンチックに感じて好きなのです。母は下宿屋の娘で父は山梨からやって来たちょいキザな人。

先日、父に
「おとうさんが来た時お母さんはもう働いていたの?」と聞くと
「うん。よく仕事の休みの時は送っていったな。その時は家にだって電話がないだろ。迎えに行くと勝手に帰っちゃって入れ違いになってしまって、そんなことばっかししていたんだ。」 

そんな話にキラキラした過去の扉が開きます。

若い時には「パパちゃん、ママちゃん」と呼び合っていた二人。

それなのによその女性にも親切だったパパちゃん。だけど母は言ったなあ。
「私はこの人で良かったわ。だっていろいろあったから人生が楽しかったもの。」って。

最近の父は
「僕はこのおばちゃんにとってもとっても心の底から感謝してるんだよ。」
おばちゃんって母のこと。 

父と母は20と16で出会い24と20で結婚してそして今まで共に生きて来ました。

64年間―

心の中の父は健在でも、共に暮らす場所は川を隔ててしまいました。

唐突ですが、近頃私がハマっている事は、詩を作るのではなく作詞作曲です。少し前のまだ少し元気な父に聞いてもらった最後の歌は、父の母への気持ちを歌にしたものでした。

 

―夢幻の過ぎた日々
君と出会えて良かったな  君を愛して良かったな

共に暮らした長い日々
いつかは別れがやって来る  ハミング

ありがとう

ありがとう ―

 

 ※コメント、ありがとう。全部書き終えたらお返事を書かせて頂きますm(_ _)m

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四季の家、往復

2013-05-28 01:17:01 | 父へ

 《風のように人生を通り過ぎていく、その2》

《風のように人生を通り過ぎていく、その1》の続きです。

 

24日の朝、実家にて帰り支度をしていた私は、ふと静かなキッチンに耳を澄ましてしまいました。電気も消され静まり返ったキッチン。

私はある時のある朝の事を思い出しました。

その時も実家に泊まっていた私が夜、何気なく
「家で作ったお饅頭 は美味しいよね。あれ、好きだなあ。」と言ったのです。

すると翌朝、何やらキッチンがワサワサと賑やかな雰囲気。起きて行ってみると、母が早くからあんこをこしらえて、そのあんこを父が小麦粉の皮で包み、お釜型の蒸し器はシュッシュと湯気を出し、ボテボテとした厚い皮の田舎風の饅頭がまさに出来上がろうとしていた所だったのです。

出来上がったお饅頭はもちろん美味しかったのですが、キッチンの扉を開けて湯気でいっぱいのその中で、声掛けあって作業をしている父と母の姿を見た時、私の心はとっても幸せな気持ちに満たされたのでした。

・・・・・・

シーンとしたキッチン。

思わず私は、うううっと泣きました。

過ぎた時代は戻ってこないし戻る必要もないこと。想い出は心の中のアルバムの中に。
だけれどももう二度と同じ幸せはやって来ないのだと思うと、やっぱり思わず涙がこぼれてしまったのでした。

 

24日の金曜日の日は、家に戻り家事やら仕事やらをしました。

実は実家に帰る23日の一日前、友人から突然にお芝居のお誘いが入りました。25日の土曜日に行けなくなってしまった人が居たのでそのチケットが回ってきたのです。御芝居好きの私は、思わず二つ返事で行くとお返事しました。

だけど23,24日の父の様子に、私の心はぐらついてしまいました。「行く」などと言って良かったのだろうかと。

すると姉が、その時間は携帯を切って楽しんで来いと言ってくれました。
お芝居は夜なので、たしかにその時間に家で連絡を受けても動けるのは翌日早朝からになると思いました。

だけどそんな事を考えていた時に、閃いたのです。

 

東京に出るのですから、家に戻らず再び実家に帰ろうと。 

 

このお芝居のお誘いがなかったら、実家往復は私の中にそれまではない発想でした。

自分の生活を守りながら少し離れた所の実家には早々行ったり来たりは出来るものではありませんから。

そして近くに住んでいるわけではないので、親の死に目に会えるかは分からないことだと思っていたのです。

次に姉から電話をもらったら、それはいつもの楽しいおしゃべりでは無く父の亡くなった知らせであっても、こればかりは仕方のない事だと覚悟もしていました。

山本周五郎の「日本婦道記」の中には、非常に印象深い臨終のシーンがあります。それは妻の臨終に夫が「もう別れは済ましてある。」と立ち会わないと言うシーンなのです。物語というのはいついかなる時にどのように自分を支えてくれるか分からないものです。
臨終に立ち会うということよりも、別れを済ますということはもっと大切な事だなと、私には思えたのでした。 

 

だけどそう思っていたのに、それでも出来るならばその最後の時に私は立ち会いたいと願っていたのかも知れません。

人にはそれぞれ役割があるのだと言いますが、今、それを思ってみると本当にそうだと思えるのです。

私には私のやるべき事があったように思います。

 

別れは済ましたと24日に帰ってきた私。予定外のお芝居のお誘い。そして再び横浜に。

私の頭の中に、またも父の「全てうまく行った」という言葉が響きます。

 

父は前の記事「四季の家で」を姉の家でアップした数時間後に亡くなりました。
私は父の臨終に立ち会う事が出来たのでした。

 

(まだしばらくこのテーマです。) 

 

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四季の家で

2013-05-26 10:37:42 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、その1》

5月23日、父の買ったお墓が出来上がり引渡しが終わったので日にちを選んで一族が集まりました。一族と言っても、平日でしたので四人姉妹と妹の子供、今までちょっと仕事の都合で来ることの出来なかったその妹の夫、姉の夫と昼間は預かっている又姪の8人で行きました。

その日は天気も良くて、爽やかな5月の風が襟元を撫ぜつけていきました。

お墓には普通の「何々家の墓」と言う言葉はなく「永久に」と言う言葉が選ばれ刻まれています。それは嫁いでみな名前の変わってしまった私たちのためなのです。お墓の問題は「そんなの、どうでもいいや」とは思いながらやっぱりどうでも良くはならない大切な重要事項だと思います。父と母のことばかりではなく、将来の自分の件でも同様です。

だから父が作ったこの一族の誰が入ってもいいお墓は、これからのお墓の新しい形として画期的だと思っています。

本当ならそこに父と母も来て、空っぽの出来たばかりのお墓を囲んで記念写真を撮ろうというのが、今回のイベントの趣旨でもあったのです。

その為に姉の夫は以前から「休み」を取っていたのだと思います。

ただこの23日と言う日は、完成と引渡し、父が会長をやっていた老人会の総会の都合などを考慮して、1ヶ月前に決めたのです。

果たしてこの日を迎えることは出来るのか、それは私たち姉妹の心の中の密かな目標になってしまいました。

父は徐々にその体力を失ってはいきましたが、つい最近まで家の中の寝室と自分の部屋とを往復し、総会資料を作ったりカラオケ同好会の歌集などを作ったりしていました。だけど総会を無事に終わらせた事で、緊張感が解けたのか一気に病状が進んでしまいました。

23日の二日前からベッドから起き上がることは、とうとう出来なくなってしまったのです。

それで私たちだけでそのイベントを終わらせたのでした。

私たち姉妹の長女の名前には長女らしい一文字が入っていて、2月生まれの私には春の音が入ってる。そして3月生まれの妹には逆に名残の冬を思わせるような、これもまた音が入っていて7月生まれの妹にはその季節の言葉が入っている。私たちの家は四季の家-

その家で大きな変化がやってこようとしているのです。

23日は大きな山場になると、ある意味予想して27日に入っていた習い事の予定をキャンセルさせていただきましたが、その予想は当たってしまいました。

その日、病状の進んだ父のために緩和の薬が一歩先のものに変わった日でもありました。

看護士さんが言いました。

「最後まで意識がはっきりとして、そして苦しみと戦いながら死んでいくか、意識はどんどんと朦朧としてしまうけれど、眠るように死んでいくか二者選択です。」

もちろん父の意思は後者の選択です。私たちの願いは父の選択を叶えることです。

薬が変わったばかりなので、父は呂律が少し回らなくなりましたが、結構しゃべっていました。父はおしゃべりな人なのです。

「俺、危なかったなあ。。。」と妹の夫が言いました。

「そうよ。今日がラストチャンスだったのよね。それで今日、来てなかったら『あなたは来なかったわね』って目で言っちゃったかも。」

「やばし、葬式の時針のムシロだったな。ああ、セーフで良かった。」

と、彼は言い父と談笑をして帰りました。

その日は兄弟のように仲の良かった母の弟も大きなスイカを丸ごと持ってやって来てくれました。

この人には先日来ることになっていたのに都合が悪くなって、その後も来てないことを知ったのでお電話をしたのです。

この電話をした時は、まだ薬が変わるなどと思っては見なかった時なのです。

叔父は言いました。

「先日、ひとしきりお話して別れは済ましてある。今週はちょっと用事が立て込んでいるので近い内に顔を出します」

それならそれでも良いかなと、私はちょっと残念に思いながら電話を切ったのでした。

だけどそんな事を言いながら、叔父は居ても立ってもいられない気持になって翌日以降の用を考えて、行くなら今日しかないと思い立ってやって来たのでした。

言うなればこれもセーフ。

叔父も父と歓談して帰って行きました。

 

数週間前の父との会話で、父は

「思い起こしてみると、僕の人生は全てうまくいった。」と言っていました。

私は、心の中でその言葉を思い出して

「お父さん、また全てうまく行ったね。」と言っていたのでした。

 

※      ※      ※

 

四季の家は今は死期近づく人の家。

父との対話、思ったことなどをようやく書こうと思えてきました。親との別れは必ずやって来る道。その道は悲劇の道ではありません。

しばらくこのテーマで続きます。きっと誰かの心に届くと思うから。

(姉の家で書き込んでいるので、後に画像を追記します。)

 


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雨の降る日は天気が悪いのか

2013-05-20 23:20:58 | お散歩&写真日記

バス待ちの間、霧雨の雨が降ってきた。

今日はその後もずっと雨。

既に遠くなってしまった学生時代の友だちとの会話は、そのほとんどの内容を忘れてしまったように思う。

だけどそれでも覚えていることは、かなり印象が深かったことだと思う。

そんな昔に友人が教えてくれた近所のおばあさんの話。

「今日は晴れて良い天気だ、頑張ろう。」と言う。だけどまた雨の日も
「今日はいい湿り具合でいい天気だ、頑張ろう。」と言うのだと言った。

その時、私はその話を聞いて「ナルホドなあ。」といたく感心をしたのだった。 

雨の日は普通に「今日は天気が悪い」と言う。だけれど雨の日はけっして天気が悪いわけじゃないんだなと・・。

 

降る雨に花は喜び、どこかの沼地でも水辺の生き物は雨の賛歌をを歌っているかもしれないのだ。

と言っても「過度の」というのは例外である、もちろん。

 


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薔薇の季節2013

2013-05-14 07:03:21 | お散歩&写真日記
 
咲き続ける優しさ
〈またも、途中まで書いて放置していました・・・なんとはなしに気持が落ち着かないことがいくつかあって、ブログに向かえませんでした。でもその中の一つが昨日終わったので、また少しづつ復活...
 

春は桜に心惹かれ、そして5月は薔薇に心を踊らせる―

 

薔薇の画像は下の方にまとめてアップしました。その前にちょっと日記なども書かせて頂きました。

昨日は半日以上整骨院に時間を取られ、そこでの時間があまりに不愉快だったのでその立ち直りに時間がかかり、それでも始めてしまった衣替えを 止めるわけにはいかず時間切れで完璧というわけには行きませんでしたが、当面は暑い日がきても困らない状態になりました。

そう言えば整骨院でのむしゃくしゃする気持の払拭のために、気になっていたカフェに入ってみると殊の外居心地が良くて幸せな気分にもなれたのでした。加えて言うと、用があって〈無くても〉電話した3件の電話では楽しい時間を持てたのでした。

寝る前に一日を思い起こしてみると、むしゃくしゃ〈こっちは解消していない〉とほっこりが混在して、そしてヤルべきことはヤッたぞと言う充実感があったという、なんとなく詰まった一日になっていました。

掛け算の発想ではどんなにプラスがたくさんあってもマイナスが一個あれば、答えはマイナスになってしまうというもの。一日のイメージは実はこれに近いのではないかと思います。

だけど、こんな日は足し算の発想で行きましょう。プラスかマイナスかは数の多いほうが勝ちなのですよ。

 

ところで寝る前にパソコンを開いてみると、また昨年のブログ記事はこれですよとgooさんからメールが来ていました。読んでみると、またもいろいろな気持がモクモクと雲のように沸き起こってきてしまいました。

日記を書くということは大切なことだなと強く思うのは、過去の自分の生活と心の変化がはっきりと分かることだと思います。その記事を読んでちょっと思ったことが数点。
「ああ、この頃ようやく、我が家は・・・」と思った。「やっぱりこの季節は写真日記なのよね。」と思った。「ああ、この花を私は夏の終わりに・・・」とあまり言いたくないことで心がキリキリ痛んだ。そして「ハア、ナルホド~」と自分の書いた内容にいたく感心したのでした。思考したことはすべて自分のもの・・・のはずなのですが、実際には忘却の波に押し流されてしまうこともままあるのではないですか。インプットし直す、これ大事なことですよね。

 

というわけで、脈絡なく「薔薇・バラ・ばら」です。
今日もまたこのバラ園には行く予定ですが、この画像は日曜日に撮ったものです。

 

 

 

 

 

 

 

今日も一日、素敵な一日をお過ごしください♪

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空の青、森の緑

2013-05-12 16:15:09 | お散歩&写真日記

5月のこんな晴れた日はどこかに行きたいと、心がウズウズするというもの。

だけど別に遠くになんて行かなくても良いのですよね。

 

何処かに行った気分になれる、そんな場所が近くにあるというのは幸せなことだと思います。

 

 

計算された美しい日本庭園も好きだけれど、何も計算されずに空の青と森の緑のハーモニーを奏でている水辺の風景はもっと好きなような気がします。

 

 

 

先日までまだまだで閉鎖中だったバラ園も開いていました。

 

どこかのおじさんが

「見事だな。この美しさは母の日の今日にふさわしいね。」と大きな声で言っているのが聞こえて来ました。

見かけと違って〈失礼・ぺこり〉上手いことを言うなと思いながら、私もバラの美しさにシャッターを何回も切った今日と言う日でした。

―バラの画像は次回に。

 

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悲劇/喜劇は表裏一体なのか。

2013-05-11 02:01:38 | 梢は歌う(日記)

ちょっとだけ仕事をしてるから毎日が日曜日というわけではないけれど、まあ、「毎日が土曜日、但し昔の」という生活を送っている私にとって、G・Wはさほど関係のないお休みなんです〈だって家事は休みじゃないし〉。それでも家族が全員仕事に出払うと、「あーあ、お休みも終わったなあ」という気分になってくるというものですね。

 

G・Wのラストの日、少々頭を使ってタイトルのような内容でブログの記事を書こうとしました。

書いて脳みそが疲れるのは分かるけれど、書こうと思った途端に疲れ果てやたら寝まくった一日になってしまいました。、多分脳内では珍しくお仕事依頼が来たものだから、思考&組立などであっという間に、書く前に疲れてしまったのですね。

この状態、なんだか懐かしかったです。なぜ懐かしいと思ったのかというと、学生時代のレポートを書く準備をしている時、こんな状態がよくありました。

グーグーと寝た後に、パチリと目が醒めると一気に文章が書けた経験はありませんか。これって寝ている間に脳がそれに向けて集中して働いているらしいですよ。お仕事などで報告書や企画書などが行き詰まったらそのことを考えながら〈ココがポイント〉寝てみるというのも良いと思います。

 

で、私ですが、グーグーと寝た後に一気に書けたかというと、残念ながら時間切れ。一日が終ってしまったというわけなのです。その辺が24時間自分の時間だった学生時代とは違うのですよね。

加えてなんか最近時間の使い方がすごく下手。

時間を制するものが世界を制する・・・・なんて書くとSFだよね。

まあ、自分の世界を制するって言う点においてはまさに正解かも知れませんが。

そしてG・W開けの今週も早くも週末になってしまいました。

 

ところでタイトルを見て、
「ああ、きっとあのことについての感想だな。」って思った方もいらっしゃるかもしれませんね。

先日のNHKでやった「ラストメッセージ」を見ました。

「木の上の軍隊」に込められた井上先生の想いに胸が熱くなりました。

最初は「ラストメッセージ」というタイトルでカテゴリーもテレビに入れたのですが、ちょっと他のこともあってつらつらと感じたまま書くことにしたのです。

その「ラストメッセージ」ですが、今はこまつ座の代表である井上氏の三女の視点から、番組は構成されていました。今の私にはそれだけで切なかったのでした。娘が父の想いを語る。そして父の想いを継承する。

「木の上の軍隊」の台本をお墓に手向けるシーンでは胸がいっぱいになりました。

23年もの昔に、氏は早くも「木の上の軍隊」の事を構想していたのですね。いつかは向き合って書き上げたいと思っていた沖縄。だけどずっと書けないでいたのでした。

氏の作品はどんな悲劇でも笑いがいっぱいです。例えば「日の浦姫物語」にしても、あのようにドロドロとした悲劇でありながら舞台の進行を引っ張っていくのは「笑い」。悲劇さえその向こう側のある喜劇を引き出していく井上シナリオ。

だけどそんな氏でさえ、沖縄で起こったことは、その裏をどんなにひっくり返しても喜劇にはならなかったのでした。

そして氏がこのシナリオに着手したのは肺がん宣告を受けてから。

多分最後にこのやり残した仕事を、ずっと思っていた事をやり遂げようと思ったのかもしれません。

 

だけど力尽きて、幻の作品となってしまったのでした。

 

しかしながら私は思いました。

 

世の中で起きていることは、見ようによってはあるべき道を上手い具合に回っていく車輪のようなものかも知れないと思う時があります。

力尽きて思い続けたまま未完に終わった作品。氏はどんなにか無念であったかも知れません。だけどそれは運命の歯車の計算ゆえの未完だっかも。

多くの人がその想いを引き継いで行くことが出来たのですから。

 

私は「木の上の軍隊」の感想の中では、少々拡大解釈してしまいました。沖縄のと言うより、今の日本全体の比喩の物語のような気になってしまいました。

それは以前書いたことですが、戦争がないのに今の日本は終戦直後の瓦礫の街をみんなが歩いているような、そんなイメージでこの数年を生きていたからです。それと共に、私の中で沖縄への意識が薄かったからなのだと気が付きました。

「木の上の軍隊」は拡大解釈はo.kだと思います。でも沖縄の物語なのですね。

沖縄の悲劇・・・・そうポイントを絞ってみると、その悲しみは更に増すのでした。本土に帰った上官、島が生活の拠点である新兵。

「上官は悲しくないのだ。」と自分との違いを指して新兵は言うのです。

このセリフを脳内で再現させると、思わず(家にいるので)声を上げて泣きたくなるのです。

誰かに叱られた子供のように・・・・。

私には最後のオスプレイの轟音が、果たして新兵と同じ音に聞こえているのかと問われたら、それは・・・・思わず首を傾げてみたりして・・・

 

※      ※      ※

近頃ワタクシ、長年やってきた夜の部のお仕事が辛く感じてきてしまいました。これこそ悲しいけれど加齢によるものにほかなりません。それで今年の3月いっぱいで止めようと思いました。でもそれだと途中で投げ出すような形。その所が少々気になっていたら、結局来年までやることになってしまって、今もふうふう言いながらやっています。

仕事自体は大好きなので、やっている時はニコニコ。だけど時々、その前後の時間には疲れてしまって「早く来年が来ないかな。」と思いそうになることもあるのです。いつもなら何も感じず、「早く来年が・・・」と思うだけだと思います。だけど今の私は直ぐにその考えを打ち消さずにはいられないのです。

来年になったら・・・・

その時、父は居ないかもしれないからです。

電話をかけても居ない。訪ねて行っても何処にも居ない。そんな日は必ず、しかも近いうちにやって来るのです。

みんなに愛された父が死ぬことは悲劇―悲しみ以外のなにものではないと思います。

だけどカメラをぐっと後ろにひいて撮影するように、引きの視点で父の人生を見るならば、それは悲劇なんかじゃちっともないのでした。悲劇じゃない物語の最後が死であるならば、その死は物語の結びであって悲劇ではないはずです。

 

※     ※       ※

沖縄の悲劇は継続中・・・

ゆえにどんなに引きの視点で見つめてもそこに見えてくるのはやっぱり悲劇なのかもしれないと思っても見たのでした。

 

沖縄に行ってラストの部分を書き加えた蓬莱さん。

終わっていない悲劇の物語を、二人の魂を木の上に残す事によって表現したのは見事だと改めて思ったのでした。

 


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香りに惹かれて

2013-05-03 10:26:25 | お散歩&写真日記

5月の若葉の季節になると、本当に外をウロウロしたくなります。

今月から出来る限りお散歩を頑張ろうと思っています。

でもお仕事がある日はいろいろグズグズとしてるので、週3日はいつも行っている大好きな公園に行けたら良いなと思っています。そして他のグズグズしていて、なかなか出掛けられない日は家の周りを15分ぐらい歩くとかしようかな。

大切なことは、「したい事」を具体的に「どうやるか」決めることなのかなと思うのです。

最近は、ちょっとこの部分が甘くて、いたずらに時間が過ぎて行ってしまうことが多かったみたい・・・・反省!

 

5月1日、早速公園に行ってきました。

バラはどうしたかなとバラ園を覗いてみましたが、それはまだ今月の終わりからみたいです。

1日の日は朝は小雨がぱらつきましたが昼間は晴れて、そして夕方再び曇って来ました。ちょっと怪しい雰囲気。

なのでもう帰ろうと足早になった時、なんとも言えない様な良い香りが漂って来ました。

―あらっ、何かしら。

立ち止まって見回すと藤棚が。

 

 

藤って良い香りがするんですね。

今はちょっと遠出したりお出かけの気分ではないのですが、近くでも本当にいい所があるなあと嬉しく思いました。

この季節は花や緑を追いかけて、心を弾ませて日々を暮らしていきたいものですね。

 

 


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