MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2536 人は簡単に判断できないと不快になる…という話

2024年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 「ポピュリズム」とは、大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動を指す言葉。本来は「大衆の利益」を重んじる立場に立った考え方を意味していたものの、近年では政治家による大衆を扇動するような急進的・非現実的な言動や政策について、批判的に用いられることが多いようです。

 多くの人々の利害が絡み、複雑化する現代の社会や経済。そうした(よくわからない)世界の中で生まれる人々の不安やルサンチマンにつけ込むのが、ポピュリストの常套手段と言えるでしょう。

 複雑な問題をあたかも単純なもののように理屈付け、世の中を「善と悪」「敵と味方」に分けていく彼ら。諸悪の根源である「敵」を排除すれば問題はすべて解決すると声高に叫び、対立と敵意をあおることで集団を扇動していくその姿が(それほどの)違和感もなく受け入れられているは、世の中にそれだけの不満がたまっていることの証左なのかもしれません。

 「俺たちはなぜこんな目に合わされているのか?」…官僚的な(もぞもぞとした)政策論は、こうしてイラついている人々の耳にはなかなか届きません。移民の排斥や排外主義を訴える極右だけでなく、財源の裏付けがない「バラマキ型」の政策を掲げる左派の間にもポピュリズムの台頭が顕著になっている現在、必要となるのは、「複雑な現実」を複雑なままに分析・理解し、冷静に解決策を探る根気良さではないかなどとも感じるところです。

 来年の11月に迫った米大統領選挙の報道にそんなことを感じていた折、『週刊プレイボーイ誌』(11月27日号)のコラムに、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が『DD(どっちもどっち)派には理由がある』と題する興味深い一文を寄せていたので、参考までに概要を残しておきたいと思います。

 ささいな日常の諍いから国家間の戦争まで、何らかのトラブルが起きると私たちは無意識のうちに「善」と「悪」を決めようとする。その理由は、脳がきわめて大きなエネルギーを消費する臓器だということから説明できると橘氏はこのコラムに記しています。

 人類の歴史の大半を占める狩猟採集時代、食料はきわめて貴重だった。なので脳は、できるだけ資源を節約するように進化したはずだと氏は言います。脳を活動させると大きなエネルギーコストがかかるが、瞬時にものごとを判断すれば最小限のコストで済む。こうしてわたしたちは、面倒な思考を「不快」と感じ、直観的な思考に「快感」を覚えるようになったということです。

 人間関係の対立は、わたしたちが生きていくうえで、生存や生殖に直結するもっとも重要な出来事だったはず。双方の言い分を聞き、何日もかけて話し合うのではなく、その場で対処しなければならないことも多く、こうしてあらゆる対立を善悪二元論に還元することが“デフォルト”になったというのが氏の見解です。

 2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、それ以前の「歴史問題」があったにせよ、侵略したロシアが「悪(加害者)」で、ウクライナが「善(犠牲者)」であることは明白だった。欧米をはじめとする国際社会がウクライナへの支援を即座に決めたのは、善悪の構図がわかりやすく、国民を説得するのが容易だったからではないかと橘氏は話しています。

 ところが、イスラエルとハマスの紛争では、一方の「悪」を批判すると他方の「悪」を擁護することになってしまう。すべての国家には、市民の安全を守る義務と権利があるので、ハマスのテロによって約1400人が殺され、240人近くが拉致された以上、イスラエルがハマスを掃討しようとするのは理解するとしても、そこで「テロとの戦い」に強く同調すれば、ガザ市民の犠牲を無視するイスラエルのプロパガンダと同じになってしまうということです。

 一方、人質をガザに連れ去った時点で、その後のイスラエルの報復攻撃もハマスの計画の一部だったことは明らかなこと。イスラエルの“残虐さ”を世界に配信するのが目的なら、病院を武装拠点にして、より多くの市民の犠牲を「演出」しようとするのも不思議ではないと氏は言います。

 このようにして「善」と「悪」は単純に決められなくなり、状況は「DD(どっちもどっち)」的になっていく。そして、これにはきわめて大きな認知的負荷がかかり、生理的に不快だというのが氏の認識です。

 DD派は「冷笑系」とも呼ばれ、ネットではつねに「旗幟を鮮明にしろ」と批判されているが、日々報じられるガザの悲惨の現実は、世界が単純な善悪二元論でできているわけではないことを教えてくれると氏は指摘しています。

 対立する当事者は、いずれも自分が「善」だと主張するので、第三者が善悪を簡単に判断できるような状況は例外的なこと。逆に言うと、複雑なものごとを複雑なまま理解するという認知的な負荷に耐えられない人は(思ったよりも)たくさんいて、それが日本や世界のさまざまなところで起きているやっかいな対立・抗争の背景にあると氏は言います。

 わからないことは人を不快にさせる。あっちこっちで人が違うことを言うけど、本当は何が正しいのか。こうして人々のイライラはさらに募っていくのでしょう。そしてだからこそ、(辛くなった)人々はシンプルな物言いに飛びついてしまう。

 ずっと(どっちつかずの)中腰でいるのは、誰にとってもつらいこと。勿論、こんなことはみんなが知っていて、大きな声では言わないだけかもしれないとコラムを結ぶ橘氏の視点を、私も興味深く受け止めたところです。



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