Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

僕の先生

2024-05-20 10:32:59 | エッセイ

 

腰は右にくの字に折れ、脚はOの字。時に歩きにくく、汚れた道を、身を打ちつけながら凌いできた81年という時。懐かしい。無垢な幼い日々。

 

一 福島のおねえちゃん

 

小学1、2年生の時の担任だった福島先生は、学校でも僕を「たー坊」と呼んだ。僕も「福島のおねえちゃん」と言った。何せ50㍍と離れていないご近所さん同士。年の差を考えれば一緒に遊ぶなんてことはあるはずもないが、小さい頃から出会うたびに「たー坊」「おねえちゃん」と親しんでいたから、そう呼び合うのはごく自然なことだった。母にすれば、そうであっても先生を「おねえちゃん」なんて呼ぶのは申し訳ないことだと思ったのだろう、「学校では先生と呼ばんといかんよ」と言った。「うん、分かった」頷いてはみたものの、やっぱり、ひょいと「おねえちゃん」と出てしまうのだった。

「たー坊行くよ。用意出来てるね」おねえちゃんは毎朝決まって、そう声をかけてくれた。学校へ一緒に行くのだ。母は笑顔ながらに「先生が迎えに来てくれるよ。ほれ早く」真新しい布製のランドセルを背に急かせた。玄関の戸を少し開け、そこからおねえちゃんが来るのを待ちわびたように覗き見る。ほどよく日に焼けた顔、すらりと引き締まった体、まるでスポーツ選手のようだ。「たー坊」と呼ぶのと同時に戸を開け、「おねえちゃん、おはよう」と言った。「あっ」あわてて母を振り返り、ちょんと頭を下げた。

学校の途中には長い石段があった。「さあ頑張って」おねえちゃんが手を引いてくれる。それがまたうれしくて、少しくらいの風邪なんかでは決して休まなかった。

そんなおねえちゃんが、突然いなくなってしまった。二年生の二学期頃だったと思う。おねえちゃんの名が「鈴木」に変わった。「結婚されたのよ」母がそう教えてくれた。結婚がどんなものかも分からず、まして結婚すると姓が変わるのだということなど理解できようもない年頃。

「結婚されたので学校を辞められ、引っ越されたの」おねえちゃんは学校からも、ご近所からもいなくなった。どこか遠くへ行ってしまった。もう「たー坊行くよ」と声をかけてくれることも、手を引いてもくれないのだね。「なぜ、なぜ」と責め、わあわあと泣き出した僕を母は困惑顔で抱き締めたのだった。小さな小さな、初恋とも言えぬ物語。恋しいなあ、おねえちゃん。

 

二 出口先生 痛かった

 

出口先生のビンタは痛かった。教室の後ろにクラスメート3人と一緒に立たされ、いきなりパン、パン、パン、パンとやられたのである。さらに屋上へ連れていかれ、コンクリートに直接正座させられた。授業一時限の間だったから40分ほどだったと思う。置き去りにされた4人はポロポロ涙を流した。小学6年生になったばかりの頃だった。

なぜなのか。思い当たることはあった。仲良くしていたクラスメートが転校することになった。それで僕ら4人は何かプレゼントすることを思いつき、それぞれ小遣いから50円を出し合って学校帰りに繁華街のデパートへ揃って買いに行ったのである。手ごろなボールペンを買い、「明日渡そうね」と話しながらデパートを出たところに、帰宅中の出口先生とばったり。「お前たち、何しているんだ」「実は、○○君にプレゼントを買いに来たんです」先生に隠すことでもないので正直に話すと、「そうか、早く家に帰れ」僕らは先生に分かってもらえたのだと思っていた。

   

         

ところが翌朝、「昨日の4人後ろに立て」と言われたのだ。おずおずと整列すると、何も言わず、いきなりビンタが飛んできた。茫然とし、「なぜなのか」と心で問うた。「転校していく友だちにプレゼントするのは悪いことなのか」「そのため、50円出し合ったのがいけないのか」、それとも「学校帰りに繁華街へ買いに行ったのがいけないのか」。だが、どんなに考えても「悪いことをした」とは思えなかった。学生時代、柔道の選手だった体つきの先生を見ると、「なぜなんですか」と聞く勇気も出てこない。結局、悔しさをかみ殺し、声を出さず涙を流すだけだった。

子供心に抱いた「なぜ」は解けないまま過ぎ、50年ほど後に一晩泊まりの同窓会で出口先生と顔を合わせたことがあった。だが、互いにどこか気まずい風で、言葉を交わすことはなかった。やがて先生は亡くなられてしまった。この年齢となり、先生に恨みなんてあろうはずもない。ただ「なぜ」の答えがほしかった。頬をさするとビンタの痛さが蘇る。

 

三 ごめんなさい 山下先生

 

あだ名は『エス』。僕が名付けた。中学3年生の英語の授業。黒板の前には山下先生が立っていた。教師になってまだ2、3年ほどの若い女先生だった。『S』と書けば、なぜ、こんなあだ名にしたかおおよそ想像がつくはずだ。はち切れんばかりの若い女性の姿、形を見れば、ごく自然にこんなあだ名になる。中学3年生、いかにも思春期の男の子が考えそうなことだ。また、この年頃の男の子というのは女性の気をひきたくて、奇抜な行動をしたり、いたずらを仕掛けるものである。

ある日のこと。山下先生の授業が始まる前、学級委員長だった僕はクラスの皆に「今度の山下先生の授業では、何を聞かれても一切返事をしないことにしようよ。皆、どう?」そう提案すると、皆が「面白そうだ」と手を挙げてくれのだ。女子までも「いいわね」と同調したのは、なぜか分からない。ともかく満場一致のいたずら作戦となった。

                                         

授業が始まった。先生が「ここはこうで、こういう意味です。●●君分かりますか」と尋ねる。だが●●君、一言も返事をしない。「分かりますか」再度聞かれても同じだ。仕方なく別の生徒に尋ねてみたが、これまた返事なし。さすがに不審に思った山下先生。「皆、どうしたんですか」教室には先生の声が響くばかりだった。ベテランの先生だったら、そんな生徒の悪だくみなど簡単に見破り、その張本人を前に引っ張り出すことなぞ造作もなかっただろう。だが、何せ山下先生は純粋無垢な新米教師だ。生徒の悪だくみにまんまと引っかかってしまったのである。しまいにはどうしてよいのか分からず、しくしく泣き出してしまった。

若き女先生の涙、こうなるとは思いもしなかった。この悪だくみの張本人だった僕はすぐさま白旗を挙げた。立ち上がり、先生に向かって「Sorry  ごめんなさい」頭を下げた。生徒が初めて口を開いた瞬間だった。

 

四 「アラン君」はやめて

 

『ゴリカッパ』何ともひどいあだ名を、それも女性に対してつけたものだ。高校の時の音楽教師・荒木先生には申し訳ないやら、お気の毒やら。強く弁明しておくが、決して僕が名付けたものではない。いつの頃からかは知らないが、先輩たちからずっと受け継がれてきたらしい。そんなあだ名をつけられるほどの、何と言うか〝お顔立ち〟ではないと思えるのにである。

ある日の授業で、どういうことだったのか覚えてもいないが、荒木先生は全員合唱する形でフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を教え、歌わせた。そして、だいたい歌えるようになったのを見計らい、何を思われたのか知らないが「はい●●君、一人で歌ってみて」と僕を名指ししたのである。もちろんどぎまぎするばかり。そんな僕にはお構いなしに、『ゴリ……』、いや荒木先生はピアノを弾き始めた。「ええい、もう」まさに意を決して歌い始めた。

「アロン ザンファン ドゥ ラ パトリーエ」たどたどしいフランス語で、どうにか一番を歌い終えた。親友が「ヨッ」と声をかけ、拍手してくれ、それにつられるようにパラパラと続いた。以来、僕は荒木先生のお気に入りの生徒の一人になった。廊下ですれ違うと、「おはよう、アロン君」と言うものだから、近くを歩いていた女生徒2人が、「えっ」「何っ」顔を見合わせ、すかさず「ぷっ」と吹き出した。

しばらくすると、僕は生徒の間で「アラン」と言われるようになった。荒木先生が「アロン君」と言ったのを、例の女生徒が「アラン君」と聞き違え、「そう言えば●●君、アラン・ドロンにちょっぴり似てるわね」なんてことで、校内に「アラン」と広めたらしい。あの二枚目スターに! 1人にんまりするより、恥ずかしさに身がすくむ思いだった。それもこれも元はと言えば荒木先生のせい。俯き加減に廊下を歩いていると、その先生が向こうからやってきた。そして「おはよう、アラン君」と声をかけてきたのだった。

 

 

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ラストドライブ

2024-05-17 06:00:00 | エッセイ

 

最後のドライブは片道14㌔ほど、篠栗町にある『九大の森』への撮影行だった。

周囲2㌔ほどの池を広葉樹の森林が取り囲んでおり、季節に関係なく池が増水すると、

水辺の10本ほどのラクウショウという木が

水中からすくっと伸びてきたように屹立するのである。

その景観がまるでジブリの世界を思わせ、

多くの人が訪れる人気のスポットとなっている。

 

いつものように写真撮影を楽しむ妻のお供だった。

この日は朝からずっと雨が降り続いていた。

写真撮影には不向きかと思えるのだが、水面に跳ねる雨粒が

ラクウショウの木肌や葉色の緑を一層しっとりとさせ、

ジブリの世界をより際立たせる。もちろん、シャッターを押す妻の手は忙しい。

雨はしとしと降り続いている。

妻を守る傘と自身を守る2本の傘は僕の両手にある。

撮り始めて2時間経ったろうか。やっと妻は三脚をたたみ始めた。

僕の腕は雨を含んだ2本の傘の重みをかろうじてしのいだ。

 

 

翌朝、12年間連れ添った愛車が『九大の森』を最後の思い出に

買い取り業者に引き取られていった。

随分と迷いながらも、「車を運転するのは、もうよそう」やっと心を決めたのだ。

本格的に車を運転しだした40歳の頃からおよそ40年間、7台の車を乗り継いできた。

この間、大きな事故を起こしたことはない。

だが、年を取るにしたがって擦り傷など小さな傷が増えてきた。

これも老いによる衰えであろうか。

言うまでもなく老いの衰えは、足腰といった身体的なものだけではない。

人や物の名前はすぐには出てこなくなり、「この、その、あれ、どれ」

つまり「こ・そ・あ・ど」言葉で誤魔化さざるを得なくなる。

記憶力だけではなく、聴力にしても娘や孫たちがたまに我が家にやって来ると

テレビの音量に驚く。

加えれば、その画面はちらつき、ぼやけて見えづらくなってきている。

 

とりわけ視力の衰えは悩ましく、夜間に車を運転しようなんてことになると、

白線はぼやけて道路幅の感覚がつかみにくく、

左に寄れば歩道に乗り上げはしないか、

右に寄れば対向車線にはみ出すのではないかと腕・肩はコチコチとなる。

トンネル走行は言うまでもない。

昼間での運転にしても注意力がおろそかになり「はっ」とすることが多くなった。

 

 

「自分が傷つくのはともかく、他人様を傷つけるのは絶対にしてはならない」

そんな綺麗ごとみたいなことを心の中で繰り返す。

その実、「運転するのが怖くなってきた」というのが本心だろう。

「どうしようか」もやもやとしていた思いに、ついにケリをつけたのである。

引き取られていく愛車を見つめながら、「車のない生活はどうなるのだろうか。

もう妻を撮影に連れて行くことも、楽しい車中泊も出来ないな」

そんな寂しさが胸中に湧いて出る。

『九大の森』からの帰路、二人とも終始無言だった。思いは同じだったかもしれない。

免許証の有効期限は令和8年7月までだ。「返納はしないでおこう」多少の未練を許す。

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一万回のありがとう

2024-05-14 10:00:08 | エッセイ

 

 

布施明が自ら作詞・作曲した『一万回のありがとう』という歌がある。

定年退職した友人が、家で終日過ごす身になり、

「妻というのは、実に大変なんだね。

僕が仕事一筋でこれたのもそんな妻のお陰なんだというのをつくづく思ったよ」

と語ったことが、この歌になったという。

歌詞の一部には『一万回 ありがとうと 今 君に言っても 足りないほどの 

君の愛に 支えられて きたんだね 終のすみか 安らぎ 涙もろさ 

許してくれたら 僕は君を守り続ける』とあり、

つまり、さんざん苦労をかけた妻への感謝の歌なのである。

 

           

 

だが、不器用な大方の男性はどう感謝したらよいのか分からずまごつく。

地場大手企業の役員など長年経済界の第一線で活躍されたAさんが、

80歳を迎え後進に道を譲るべく退かれた。

その後もお付き合いは続けていただいており、たまにランチをご一緒したりしている。

そんな昼時の話である。

「ご無沙汰しています。お変わりありませんか」

型通りに始まった会話は、その後ほろ苦い笑いの連続となった。

まず、Aさんの返事である。

「ええ、ええ、〝妻の部下〟となって元気でやっておりますよ」

「何なのです。その〝妻の部下〟というのは?」と笑いながらも、

我が身を省みればおおよそ見当がつく何とも切ない話なのである。

「僕にはこれといった趣味もないし、ゴルフも腰を悪くしてドクターストップ中です。

たまに昔の仲間と食事する程度で、どうしても家に居る時間が長くなる。

すると妻が『掃除機をかけろ』『家の外回りを掃除しろ』などと、

あれこれ命令するわけです。まさに妻の部下ですよ。

しかも、なぜか日が経つにつれ妻の機嫌が悪くなりましてね…」

 

     

 

実を言えば僕も似たようなもので、退職した後はゴミ出し、風呂掃除は言うに及ばず、

掃除機をかけたり、食器を洗ったり、洗濯物を畳んだりとやるようになった。

ただ、料理だけは依然手つかずのまま、三食とも妻のお世話になりっ放し。

この程度の感謝の表し方だ。

これでもまだしもであろうか。中にはどうしてよいのかさっぱり分からず、

三食昼寝付きでゴロゴロしている人も多いという。

たまりかねて奥さんが一言言おうものなら、

「誰のおかげで、こんな生活が出来ているんだ。俺が懸命に働いてきたからだろう」

と開き直ってしまう。すると

「あなたが何の心配もなく仕事に打ち込めたのは、

子育てはもちろん何から何まで私がこうして家庭を守ってきたからでしょう」

と切り返されるに違いない。

 

そんなことが繰り返されると要注意信号が点く。『主人在宅ストレス症候群』だ。

「普段家にいない夫が一日中在宅するようになると、

妻は大きなストレスを抱えるようになり、

それが原因で胃潰瘍や高血圧をはじめとする身体的症状、

それにうつ・パニック障害など心理的症状を引き起こす」というのである。

 

布施明よ 俺に代わって妻にありがとうと一万回言ってくれないか──

不器用な男たちの切なる願いである。

 

 

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木の温もり

2024-05-10 06:00:00 | エッセイ

 

「高校2年生になる孫息子が、木に対して強い興味を持っていましてね。

聞きますと、幼児の頃からフランス製の木のおもちゃで遊ばせていたそうです。

物心つく頃から『木の温もり』を感じながら育った孫は、

そのような感性を持つ子に育ったのでしょうね」

自らも幼少時から木に囲まれて育ち、今も好んで木造住宅に暮らす知人は、

そう言って頬を緩めた。

 

日本は国土面積の6割強を森林が占める、

先進国の中ではフィンランドに次ぐ第2位の森林大国だ。

古代の昔から常に森林と背中合わせに暮らし、

その性質を見抜き、生かす知恵を身につけてきた。

そこから世界に誇る「木の文化」を生み出してもいる。

 

   

 

だが、林業の現実は厳しい。

2022年の産出額は5807億円と、やや増加傾向にあるが、

それでもピーク時の1980年、1兆1588億円の半分程度だ。

原因は、一言で言えば生活環境における〝木離れ〟であろう。

周囲を見渡しても分かるように、たとえば住居は、

かつては木造家屋がほとんどだったものが、

今はマンションなどに取って代わられている。

木材需要の減少を知る一例が目の前にある。

 

この林業の不振は、いろんな問題につながる。

一例が防災だ。よく「森林は緑のダム」と言われる。

スポンジのようにすき間の多い森林の土は、すき間に雨水を蓄え、

川へゆっくり送り出す。

それにより大雨が降っても洪水になりにくくしているのだ。

また樹木の枝葉や地表を覆う植物は地面の浸食を防ぐし、

根がしっかり土をつかまえているため、山崩れ(土砂崩れ)を防ぐ効果がある。

ただ、これら森林の持つ働きは、

間伐や下刈りなど適切な手入れがあってこその話だ。

その手入れには、当然人手がいる。

ところが林業が不振になると、若者の林業離れを招き、

就業者の高齢化が一段と進む。その結果、森林管理が行き届かなくなるのだ。

 

毎年のように各地で大きな豪雨被害が繰り返されている。

線状降水帯という厄介な気象現象によって川が氾濫し土砂崩れを起こす。

その原因の一つとされているのが、森林の脆弱化なのだ。

そんな危険な季節が近づいてきた。

こうした災害を防ぐにも、やはり「幼い頃から木に触れさせ、親しませる。

ここから始めよ」ということか。

 

 

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焼け跡闇市派

2024-04-30 06:00:00 | エッセイ

 

 

小学校入学時の担任は福島、結婚されて鈴木先生と言った。

何かスポーツをされていたのだろうか、色浅黒く、すらっと均整の取れた体つき。

そんなことをかすかに覚えている。

実は家から50㍍と離れていない近所の薬屋のお嬢さんだったのだ。

その福島先生は登校される際、必ず僕の家に寄ってくれ、

「た―坊(小さい頃そう呼ばれていた)、行くよ。用意できているね」

そう声を掛けてくれたのである。

何せ、先生が僕の手を引いて学校に行ってくれるのだ。

こんなこと、滅多にあるものではない。

素直に嬉しくて毎朝が待ち遠しかった。

 

作家の野坂昭如は、昭和14(1939)年から終戦の年の20(1945)年までに生まれた人を

「焼け跡闇市派」と言った。昭和17年生まれの僕は、そこに属することになる。

団塊の世代のやや先輩にあたり、昭和24、25年頃小学生になっている。

まさに戦後の混乱期の真っ只中にあった。

空襲などといった戦争の記憶はさしてないが、

食糧不足、経済的困窮の記憶ははっきりと残っている。

 

たとえば、米粒の入ったご飯をいただくことはまれで、

父の給料日翌日には、まだ小学生2、3年生だった僕が

ヤミ米一升を買いにやらされた。

その晩だけ、両親、兄、姉、それに祖母も含め9人の家族が、

お粥みたいな、それでも米粒の入ったご飯に群がったのだ。

 

    

 

また、銀行をリタイアした父は、町の小さな鉄工場の経理部長になっていた。

あいにく、朝鮮戦争後の大不況だった。

おそらく給料の遅配、欠配ということが起きていたのだろう。

夜になると、工員さんたちが家に押しかけ、叫び、怒鳴った。

僕は部屋の隅に隠れるようにして、ベソをかいた。

そんなこんなで、「ああ、貧乏は嫌だ」と思い続けながら大きくなったように思う。

 

確かに嫌な思いをすることもあったが、それでも福島先生のこととか、

足が速かった僕には運動会はまさに晴れ舞台であったとか、

小学生の時の楽しい思い出がたくさんある。

同窓会に出席する楽しみもある。

80歳過ぎの爺さん、婆さん10人ほどがワイワイガヤガヤとやっている。

そう言えば、先日書棚をゴソゴソやっていたら同窓会の時の写真が出てきた。

「焼け跡闇市派」の面々が、満面の笑顔だった。

 

 

 

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