呆気のう人はおらんようになる
姿が見えんようになれば
もう 言葉は届かん
(映画「この世界の片隅に」より)
このブログは、以下の曲(映像)を再生しながら
お読みください。
Pat Metheny - Secret Story Live (1993) - The Truth Will Always Be.
早いものだ
父が亡くなって1年になる
先日、無事 一周忌を終えた。
親類縁者が集まって御寺で読経し、その近くの飲食店で参列者をもてなす。
------------------------------------------------------------------------------------------------
父、いや、父の家系はもともと心臓が弱かった。
かつて退職後は最寄駅の焼鳥屋まで歩いて呑みに行くのが楽しみだった。
しかし、4-5年前くらいからそれも叶わなくなった。
そんな父だったから、心臓に気を使い、とある医師を信じるあまり、
その医師が他の病院に転勤すると 彼を追いかけるようにかかりつけの病院を変えた。
今思えば、それは正しくなかった。
ひとつの病院で総合的に診てもらうべきだった。
そんな父の身体で心臓以上に悪い場所があった。
そうなるとその医師は対象外で、あてにならなくなった。
昨年10月
父が手術をしようと決心したにもかかわらず、
担当医はがんが肺に転移してしまったことを告げる。
なにより高齢を理由に「不可能」と判断された。
セカンドオピニオンとして他の医師を訪ねてみても結果は同じだった。
そんな父の失意が、一気に彼を弱体化させてしまったのだろう。
昨年11月に入ると、それまで楽しみにしていた寝る前のカラオケも生きがいのクルマの運転も止めてしまい、
飲み友達に会った際も自ら「これが最後」と告げた。
7日前までは家族で外食ができたのに
5日前では立つことさえ苦難となり
4日前
母が一人で父を介助しながら家に近い総合病院へタクシーで連れてゆき、点滴だけしてもらう。
かかりつけじゃないその病院の対応は悪かったらしい。
2日前
かろうじて起きたもののずっとテーブルに顔を伏せて苦しんでいた。
父のお客さんが来るから入院を拒んでいた。
その人が帰ったあと母の友人が訪ねてきて、
「入院させなさい、このままじゃ死んじゃうよぉ」と言ってくれた。
……もう限界だった。
ボコボコに殴られているボクサーを見かねてタオルを投げるレフェリーの気分で、
母と救急車を呼び、何度もお世話になってるI総合病院に入院した。
その夜の外食時、母が肩の荷が下りたように久しぶりに落ち着いた表情をした。
1日前、
兄が来てくれて外食している時、I総合病院から父の容態の急変の連絡が入る。
昨日は普通の病室だったのに、その日は重篤患者の部屋に移されていた。
血圧計・心拍数が示された電光掲示板がいのちをか弱さを示していた。
酸素マスクが付けられ、苦しそうに呼吸する父。
この時訪ねてきた親戚に目が行き、なんとか笑顔を見せた。
その時の担当医は何度も臨終を見慣れているかのように、投げやりな対応をしてむっとした。
若い看護師たちも騒がしく雑談して、「お前ら、いのちを見守る気があるのか?」と思わずにいられなかった。
その11月某日23時、再びI総合病院から容態急変の連絡。
クルマで母と再び駆けつける。
……もう完全に意識がない。
担当医は人工呼吸をしたらしく、肋骨が折れたことを告げる。
日付が変わると、血圧・心拍数が落ちる一方だった。
午前0時台。
農家の次男坊だったが、定時制高校に通って簿記などを学んだ。
放蕩な兄と弟に何度も困らされられながらも、兄弟が運営していた会社を約35年守ってきた。
趣味がなくお酒でストレスを紛らわせながらも薄給で僕等家族を守ってくれた。
そんな不器用ながら真っ直ぐな男が、80数年の生涯を閉じた。
あっという間だった。
母が言葉をかける時間さえなかった。
そんな悲しみに浸る間もなく、病院担当医は葬儀屋を呼んで出ていけと言う。
殴ってやりたい怒りを抑えて、あらからじめ決めていた葬儀屋に連絡し、午前2時半、父を家に連れて帰る。
真夜中なのに病院に来てくれた親戚の人々と後日の葬儀の打ち合わせをして、
僕と母がどうにか床に就いたのは午前5時前だった。
それから、とにかく急流を泳いできたような日々だった。
父の預金口座分のお金の移し替え
クレジットカードや携帯電話の解約、生命保険の保険金受け取りと解約など
やるべき事がいっぱいあった。
4日後、お通夜
父と母が頑張って建て直してくれた、愛した家を去る。
告別式
もう彼の姿は無くなった。
初七日
四十九日
とにかく、残った家族で急流を泳いできたような日々だった。
そして、一周忌。
やっと落ち着いたような気がする。
------------------------------------------------------------------------------
一周忌から1週間後、
岩波ホールで映画「ガンジスに還る」を観た。
http://www.bitters.co.jp/ganges/
観終って劇場を出て、自分は父を失い、
「Father's Son(父の息子)」ではなくなっていたと痛感した。
亡くなる数年前から、父は仏教の本をよく読んでいたと言う。
お寺の住職さんたちと親交の機会を持ち、
四国や小豆島などを一緒に旅したと言う。
父が亡くなって数日後、親戚の90代のおばさん(祖母の妹)が、
「夢の中に父が来てくれた」と言う。
なのに、僕等家族には遺言などは残してくれなかった。
いや、本人は意思はあったのに時間が許してくれなかったのだろう。
父さん
父さん
今でもあなたが愛おしく、そしていなくなって淋しく思っています。
お互い不器用で口下手だったとはいえ、
もっとあなたと語り合っておくべきだったね。
自分が不甲斐ないし体質的に受け付けないけど
本当はもっと飲み明かしたかった。
飲み屋に連れて行ってくれれば、もっと楽しく話もできただろう。
僕にはまだまだ母さんを守ってゆく責任がある。
お願い、どうか僕等家族を見守っていて。
少しでも危なっかしいと思ったら、何かしら手を貸して。
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まに はんどま じんばら
はらはりたやうん
南無大師遍照金剛
南無興教大師
願わくば此の功徳を以って、遍く一切に及ぼし、
我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを
(パット・メセニーの音楽はここまでで聴き終えてください。)
さあ、歩き出さなければ。
Darkness in the heart / cococu 浜田省吾コピーバンド at 広島市南区民文化センター 2015.8.23
歌詞「J-Lyric.net」:
http://j-lyric.net/artist/a0011b4/l00918d.html
------------------------------------------------------------------------------
余談:
ちょうど父の世代でもあった作曲家&アレンジャー、ピアニストの前田憲男さんが
肺炎のため11月25日に亡くなられた。
先生から影響を受け学んだことは数知れない。
まずはご冥福をお祈りいたします。
また後日、前田先生の功績を当ブログで取り上げたいと思います。
姿が見えんようになれば
もう 言葉は届かん
(映画「この世界の片隅に」より)
このブログは、以下の曲(映像)を再生しながら
お読みください。
Pat Metheny - Secret Story Live (1993) - The Truth Will Always Be.
早いものだ
父が亡くなって1年になる
先日、無事 一周忌を終えた。
親類縁者が集まって御寺で読経し、その近くの飲食店で参列者をもてなす。
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父、いや、父の家系はもともと心臓が弱かった。
かつて退職後は最寄駅の焼鳥屋まで歩いて呑みに行くのが楽しみだった。
しかし、4-5年前くらいからそれも叶わなくなった。
そんな父だったから、心臓に気を使い、とある医師を信じるあまり、
その医師が他の病院に転勤すると 彼を追いかけるようにかかりつけの病院を変えた。
今思えば、それは正しくなかった。
ひとつの病院で総合的に診てもらうべきだった。
そんな父の身体で心臓以上に悪い場所があった。
そうなるとその医師は対象外で、あてにならなくなった。
昨年10月
父が手術をしようと決心したにもかかわらず、
担当医はがんが肺に転移してしまったことを告げる。
なにより高齢を理由に「不可能」と判断された。
セカンドオピニオンとして他の医師を訪ねてみても結果は同じだった。
そんな父の失意が、一気に彼を弱体化させてしまったのだろう。
昨年11月に入ると、それまで楽しみにしていた寝る前のカラオケも生きがいのクルマの運転も止めてしまい、
飲み友達に会った際も自ら「これが最後」と告げた。
7日前までは家族で外食ができたのに
5日前では立つことさえ苦難となり
4日前
母が一人で父を介助しながら家に近い総合病院へタクシーで連れてゆき、点滴だけしてもらう。
かかりつけじゃないその病院の対応は悪かったらしい。
2日前
かろうじて起きたもののずっとテーブルに顔を伏せて苦しんでいた。
父のお客さんが来るから入院を拒んでいた。
その人が帰ったあと母の友人が訪ねてきて、
「入院させなさい、このままじゃ死んじゃうよぉ」と言ってくれた。
……もう限界だった。
ボコボコに殴られているボクサーを見かねてタオルを投げるレフェリーの気分で、
母と救急車を呼び、何度もお世話になってるI総合病院に入院した。
その夜の外食時、母が肩の荷が下りたように久しぶりに落ち着いた表情をした。
1日前、
兄が来てくれて外食している時、I総合病院から父の容態の急変の連絡が入る。
昨日は普通の病室だったのに、その日は重篤患者の部屋に移されていた。
血圧計・心拍数が示された電光掲示板がいのちをか弱さを示していた。
酸素マスクが付けられ、苦しそうに呼吸する父。
この時訪ねてきた親戚に目が行き、なんとか笑顔を見せた。
その時の担当医は何度も臨終を見慣れているかのように、投げやりな対応をしてむっとした。
若い看護師たちも騒がしく雑談して、「お前ら、いのちを見守る気があるのか?」と思わずにいられなかった。
その11月某日23時、再びI総合病院から容態急変の連絡。
クルマで母と再び駆けつける。
……もう完全に意識がない。
担当医は人工呼吸をしたらしく、肋骨が折れたことを告げる。
日付が変わると、血圧・心拍数が落ちる一方だった。
午前0時台。
農家の次男坊だったが、定時制高校に通って簿記などを学んだ。
放蕩な兄と弟に何度も困らされられながらも、兄弟が運営していた会社を約35年守ってきた。
趣味がなくお酒でストレスを紛らわせながらも薄給で僕等家族を守ってくれた。
そんな不器用ながら真っ直ぐな男が、80数年の生涯を閉じた。
あっという間だった。
母が言葉をかける時間さえなかった。
そんな悲しみに浸る間もなく、病院担当医は葬儀屋を呼んで出ていけと言う。
殴ってやりたい怒りを抑えて、あらからじめ決めていた葬儀屋に連絡し、午前2時半、父を家に連れて帰る。
真夜中なのに病院に来てくれた親戚の人々と後日の葬儀の打ち合わせをして、
僕と母がどうにか床に就いたのは午前5時前だった。
それから、とにかく急流を泳いできたような日々だった。
父の預金口座分のお金の移し替え
クレジットカードや携帯電話の解約、生命保険の保険金受け取りと解約など
やるべき事がいっぱいあった。
4日後、お通夜
父と母が頑張って建て直してくれた、愛した家を去る。
告別式
もう彼の姿は無くなった。
初七日
四十九日
とにかく、残った家族で急流を泳いできたような日々だった。
そして、一周忌。
やっと落ち着いたような気がする。
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一周忌から1週間後、
岩波ホールで映画「ガンジスに還る」を観た。
http://www.bitters.co.jp/ganges/
観終って劇場を出て、自分は父を失い、
「Father's Son(父の息子)」ではなくなっていたと痛感した。
亡くなる数年前から、父は仏教の本をよく読んでいたと言う。
お寺の住職さんたちと親交の機会を持ち、
四国や小豆島などを一緒に旅したと言う。
父が亡くなって数日後、親戚の90代のおばさん(祖母の妹)が、
「夢の中に父が来てくれた」と言う。
なのに、僕等家族には遺言などは残してくれなかった。
いや、本人は意思はあったのに時間が許してくれなかったのだろう。
父さん
父さん
今でもあなたが愛おしく、そしていなくなって淋しく思っています。
お互い不器用で口下手だったとはいえ、
もっとあなたと語り合っておくべきだったね。
自分が不甲斐ないし体質的に受け付けないけど
本当はもっと飲み明かしたかった。
飲み屋に連れて行ってくれれば、もっと楽しく話もできただろう。
僕にはまだまだ母さんを守ってゆく責任がある。
お願い、どうか僕等家族を見守っていて。
少しでも危なっかしいと思ったら、何かしら手を貸して。
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まに はんどま じんばら
はらはりたやうん
南無大師遍照金剛
南無興教大師
願わくば此の功徳を以って、遍く一切に及ぼし、
我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを
(パット・メセニーの音楽はここまでで聴き終えてください。)
さあ、歩き出さなければ。
Darkness in the heart / cococu 浜田省吾コピーバンド at 広島市南区民文化センター 2015.8.23
歌詞「J-Lyric.net」:
http://j-lyric.net/artist/a0011b4/l00918d.html
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余談:
ちょうど父の世代でもあった作曲家&アレンジャー、ピアニストの前田憲男さんが
肺炎のため11月25日に亡くなられた。
先生から影響を受け学んだことは数知れない。
まずはご冥福をお祈りいたします。
また後日、前田先生の功績を当ブログで取り上げたいと思います。