1995/01/17 阪神淡路大震災 地震発生の瞬間
関西で唯一生放送していた朝日放送のスタジオ~大きな被害が出た神戸
【まいにち防災】/ Great Hanshin-Awaji Earthquake
https://youtu.be/rTqH75f1d30
「満月の夕(ゆうべ)」 作詞・作曲:中川敬・山口洋
風が吹く港の方から
焼け跡を包むようにおどす風
悲しくて全てを笑う
乾く冬の夕
夕暮れが悲しみの街を包む
見渡すながめに言葉もなく
行くあてのない怒りだけが
胸をあつくする
声のない叫びは煙となり
風に吹かれ空へと舞い上がる
言葉にいったい何の意味がある
乾く冬の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
絶え間なくつき動かされて
誰もが時代に走らされた
すべてを失くした人はどこへ
行けばいいのだろう
それでも人はまた 汗を流し
何度でも出会いと別れを繰り返し
過ぎた日々の痛みを胸に
いつか見た夢を目指すだろう
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
解き放て 命で笑え 満月の夕
オリジナルアルバム『1995』(現在廃盤)
およびベストアルバム『Long Long Way ~1990-2001』に収録
決して忘れることはないだろう
朝の地震のあと テレビで見た、まるで爆撃にでも遭ったようなつぶれた家並み
夕方に火事の炎と煙に包まれた神戸の街を
あの日を忘れない。
俺たちは今も道の途中だ。
2015年1月追記(ウィキペディア解説より)作品背景:
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の惨状、復興への厳しい現実、
それらに向き合おうとする被災地の人々の姿が歌い込まれている。
(震災当日の夜、満月がのぼっていた)
関西に活動拠点を置くソウル・フラワー・ユニオンは、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットという別動隊バンドで、
被災した阪神各地の避難所を数多く訪れ慰問ライブを行っている
(1995年だけでそのライブの回数は百回を越えている)。
ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とヒートウェイヴの山口洋はかねてより親交が深かった
(「盟友関係にあった」といってもよい)。
その中川に招かれて被災地を訪れた山口もまた、その惨状を目にして思わず言葉を失ったという。
同年2月10日、被災地の神戸で慰問ライブ活動を開始したソウル・フラワー・モノノケ・サミットの中川が、
2月14日、神戸市長田区の南駒栄公園で行ったライブの光景を元に、
山口と作った主旋律の一部に乗せて一気に書き上げた。
その日の神戸の空には、震災から丸一か月の満月が浮かんでおり、
最大余震の到来が噂される中、ライブを観る被災者たちが口々に「満月を見るの、怖いわ」と言っていたのを中川が耳にしたことから、
この唄は産まれている。
ヒートウェイヴのヴァージョンは、同年3月にソウル・フラワー・ユニオンの同曲を聴いた山口が、
自身の住む東京から見た被災地への思いを「書き足した」もので、
中川、山口両者ともに、現場の違い(神戸・東京)により産まれたお互いのヴァージョンを認め合っている。
余談:
それにしても、21世紀に入って「24bit方式」「DSD方式」マスタリングが当たり前になるまでのCDって、
「音が良いとは言えない」のが多かったねえ、解像度にせよ立体感にせよ。
『1995』のCDを聴きながら改めて思った。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
2024年1月追記:
「阪神大震災から29年。
いつもは寝ている時間なのに、地震の前に目が覚めたことを今でも覚えています。
神戸市長田区に住んでいた夫の祖父は、倒壊した家の下敷きになって亡くなり、
復興の過程で家族のようだったご近所もバラバラになってしまいました。
阪神大震災も今回の能登地震も真冬の1月。
多くの人が厳しい寒さの中で避難生活を余儀なくされ、
食料やトイレ、毛布などの不足が深刻な問題である点は、
29年前も今も変わっていません。
防災の専門家からも「29年前の教訓が生かされなかった」との声が相次いでいます。
地震大国の日本では、防災対策にしっかりと財政投資し、
命と暮らしを守らなくてはなりません。
また、専門的な知見を持ったボランティアや
地域のコミュニティによる「共助」と
国や自治体による「公助」が
災害発生時に素早く連携できるようにする必要があると、
改めて感じています。」
長谷川ういこさん(れいわ新選組)のツイートより。
「山本太郎代表が街宣時、災害庁の必要性をたびたび訴えています。
29年経過、東北大震災から12年経過も災害庁はできず。
真冬なのにいまだに体育館に雑魚寝。
勝負の72時間に間に合わず、また災害関連死も。
初動の遅れ、指揮系統がバラバラという情報も。
岸田さん(現首相)、憲法改正より災害庁を
#災害庁設立を」
政子さん(元看護士)のツイートより。
「関西は地震ないよ。
ずっとそう聞かされて安心しきって備えもしてませんでした。
当時MBSだけが能勢の群発地震に着目して報道していましたが
まさか大地震が襲うなんて。
実家は豊中市でしたが道を一本隔てて家が崩れた所もあり、
コミュニティはズタズタになりました。
なぜ教訓が生かされないのか?
悔しい」
passista-k さんのツイートより。
「6434人の犠牲者、家屋全半壊(焼)約47万世帯という
甚大な被害をもたらした阪神・淡路大震災(1995年)から
1月17日で29年となります。
1月1日に発生した能登半島地震の被災者の状況は、
阪神・淡路大震災と同じだと言われ、
阪神・淡路の悲劇を繰り返さないためにその教訓を生かすことが求められていましたが、
政府は水や温かい食事、暖房設置、
仮設のお風呂、段ボールベット配置など
被災者に寄り添った対応を (#緊縮財政 の影響で事前の備えが悪く)
早く進めることができませんでした。
「大軍拡よりも地震・津波・経済対策に予算を」の声が
大震災津波を経験した多くの県民の願いだと力を込めて思います。」
政府の赤字はみんなの黒字 さんのツイートより。
「「失われた30年」で失ったものは経済成長だけでしょうか?
考えさせられます。」
篠原彰 さんのツイートより。
⇒明らかに為政者・国民一人ひとりの”思いやり”だと、自分は思います。
----------------------------
2020年5月追記:
五代目、網手 さんのコメントより
「この地震は忘れません。
友人の家に泊まりに行ってた日でした。
私の命があるのは友人の姉から与えられた命です。
私も友人もまだ幼いため、友人には個別の部屋がなく、私は友人の姉の部屋に寝ることになりました。
昔からよく知った友人姉でしたが子供嫌いで、今で言う“不良少女”でした。
親とも口をほとんどきかないらしく、その姉の部屋で私が寝るって話しが出ただけで大喧嘩になって、
泊まりきた私がその場に居づらくなったぐらいです。
その夜に地震がおきました。
揺れと地鳴りなのか、物が崩れ落ちていく音なのか一瞬で目の前は砂ぼこりになりました。
友人親の叫び声とか聞こえてくると同時に
(行け…ほふく前進なら行けるはず…)と、
友人姉が私の上に覆いかぶさるように、天井のがれきと柱から守ってくれてることに気付きました。
私は泣きながらほふく前進で、
友人姉が作ってくれた隙間を進み、がれきの中からのがれました。
その友人姉と最後にかわした言葉が
(母さんに、最後に喧嘩してごめんっ、て伝えといてや) って言葉でした。
ほふく前進しながら進んでいく私に言っていた言葉です。
この地震で友人の父と姉がなくなりました。
友人父はがれきで即死。
姉は救助隊がくるまでの余震でさらに崩落して助かりませんでした。
のちに消防、警察が調べた結果、友人姉が寝ていた場所にはスペースがあり、がれきが落ちた様子はなく、
私が寝ていたとこはがれきの山でした。
その話しを聞いた時にまた涙がとまらず、
申し訳なさと友人姉の本来の優しさがとっさに私を守る行動にでたのだと思いました。
この助けられた命を感謝と涙と共に日々大事に生きています。
自然の震災はけして止められるものでもありません。
いつ起きるかもわかりません。
だから命を大切にしてください。
そして私は友人姉のように誰かのために命をかけることはできない人間ですが、
誰かのために些細な優しさや、助けになれるようにしていきたいです。
いま世間はコロナで感染が広がり、死者も沢山でてます。
震災と変わらない状況にもなってます。
どうか皆さん、
自粛はしんどいかもしれません、
先行きがわからなく不安があるかもしれません、
明日、明後日、1か月後の生活が見えないかもしれません。
でもいまある1つの命を大事に考えてみてください。
周りの人が自分の家族だったかも、愛する恋人だったかもと考えてください。
誰かのために、自分のために。
皆さん今よりあと少しでいいので踏ん張ってみてください。
長々と失礼いたしました。 」
支えてくれた人のために 祈りましょう。
愛してくれた人を思いながら 前を向いて歩いていきましょう。
HEATWAVE "満月の夕"
関西で唯一生放送していた朝日放送のスタジオ~大きな被害が出た神戸
【まいにち防災】/ Great Hanshin-Awaji Earthquake
https://youtu.be/rTqH75f1d30
「満月の夕(ゆうべ)」 作詞・作曲:中川敬・山口洋
風が吹く港の方から
焼け跡を包むようにおどす風
悲しくて全てを笑う
乾く冬の夕
夕暮れが悲しみの街を包む
見渡すながめに言葉もなく
行くあてのない怒りだけが
胸をあつくする
声のない叫びは煙となり
風に吹かれ空へと舞い上がる
言葉にいったい何の意味がある
乾く冬の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
絶え間なくつき動かされて
誰もが時代に走らされた
すべてを失くした人はどこへ
行けばいいのだろう
それでも人はまた 汗を流し
何度でも出会いと別れを繰り返し
過ぎた日々の痛みを胸に
いつか見た夢を目指すだろう
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
解き放て 命で笑え 満月の夕
オリジナルアルバム『1995』(現在廃盤)
およびベストアルバム『Long Long Way ~1990-2001』に収録
決して忘れることはないだろう
朝の地震のあと テレビで見た、まるで爆撃にでも遭ったようなつぶれた家並み
夕方に火事の炎と煙に包まれた神戸の街を
あの日を忘れない。
俺たちは今も道の途中だ。
2015年1月追記(ウィキペディア解説より)作品背景:
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の惨状、復興への厳しい現実、
それらに向き合おうとする被災地の人々の姿が歌い込まれている。
(震災当日の夜、満月がのぼっていた)
関西に活動拠点を置くソウル・フラワー・ユニオンは、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットという別動隊バンドで、
被災した阪神各地の避難所を数多く訪れ慰問ライブを行っている
(1995年だけでそのライブの回数は百回を越えている)。
ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とヒートウェイヴの山口洋はかねてより親交が深かった
(「盟友関係にあった」といってもよい)。
その中川に招かれて被災地を訪れた山口もまた、その惨状を目にして思わず言葉を失ったという。
同年2月10日、被災地の神戸で慰問ライブ活動を開始したソウル・フラワー・モノノケ・サミットの中川が、
2月14日、神戸市長田区の南駒栄公園で行ったライブの光景を元に、
山口と作った主旋律の一部に乗せて一気に書き上げた。
その日の神戸の空には、震災から丸一か月の満月が浮かんでおり、
最大余震の到来が噂される中、ライブを観る被災者たちが口々に「満月を見るの、怖いわ」と言っていたのを中川が耳にしたことから、
この唄は産まれている。
ヒートウェイヴのヴァージョンは、同年3月にソウル・フラワー・ユニオンの同曲を聴いた山口が、
自身の住む東京から見た被災地への思いを「書き足した」もので、
中川、山口両者ともに、現場の違い(神戸・東京)により産まれたお互いのヴァージョンを認め合っている。
余談:
それにしても、21世紀に入って「24bit方式」「DSD方式」マスタリングが当たり前になるまでのCDって、
「音が良いとは言えない」のが多かったねえ、解像度にせよ立体感にせよ。
『1995』のCDを聴きながら改めて思った。
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2024年1月追記:
「阪神大震災から29年。
いつもは寝ている時間なのに、地震の前に目が覚めたことを今でも覚えています。
神戸市長田区に住んでいた夫の祖父は、倒壊した家の下敷きになって亡くなり、
復興の過程で家族のようだったご近所もバラバラになってしまいました。
阪神大震災も今回の能登地震も真冬の1月。
多くの人が厳しい寒さの中で避難生活を余儀なくされ、
食料やトイレ、毛布などの不足が深刻な問題である点は、
29年前も今も変わっていません。
防災の専門家からも「29年前の教訓が生かされなかった」との声が相次いでいます。
地震大国の日本では、防災対策にしっかりと財政投資し、
命と暮らしを守らなくてはなりません。
また、専門的な知見を持ったボランティアや
地域のコミュニティによる「共助」と
国や自治体による「公助」が
災害発生時に素早く連携できるようにする必要があると、
改めて感じています。」
長谷川ういこさん(れいわ新選組)のツイートより。
「山本太郎代表が街宣時、災害庁の必要性をたびたび訴えています。
29年経過、東北大震災から12年経過も災害庁はできず。
真冬なのにいまだに体育館に雑魚寝。
勝負の72時間に間に合わず、また災害関連死も。
初動の遅れ、指揮系統がバラバラという情報も。
岸田さん(現首相)、憲法改正より災害庁を
#災害庁設立を」
政子さん(元看護士)のツイートより。
「関西は地震ないよ。
ずっとそう聞かされて安心しきって備えもしてませんでした。
当時MBSだけが能勢の群発地震に着目して報道していましたが
まさか大地震が襲うなんて。
実家は豊中市でしたが道を一本隔てて家が崩れた所もあり、
コミュニティはズタズタになりました。
なぜ教訓が生かされないのか?
悔しい」
passista-k さんのツイートより。
「6434人の犠牲者、家屋全半壊(焼)約47万世帯という
甚大な被害をもたらした阪神・淡路大震災(1995年)から
1月17日で29年となります。
1月1日に発生した能登半島地震の被災者の状況は、
阪神・淡路大震災と同じだと言われ、
阪神・淡路の悲劇を繰り返さないためにその教訓を生かすことが求められていましたが、
政府は水や温かい食事、暖房設置、
仮設のお風呂、段ボールベット配置など
被災者に寄り添った対応を (#緊縮財政 の影響で事前の備えが悪く)
早く進めることができませんでした。
「大軍拡よりも地震・津波・経済対策に予算を」の声が
大震災津波を経験した多くの県民の願いだと力を込めて思います。」
政府の赤字はみんなの黒字 さんのツイートより。
「「失われた30年」で失ったものは経済成長だけでしょうか?
考えさせられます。」
篠原彰 さんのツイートより。
⇒明らかに為政者・国民一人ひとりの”思いやり”だと、自分は思います。
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2020年5月追記:
五代目、網手 さんのコメントより
「この地震は忘れません。
友人の家に泊まりに行ってた日でした。
私の命があるのは友人の姉から与えられた命です。
私も友人もまだ幼いため、友人には個別の部屋がなく、私は友人の姉の部屋に寝ることになりました。
昔からよく知った友人姉でしたが子供嫌いで、今で言う“不良少女”でした。
親とも口をほとんどきかないらしく、その姉の部屋で私が寝るって話しが出ただけで大喧嘩になって、
泊まりきた私がその場に居づらくなったぐらいです。
その夜に地震がおきました。
揺れと地鳴りなのか、物が崩れ落ちていく音なのか一瞬で目の前は砂ぼこりになりました。
友人親の叫び声とか聞こえてくると同時に
(行け…ほふく前進なら行けるはず…)と、
友人姉が私の上に覆いかぶさるように、天井のがれきと柱から守ってくれてることに気付きました。
私は泣きながらほふく前進で、
友人姉が作ってくれた隙間を進み、がれきの中からのがれました。
その友人姉と最後にかわした言葉が
(母さんに、最後に喧嘩してごめんっ、て伝えといてや) って言葉でした。
ほふく前進しながら進んでいく私に言っていた言葉です。
この地震で友人の父と姉がなくなりました。
友人父はがれきで即死。
姉は救助隊がくるまでの余震でさらに崩落して助かりませんでした。
のちに消防、警察が調べた結果、友人姉が寝ていた場所にはスペースがあり、がれきが落ちた様子はなく、
私が寝ていたとこはがれきの山でした。
その話しを聞いた時にまた涙がとまらず、
申し訳なさと友人姉の本来の優しさがとっさに私を守る行動にでたのだと思いました。
この助けられた命を感謝と涙と共に日々大事に生きています。
自然の震災はけして止められるものでもありません。
いつ起きるかもわかりません。
だから命を大切にしてください。
そして私は友人姉のように誰かのために命をかけることはできない人間ですが、
誰かのために些細な優しさや、助けになれるようにしていきたいです。
いま世間はコロナで感染が広がり、死者も沢山でてます。
震災と変わらない状況にもなってます。
どうか皆さん、
自粛はしんどいかもしれません、
先行きがわからなく不安があるかもしれません、
明日、明後日、1か月後の生活が見えないかもしれません。
でもいまある1つの命を大事に考えてみてください。
周りの人が自分の家族だったかも、愛する恋人だったかもと考えてください。
誰かのために、自分のために。
皆さん今よりあと少しでいいので踏ん張ってみてください。
長々と失礼いたしました。 」
支えてくれた人のために 祈りましょう。
愛してくれた人を思いながら 前を向いて歩いていきましょう。
HEATWAVE "満月の夕"