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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その29

〈各地での混乱について(1945年8月17日)〉
 
 
 こうした混乱のなかでうわさがうわさを生み、これが兵隊たちの口から口へ無秩序に広がっていった。某部隊に中国側の軍使がきて武装解除を要求したのでこれを捕えて斬首した-、本国は敗れても中支軍はまだ充分な戦力を持っているので現地に第二の日本をつくるのだ-、各部隊は当面の中国軍に対して今まで通りの戦闘態勢をとれと総軍司令部から命令が出た-、中支軍は最後の斬りこみをかけて玉砕することになった-、このような支離滅裂なデマやうわさが乱れとんだ。そのうえ上層部がひたかくしにしていた広島、長崎の原爆被災のニュースが流れたために、いよいよ収拾がつかない混乱状態となった。   
 
 十七日の正午すぎ、残務整理のため宜章に残っていた森下曹長、荒花、東兵長たちが無事に引き揚げてきた。彼らの報告によれば、宜章方面は収拾がつかない混乱状態となって、宜章備隊は十五日夜、敵陣へ斬りこみをかけたまま、今になっても一人も帰ってこないが、おそらく中村中尉以下全員玉砕したらしいとのことだった。私はかつて中村中尉が語っていた言葉を思いだした。私は中尉の覚悟に対してある種の感慨を禁じ得なかった。   
 
 しかし、もし玉砕が事実だとしたら、何という悲惨なことだろうか。私は中尉の心情に共鳴するところはあるものの、その部下たちは全員納得のうえ斬りこみに参加したのかどうか疑問だった。命令にそむくことを許されない彼らの立場に思いをはせれば、暗澹たる思いにとらわれずにはいられなかった。中尉の行為は軍人として尊敬にあたいするかも知れないが、敗戦が決まった今となって、部下をひきいて玉砕し、有為の青年たちの尊い命を捨てても無意味であろう。私は、故郷で彼らの帰りを待ちわびる家族のためにも、彼らが何とか無事に帰還してくれるように祈った。(253-254頁)
 
 
 
 
 
〈漢奸としての慰安婦(1945年8月19日)〉
 
 
 来陽へついて乗船の手続きをとり、二日ほど待機することになった。イ(管理人注-変換漢字なし)県方面にいた慰安婦たちが私たちより先について乗船の順番を待っていた。その夜、二十歳前後の可愛いい顔をした姑娘(クーニャン)が私をたずわてきた。場所が場所だけにどこの娘かと一瞬とまどったが、よく見ると彼女は白石渡の慰安所で働いていた女であった。彼女らも今は漢奸(かんかん=中国では敵に協力する者、スパイ、売国奴などを漢奸と呼ぶ)として追われる身となり、雇い主とともに漢口まで帰るところだという。   
 
 彼女は必死の形相で「私は漢口へ帰っても父母も身よりもいない。これからどうして生きていったらよいのかわからないのです。どうぞお願いだから日本へ連れて行って下さい」とせがんだ。私は、彼女も死んだ少蘭と同じ孤児であることを知り、この人たちもみな戦争の犠牲者なのだ、と思うと急に哀感が胸にこみあげてきた。(254-255頁)
 
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