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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その13

〈南昌での米の徴発(1939年3月)〉
 
 
 市街は一部をのぞいてほぼ完全な姿で残っていたが、占領後数日のあいだに、軍の徴発と心ない兵隊たちの失火によってかなり荒らされてしまった。しかし一ヵ月近くだつと治安も次第におさまり、いち早く軍に追従してきた邦人の商人たちがポツポツと小さな店をひらきはしめた。他に先がけて開店したのは、ぜんざい屋だった。使っている家はもちろん逃げ去っている中国人の店で、テーブルや椅子をはじめ材料のあずき、砂糖などはあちこちの店をかきまわし、無断で頂戴してきたしろものであった。これが長い作戦で甘いものに飢えていろ兵隊たちには大うけで、一杯のぜんざいをもとめるために長い行列をつくるほどの大繁盛だった。   
 
 その後ぞくぞくと商人たちがやってきて、民徳路から中山路にかけ雨後のタケノコのように酒場や食堂が軒をならべた。彼らはほとんど裸同然の姿でやってくるのだが、うまくいけば一,二年のあいだに巨万の富を手に入れた。   
 
 ポツポツと復帰してくる市民のために、難民収容所や孤児院も作られた。しかし、はやばやと帰ってくる者はすべてその日の食にも困る者が多く、たちまちのうちに食糧の調達に困った。コウ(管理人注-漢字変換なし)江上流十キロほどの生米街(ぜいまいがい)に中国軍の糧株貯蔵庫があるという情報を得た憲兵隊は、さっそくここを奇襲して彼らの貯蔵米を奪取することになった。まず、船がなくてはどうにも手の打ちようがないので、この地方きっての徳望家といわれる善政郷の郷長丁文仁(テンウンレン)氏をたずねて協力を頼むことになった。丁氏はこころよく承諾して、さっそく数隻の民船と船頭たちをさしむけてくれた。   
 
 奇襲は計画通りに成功し、大量の米を手に入れた私たちは、長居は無用とはやばやと生米街をたち善政郷まで引きあげた。きけばこの村も中国軍の苛酷な徴発により食糧難であるということで、私たちは作戦協力にたいするお礼の意昧もふくめて、獲得量の約三分の一を分けあたえた。この軍民協力による敵産奪取作戦は、村民と中国軍とのつながりをはっきりたち切った。村民たちのなかには息子を兵隊にとられ、または中国軍に通じていたものもあったであろうが、その後はこれら村民個々の意志にかかわらず、日本軍一辺倒とならざるを得ないようになり、軍への農産物の供給や情報の提供などの面で非常によい結果を生んだ。(140-141頁)
 
 
 
 
 
〈憲兵の任務としての郵便物の検閲(1939年8月1日)〉
 
 
 八月一日には憲兵伍長に任官した。任官と同時に南昌憲兵分隊へ復帰して野戦郵便局へ出張し、軍人、軍属の発送する郵便物の検閲にあたったが、八月十五目には九江憲兵隊本部特高課(憲兵隊長・原松一中佐、特高課長・三枝中尉)へ転勤を命ぜられた。   
 
 九江隊本部へ赴任すると、私の仕事はここでも郵便物検閲係であった。こんどは軍事郵便にあわせ、情報収集と防諜のため、中国人や在留邦人たちの受発送する郵便物を検閲するので、午前中は野戦郵便局、午後は中国郵政局(南京政府側郵便局)と、たった一人、かけもちで検閲した。しかしこの仕事もさしたる成果もあがらぬうちに、私はまたまた南昌分隊へ転出となった。(143頁)
 
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