昼のみの営業として夜はお休みさせていただきます。
11時から14時迄の営業とし、お客様、3組~4組までとさせていただきます。
お客様1組、おひとりさま~4名さまとさせて頂きます。
組数に達した場合は、昼の時間14時前でも営業を終了させていただきます。
うすい山荘の当主、臼井博隆は、
千葉から臼井へ
千葉氏の項で説明したように、千葉氏の始まりについては様々な説があるが、一般的に租は平良文ということになっている。ところが、上記の臼井氏の由来記によれば、臼井氏(千葉氏)の元祖は良文の兄である良兼であり、良兼の孫が致頼(むねより)、致頼の孫が忠常ということになっている。良兼の妻が菅原道真の娘であったかどうかは他に資料がないが、道真公(菅公)との血統的つながりを願って後孫が作った話であろうか。しかし千葉氏の租を良兼とする説もあるから真実はわからない。その後も臼井氏が自他共に道真公との縁を意識しているのを見れば、何らかの関係があったことは事実だろう。
臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔
臼井の名は常安の代に現在の千葉県印旛沼の近くの臼井庄を領したところから始まった。臼井の地名は現在も残っており、常安は1114年(永久2年)にここに居を構えたという。
源頼朝と臼井氏──筑前国碓井荘を受領するまで
臼井氏は千葉介・上総介などとともに頼朝に仕えた。頼朝の挙兵時は勿論、その後の平氏追討の時も西国に転戦し、又奥州の戦にも参戦している。
1180年の頼朝挙兵以来、政権確立へ向けて戦が続いたが、1184年(寿永3年)一ノ谷の合戦で勝利すると、頼朝の優勢は不動のものとなった。頼朝は腹違いの弟範頼(のりより)を大将に立て九州の豪族達を組み込み、四国にいる平氏を討伐するよう命じたので、千葉一族も範頼に従って西国に出兵した。 しかし、もともと九州四国は平家の地盤であったため、四国から九州に渡る船を確保するにも難儀し、九州を固めるのも容易ではなかった。遠征は困難を極め、帰還を願う者達も多くなるばかりであった。一方この頃までにはかつて平家方であった者たちの中にも、平家の独裁に対して不満を持つ者たちもかなり多くいた。 範頼はその者たちの手を借りて、どうにか軍勢を九州に上陸させた。これを期に東から義経率いる軍勢が押し寄せる。平家は逃げ場を失って壇ノ浦で滅んだ。
『臼井氏系圖』には臼井常安が「文治の頃源頼朝に随い勲功有り文治3年(1187年)筑前国嘉麻郡馬見荘、碓井荘500町を賜る」と書かれている。 千葉氏とともに奮戦した功績を認められてのことと思われる。この時常安は元々の所領であった千葉臼井荘と同じ名前の領地を得て喜んだという話である。
天然車えび料理専門
うすい山荘、臼井博隆
電話 083-984-2426