当家のルーツは九州にて17代、山口県秋穂で10代、計27代続く医師の家系です。
江戸時代の初期から、
1623年(元和9年)、山口県山口市秋穂(あいお)の地で
臼井(うすい)医院として元和9年から開院し400年近く続きました。
山口県で一番古い医師の家系です。
秋穂の初代から10代目までが、医師でした。
山口県秋穂で12代目当主、
臼井博隆(うすい山荘2代目)(九州から、数えるえると29代目)
1623年、秋穂の初代
太平の世へと向かう江戸時代初期
瀬戸内海・秋穂の沖合を臼井家の乗った大船が航行中、山口県秋穂の回船問屋・小林家の船と遭遇し、
小林家の当主のたっての頼みを受け、山口県秋穂で医者のいなかった秋穂で医業を開く、
(キリスト教の信仰を持っていたと伝えられている)
以来、代々、長州藩の藩医として召し抱えられる。
長州藩は、「三本の矢」の逸話で知られる毛利元就の末裔、毛利家を藩主とする。
臼井氏は本姓は千葉といい平氏である。
祖先は桓武天皇から出た天皇の御子 葛原親王(かずらわしんのう)(786~853)である。
臼井(うすい)家の元祖、臼井六郎常康(1106~1186)です。
千葉県にあった臼井(うすい)城の当主でした。
臼井氏は千葉一族のなかでも最も古く、
平安時代後期に千葉氏から分かれた一族である。
同じころに千葉氏から分流した白井・匝瑳・海上氏などが勢力を衰えさせたのちも、
印旛郡臼井庄の臼井城(千葉県佐倉市臼井田字城内)を中心に栄えた。
臼井の名は常安の代に現在の千葉県印旛沼の近くの臼井庄を領したところから始まった。
臼井の地名は現在2021年(令和3年)も残っており、常安は1114年(永久2年)にここに居を構えたという。
以下に九州筑前国の「臼井氏由来記」を転記する。
臼井氏の祖が臼井常安であることは、どの文献においても変わりないが、
その他の部分においては文献によって様々な違いがあり、諸説は後に述べることにする。
以下は「由来記」を原文を壊さない範囲で簡単な表現に変えたものである。
臼井氏は本姓は千葉といい平氏である。
祖先は桓武天皇から出た天皇の御子 葛原親王(かずらわらしんのう)である。
葛原親王は四品に叙して式部卿となった。
葛原親王の子は高見、孫は高望という。
高望は平氏の姓を賜り上総介となる。
高望には四人の子があって、國香・良将・良兼・良文といったが、武士となって東門守介或いは鎮守府将軍を任ぜられる。
國香の子は貞盛、良将の子は将門である。
良兼は上総介であり、すなわち 臼井家の元祖である。
良兼の妻は右大臣菅原道真公の娘で道真公左遷の時 父を慕って播州まで後を追った。
曽根相公はその孝に感心し、道真公の画像を 写して娘に授けたという。
これが千葉家より臼井家に伝わっている。
良兼の孫は致頼(むねより)平太夫と号して下総国千葉に住んだので千葉姓を名乗った。
致頼は勇敢で平貞盛の子維衡(これひら)・源頼信・藤原保昌(やすまさ)らとともに四天王と称された。
致頼の孫、忠常千葉前上総介は長元元年に乱を起して討伐軍と戦うが、後に源頼信に降伏した。
忠常の曽孫常兼従五位下上総介の三男常安(常康)は千葉六郎と号し長寛二年総州臼井を領し臼井六郎と改めた。
これを臼井姓の始めとする。
医業と車えび料理…かけ離れているようで、当地・秋穂の風土への愛着に基づくことには変わりありません。
幼い頃に医師であった父を、そして戦争で多くのものを失った母が一念発揮して開いた当店。
妻と引き継いだ時には秋穂名物の・車えびは、養殖・天然ともに知名度が低く「なにもない」と言えるような状態でした。
しかし皆様のお力添えもあり、今ではお客様が増え、現在では「この味が忘れられない」と重ねてご来店になるお得意様が絶えません。(2020年12月現在)
福岡県福岡市の西日本新聞社のうすい山荘の日曜版の記事が昭和58年9月18日に出て以降、8年かかって母凉子と私博隆の2人で全国的に車えび料理を有名にすることができました。