昨年12月の或る晴れた午後のこと。
道後公園の内堀にて鯉に餌を与えながら、10数メートル
先のブランコ乗り場で遊んでいる小学一年生らしき児童ら
5・6人の会話に仰天の事実を知った私。
当ブログに書きたくてうずうずしていたのだが、こんなにも
楽しい話は新年に相応しいのではと思い、本日まで取って
置いた次第である。
出羽の国から伊予の国に移住し、以来約14年、伊予の男
たちの一人称に、私は興味と疑問と不快感を抱いてきた。
だって40代も70代も「僕」なんだから不思議じゃないか。
「儂・わし」を使う60代も知っているが、彼は元不良と自ら
言っていたので、「儂」も伊予人・一人称の可能性はある。
そう言えばヒコロヒーも「儂」だから、愛媛県では不良たちの
メジャーな一人称が「儂」なのかもしれない。
私の想像としては沖縄県の悪しき「放言札」のように、愛媛
県教育委員会が、「男の子は僕と言いなさい教育」を押し
付けた結果、全世代で「僕」になってしまったと想っている。
ここで少しだけ「放言札」の説明をしたい。
沖縄県教育委員会は本土人に近付くべく、ウチナーグチ
禁止令を子供たちに強いた暗い過去がある。つい放言を
しゃべった児童の首に木の札を罰として下げたのである。
それが放言札なのだが、昭和27年生まれの警備員さんが
「私が小学校の頃も札はあったよ」と聞いて私は仰天した。
ということは、放言札を禁止してからもやっていたのだ。
結論として、どちらも話せればいいわけで、言葉の強制は
文化の否定であり、かつての日本が朝鮮半島・台湾・東南
アジアでやった民族の否定であり、恨みの種にもなるのだ。
あっ、前置きが長くなってしまった。
ブランコで遊んでいた子供たちは、全員「俺」と言っていた
のであり、だれ一人として「僕」は居なかった。
そうか、令和の伊予人は「俺」になってる、と興奮したわけ。
何故なら、明治の伊予人である正岡子規は「あし」と言って
いたからである。
時代劇で「あっし」という一人称に聞き覚えがあるでしょ。
例えば「木枯し紋次郎」。「あっしには関わり合いのねぇこって
ござんす」。上州生まれの設定だから、群馬県ですよ。
「おれ」と「おら」と同様に「あっし」も「あし」も同等ですよ。
夏目金之助(漱石)君も正岡君の「あし」を耳にしていたのだが、
どういう気持ちで聴いていたのか、興味あるねぇ。
そういうのが巡り巡り、何故かしら愛媛県では今や「俺」に
なっているのだから、実に興味深い事実なのだ。
いったい誰の、いったい何の、影響なんだろうね。
話は変わって、就職活動の件。
昨日18時過ぎに電話が来た。
イヤな予感は的中し、人足りて募集停止したのだった。
本当は、近所の赤十字病院の夜の清掃がやりたい私。
だけど、人気があって空きがない。いや、正確に言えば、
空きがあったのに私が呑気だから埋まってしまったのだ。
ということで、のんびり就活することにしよっ。