昨今ユーチューブを見ますと伊豆諸島の一つである「青ヶ島」探訪記が良く掲載されていますが、昭和29年にはこんな出来事がありました。当時の青ヶ島への通信手段は無線電信しか無く小田原電報電話局電報課と青ヶ島郵便局とモールス信号で電報の送受を行って私も通信士として仕事をしていました。その時の出来事です。
昭和29年11月に伊豆諸島の八丈島の先にある青ヶ島に学術調査団が入り、それに同行した各新聞社からの新聞電報が多数発信されました。通常の通信時間は10時30分、14時30分、16時30分、18時45分の4回でした。普段は日に3~4通の発信で島と島外との連絡手段は月に数回の定期便での郵便以外は電報しかありませんでした。学術調査団の上陸後は、それに同行した朝日、毎日、読売新聞及び地方紙等の記者から新聞電報が発信され、それを受信するため朝8時から夜8時迄1通の文字数が2,000字を超える新聞電報を電波状態が悪い(青ヶ島の発電はエンジンでの自家発電)なか通常の通信は1分間80文字受信できるが青ヶ島からの感度(モールス信号が聞こえにくい)では1分間40文字がやっとで、東京中央電報局から派遣された1名の通信士から離島するまで受信をしました。後日の話では私が青ヶ島への派遣要員の候補になったようですが、毎日長時間の送信は経験が無かったので行かなくて良かったです。
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