気の向くままに

卒寿過ぎた私の日々の行動と昔の思い出の掲載です。北海道日本ハムファイターズのファン~元祖東急セネタース時代から

青ヶ島 こんな時代がありました

2024-08-17 11:29:39 | 日記

台風7号も去り、猛暑が戻った8月17日(土)11時30分頃、家の中を風通しを良くし扇風機を使ってパソコンの前にいます。最近ユーチューブを観る機会が多くその中で、伊豆諸島の1番南にある「青ヶ島」が掲載されます。青ヶ島について私は昭和24年から昭和30年迄当時の小田原電報電話局電報課で青ヶ島郵便局とモールス信号の無線通信で通信士としてカタカナ電報を送受していました。その中で

昭和29年11月に伊豆諸島の八丈島の先にある青ヶ島に学術調査団が入り、それに同行した各新聞社からの新聞電報が多数発信されました。通常の通信時間は10時30分、14時30分、16時30分、18時45分の4回でした。普段は1日に3~4通の電報で島と島外との連絡手段は月に数回の定期便での郵便以外は電報しかありませんでした。学術調査団の上陸後は、それに同行した朝日、毎日、読売新聞及び地方紙等の記者から新聞電報(報道)が発信され、それを受信するため朝8時から夜8時迄1通の2,000字を超える新聞電報を電波状態が悪い(青ヶ島の発電はエンジンでの自家発電)なか通常の通信は1分間80文字受信できるが青ヶ島からの感度1~2(モールス信号が聞こえにくい)では1分間40文字がやっとで、東京中央電報局から派遣された1名の通信士から離島するまで受信をしました。後日の話では私が青ヶ島への派遣要員の候補になったようですが、毎日長時間の送信は経験が無かったので行かなくて良かったです。

今では電報はカタカナ電報は廃止され慶弔を中心とした1通が何千円代の時代になっています。

 

 


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