私が30代の頃、既に亡くなった母から聞いた話。
大東亜戦争のなか、東京で仕事が無くなった母の親族が秩父へ疎開し、紙でドラム缶の代用品を作っていたらしい。 金属が軍事用品に優先的に回されていた時代だから、何でもありだったのだろう。 どんな材料でどう作ったのかは気になる。
これを母に聞いても答えられる訳もないから、これは受け入れるしかない。
終戦後もしばらくはそんな仕事をしていたらしい。
そんな彼がその数年前に天寿を全うした。 そしてひととなりを話してくれた中で八高線で事故に遭ったんだよと、問わず語りに教えてくれた。
戦後1年半、まだ社会が落ち着くわけも無く、用事で八王子へ出かけていたらしく、秩父へ帰る際の事故だった。
八高線では戦後2年の間に2回の重大事故が起きている。
終戦直後、拝島ー小宮間の入間川橋梁の上での列車同士の正面衝突事故、そして昭和22年2月25日の東飯能ー高麗川間の現日高市上鹿山地内で起きた八高線脱線転覆事故。
どうやら後者の事故列車に乗っていたらしい。
幸い亡くならなかったが、怪我をしたのか無事だったのかは聞いていない、もしかしたら母は話していたかもしれないが覚えていない。
調べるとC5779の牽く5両編成(6両という記述もある)の木造の客車列車に超満員の乗客が乗って、一部は屋根にまで.……。
高麗川駅手前の下り20‰、R250のカーブでブレーキが作動せず、後部客車が遠心力で振り切られ脱線、築堤を転げ落ち死者184人、重軽傷者459人という大惨事になった事故。
ちょうど今日、78年前なんですね。 10年くらい前にこの事故を調べるまで八高線にC57が走っていたことを知らなかった。
八高線というとC58、D51、9600 というイメージしかない。
これは中学高校生の頃、八高線で写真を撮りまくっていたからでしょう。
母の親族とは言え、今となっては名前も年齢も知らない方ですからこれ以上さぐりようも無いです。
このへん、当時はあまり興味が無かったからなぁ、聞かなかったとしか言えません。
もう少し聞いておけば良かった、とタイトルしました。
この事故がきっかけで木造客車の鋼製化が始まったわけで、その60形、61形客車には乗っている世代ではあります。 残念ですが私は木造客車には乗っていない。 木造電車には地方の私鉄で父と乗っているけれど、どこであったかわからない。
母と同様、聞きようが無い。
さて、そのC5779、事故後高崎から奈良へ転属し、お召し列車の牽引とか、お召し列車補機になったり結構華やかな経歴を持つ。 客車は脱線したが機関車は無事だったからこその歴史なのでしょう。
最後の数年は奈良、和歌山機関区を行ったり来たり、最後は和歌山で1966年に廃車。
私の歴史の中では、他の多くの機関車同様に縁がありませんでした。