「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍。
「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。元弘3年・正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30(満29歳)。
「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍。
1、仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。鳩摩羅什は西暦344~413年に西域のクチャ亀茲(きじ)国出身の大翻訳し僧。サンスクリット名クマーラジーバ「くまらじゅ」ともいう。羅什と略称されることもある。生没年は通説に従えば前期の通り350~409年という新設もある。いづれにせよ4世紀から5世紀初頭にかけて活躍した天才的学僧である。鳩摩羅什の西域における名声は中国に及んでいたので,前奏王苻堅は382年(建元18年)クチャ国を攻略倉中を虜にした。十数年間涼洲に滞在した後に、401年後秦の都長安に迎えられた。後奏王佻興は国師として迎えられ、西明閣および逍遥園で訳経に従事させた。長安における鳩摩羅什の訳経と興和は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。彼が翻訳した主な経論は『大品般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』『維摩経』『阿弥陀経』など大乗仏教仏典「大智度論」『中論』『百論』『十二門論』『成実論』など戒律文献がある。中でも特に力を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握とその宣揚であった。中国仏教の龍樹系の中観思想を始めて紹介し、インド大乗仏教の正系と直結させたのは鳩摩羅什とその門下生であった。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗仏教義章』には彼の国家によって手厚く保護された鳩摩羅什の仏教学の腐敗の兆しがなかった訳でもない。鳩摩羅什は自ら泥中に蓮華に喩、華のみを取って泥の濁りに染まるなど事を諫めた。鳩摩羅什の門下生は三千人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、道生、道融は四哲として有名であった。三論、成実、天台などの中国の諸宗がのちに開かれる基礎が鳩摩羅什一門によって準備等、用意されていた。鳩摩羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、訳経史上に旧訳時代という一時期を期したと言える。
一方、大翻訳僧は玄奘(602~664)中国、唐代の仏教学者、大旅行家、俊て著名な、法相宗開創の祖。本名は禕。俗名陳氏。三蔵法師の名で知られる。洛州で602年(仁寿2年)ただし600年説もの有る。父慧の四男として誕生。幼くして敏、つねに古典を親しんでいた兄長捷につき、の洛陽の浄土寺に住し、614年(大行10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿鄭善果にその才能を認められて出家。以降も浄土寺に留まり、景法師に厳法師にその才能を認められ師から『涅槃経』や『摂大乗論』を学ぶ。618年(武徳1年)兄に勧められて、洛陽から長安に移り、荘厳寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄と共に蜀に向かい成都に至る。622年具足戒を受けてのち、各地の高僧を訪ね、翌年再び長安に戻り、大覚寺に住して道岳法師より『具舎論』を学び、624年、法常と僧弁の『摂大乗論』の講演に列し、両氏から大威にその将来を嘱望されたが、この頃より国内における仏教研究に限界を感じ、諸宗の疑問の解明のためにインドに留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることが出来なかったが、627年秋8月意を決して密かに長安を出発し、天山南麓を経由して、
「平清盛の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
平清盛(1118年~1181年)平安後期の武将。最初の武家政権の樹立者。刑部卿平忠盛の嫡子、実は白河法皇院の落胤。母は白河法皇の身辺の女性で、懐妊後忠盛の妻として下賜され、1118年(元永元)1月18日に生まれたのが清盛である。これに関して母を祇園の女御もしくは彼女を妹とする伝承があるが、根拠がない。居館が六波羅にあり、武家として初めて太政大臣従1位に昇ったので、六波羅殿、六波羅入道・平相国・平禅門などと呼ばれた。清盛は祖父正盛・父忠盛が院の近習として、また院政の武力的支柱として政界に地歩を築いたのを受けて、発展させた。保元の乱では後白河天皇方として勝利に導いた、乱後は藤原通憲(信西)と組んで勢力を伸張。平治の乱では源義朝らを破り、その後は圧倒的な軍事力を背景に、中央の政局を左右する政治勢力に成長した。清盛は、二条天皇親政派と後白河上皇方の対立のなかを巧みに遊泳。1160年(永暦元)の参議正三位を手始めに急速な官位の昇進を果たした。1160年(仁安元)内大臣、翌年1167年2月には太政大臣に進み、平氏は後白河院を従属的に同盟しながら国家権力掌握した。清盛は同年2月に病により出家し家督を重盛に譲るが、以後摂津福原に有って影響力を行使し続けた。清盛室の妹慈子を母にする高倉天皇が即位し、1171年(承安元)には清盛の娘徳子が天皇の後宮に入り、平家は摂関家にも接近、清盛の娘盛子を近衛基実に嫁がせ、基実が早世すると摂関家領を事実上押し領した。治承年間(1177~1181)には鹿ケ谷事件、重盛の死後による没収などで、院と対立した。高倉天皇が譲位、徳子が産んだ安徳天皇が即位し、清盛はついに外祖父になった。1180年以仁王の挙兵以来源氏が挙兵すると、平家は福原に遷都し失敗し、平家の立て直し図ったが、2月には病に倒れ、4日に死去した。
「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍。
鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際し、幕府軍の大将である北条泰時と北条時房は、六波羅の館に拠点を置いた。この六波羅の館は、乱以前から存在した。この六波羅の館は乱以前より存在し北条氏の館と思われる。泰時と時房は乱後も引き続きこの六波羅館に留まり、乱後の処理や公家政権との交渉に当たった。これを持って六波羅探題の成立と見なされている。以後、原則として二人の探題が任命されたが、前期を通じて北条氏によって占められていた。北条氏の中でも泰時の弟重時の極楽寺流など、とりわけ北条嫡流(得宗家)に忠実な庶流から選ばれることがあかった。二名の探題は、その宿所の位置によって各各北方、南方と呼ばれたが、南方が任命されず北方一名のみ在職することもあった。六波羅探題の主な職務は、京都周辺の治安維持と、西国の訴訟審理であった。京都周辺の治安維持は探題家来の中から選ばれ、検断頭人が責任者となり、居と常駐の御家人在京人や京都大番役衆、探題被官が指揮して行われた。訴訟機関としては独立性は低かった。身分的には探題と同格の御家人であり、探題個人とは職制の上では上下関係にあるに過ぎなかった。足利尊氏らの攻撃を受けた際には探題と行動を共にしたのは被官のみであった。
「前9年・後3年の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍。
前九年・後三年の役は平安後期に陸奥国で起こった俘囚(ふしゅう)長安倍氏の反乱。この反乱に関与して収拾に当たったのが源頼義と嫡男の義家(八幡太郎)である。安倍氏は服属した蝦夷の居住地である臆六郡(陸奥国衣川関以北の胆沢・江差・和賀・稗貫・紫波・岩手の諸郡)の郡司であったが、頼良の頃六郡以南の国司支配地にも進出した。子のために永承六年(一〇五一)陸奥国守藤原登任は秋田城介平重成とともに頼良を攻撃するが逆に大敗を被った。そこで朝廷の武名名高い源頼義を陸奥守に任命をする一方、上東門院彰子の重病治癒を祈願による大赦で頼良を許したために、頼良は頼義に服属し安倍頼時と改名した。頼義の任期満了の直前の天喜4年(10569権守藤原説貞の子息らが襲撃を受けた際、頼義は説貞の申し出に犯人をより頼時の嫡子安倍貞任と断定し、安部氏追討を命じた。この事件は頼義、もしくは在庁官人の陰謀とする説が多い。しかし在庁官人の相互の対立から藤原経清が安倍側に走るなど、頼義側の足並みがそろわず、翌年7月、頼時を討ったものの、11月に黄海の戦で貞任に惨敗しる。以降安部氏は陸奥を支配し、国内の官物の大半を奪取した。頼義は再三朝廷に諸国の武士・兵糧の支援を要請したが実現せず、雌伏を余儀なくされた。頼義の重任の任期が終わる康平5年(1062)出羽の俘囚清原光頼・武則が頼義の勧誘に応じて武則は一万騎を率いて来援した。これを迎えた頼義の軍は3000騎であったという。以降、頼義武則側をは安部氏を圧倒し御厨川の柵で貞任・経清を討ち取った。乱後は、朝廷から頼義は伊予守、長子義家には出羽守、武則には従五位上鎮守府将軍に任じられた。清原氏は奥羽に勢力を伸長させた。
後三年の役は、平安後期奥部地方で発生した戦乱。永保3年(1083)に豪族清原氏の嫡流真衡が養子業衡の婚儀を行おうとした際に、真衡の驕慢な態度に怒った一族は吉彦秀武が挙兵し、さらに真衡の異母弟にあたる清原家衡や藤原経清の子で家衡も呼応した。背景には、嫡流の地位強化に対す
「六角氏の群像」アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍。
近江国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、泰綱の代に京都の六角堂に居を構えたことから六角氏を名乗る。南北朝時代から室町時代に、同族の京極氏と近江を二分して南6郡(滋賀、栗太、野洲、蒲生、神崎の守護職を得る。京極氏と佐々木氏惣領を争うなど、一族の内紛が続き、さらに朽木氏などの自立性の強い同族・奉公衆や馬淵氏ら有力国人層と対立するなど、領国支配は困難を極めた。文安年間(1444~1449)には満綱・持綱父子が家臣の反乱により自刃している。その後、六角高瀬は隣接する京都の室町幕府と対立、長享・延徳年間(1487~1492)に2度にわたる将軍親征をしのぎ、守護代伊庭氏の反乱を抑えて戦国大名の基礎を作った。その子、六角定頼が全盛期を作り、幕府政治にも積極的に関与したが、永禄6年(1563)重臣後藤父子の殺害を契機に家臣が離反し(観音寺騒動)衰退。1567年には六角氏式目を制定したが、翌年織田信長に敗れ没落した。
「島津氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。
「倭寇と三浦の乱」アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍。
「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京の付近や内陸部の奥地にも及び、規模も大きくなり、400~500の船団、1000~3000の歩卒、千数百の騎馬隊が出現した。構成員⑴日本人のみの場合⑵日本人と高麗人・朝鮮人との場合⑶高麗人。朝鮮人のみの場合が考えらえるが、李氏朝鮮王朝時代倭寇の内倭人の割合は10~20%に過ぎなかったと言っていることから⑵⑶の場合が多かったと思われる。日本人は対馬・壱岐・松浦地方の住民、高麗・朝鮮人は禾尺・才人などの賎民や流亡農民を収める官庫と租粟を運搬する漕船や人民であった。捕られた人民を送還することによって反対給付をうけたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあった。高麗王朝は武力による防衛に努める一方、日本の要路に使者を送って倭寇の禁止を要請したが成果が上がらないうちに王朝は倒壊した。代わって李氏朝鮮王朝葉前王朝の政策を受け継ぎながら軍備を充実し、巧妙な懐柔策を取って倭寇の鎮静に導いた。倭寇は、朝鮮王朝に投降して官職・衣食などを与えらえ向化倭人、日本の大名や豪族の使者の名で行動した使送倭人、貿易業者として行動した販売倭人・興利倭人などに偏執分解した。明も建国当寺当初から倭寇に苦しみ、太祖は南朝征制西将軍懐良親王と交渉して倭寇を禁止させようとしたが、成果が上がらなかった。
『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン書籍紹介。1512円。角川電子書籍。
「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。
仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。
「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。
ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。
「十三宗五十六派」と言われた時代から、時代の変遷で、離合集散、栄光衰退、宗派間の攻防などで、攻防は繰り返し、吸収されたり、消え去った宗派も少なくない。
ここに伝統的に宗派として存続した仏教伝承から時代の趨勢に消え去った宗派まで網羅し、列挙し日本の歴史の重要な要因として明記した。
『魏志和人伝』アマゾン電子書籍紹介
魏志から見た和人(日本)と国交で和国は大きく三つの国に分かれ紛争は絶えなかった。中でも最も大きい山都国は周辺に領主・郡主らの部族を三〇箇所を持っている。敵対国として九国の球磨国は幼い女子が女王で、もう一国の勢力が中国半島の出雲国も二十箇所の部族や領主を有している。山都大国が中国の皇帝に献上し良好な関係を作り、和国の支配者の扱いを期待し、朝貢の返礼に銅鏡五十枚下賜された、それを聞いた球磨国は中国の皇帝に朝貢し、和国の王印を下賜された。出雲国と球磨国の関係は良好だったが、山都大国の軍勢が出雲国を攻撃、直ぐに球磨国に応援を求めた。山都大国は球磨国に攻め込み、征服をする。ところが山都大国の弟が反乱し、兄の王を幽閉した。兄王は球磨国まで逃げ込み山都大国の軍勢を見方に山都大国に攻め上がり、弟王を滅ぼした。兄王は球磨国の女子の女王に一目ぼれで結婚の運びとなった。
「蜂須賀小六の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
蜂須賀小六〈正勝〉(1526年~1586年)戦国の武将。幼名小六、のちに彦右衛門尉。尾張国海東郡蜂須賀の土豪蜂須賀正利(1504年~1553年)の子に生まれる。美濃の斎藤道山、ついで尾張の織田信賢・信清に仕え、のちに信長に従い桶狭間の戦に参戦。1564年(永禄7)豊臣秀吉に従い美濃攻めに参加、墨俣築城に功を立てて以降秀吉に直臣として近江、越前、播磨、中国筋に転戦した。播磨龍野の城主として5万3000石を拝領。1582年(天正10)備中高松攻めに尽力した。山崎の戦い、賤が嶽の戦に功あり。秀吉より大阪在住料として5000石加増1585年。四国平定の功により阿波を与えられるが辞退し、子の家政にが代わって阿波国一国を封ぜられた。翌年、大坂の邸にて没する。
『幕政三改革と世情と功罪』アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍・
江戸時代の封建的時代にも幕政の改革が必要として執り行われたが、何時の時代にも改革はリスクと弊害をもたらす者である。
江戸時代の中期の徳川幕府八代将軍吉宗が起こした「享保の改革」享保改革は紀州藩主から将軍に就任した吉宗は紀州時代の政策を生かし、より庶民的な立場に立って、概ね好評で自ら政務を執ったので一定の評価を得たと言えよう。
寛政改革」の松平政信は役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。
その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。
結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
定信引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
その後、老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。
江戸後期の水野忠邦の「天保の改革」は失政に終わり、その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。
しかし老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、弘化二年(1845)九月、加増のうち一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。
享保・寛政・天保年間の庶民の暮らしぶりと、改革は庶民の暮らしに豊かさをもたらしたか、疲弊にだけに終わったのか、江戸幕閣の幕政の政策と庶民の暮らしぶりの功罪を検証してみた。
『大友氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍
能直以降、中世を通じて豊後国守護職を保有。能直と2代親秀の庶子らは、各各地頭職を得て豊後を中心に下向土着した。惣領家も、3代大友頼泰(1222~1300)のとき蒙古来襲に供えるために下向し、豊後高田府に守護所を定めた。6代貞宗(?~1334)は、少弐貞経と共謀して鎮西探題赤橋英時を滅ぼした。南北朝には基本的に足利方に属し、在地領主層には家督継承を廻り大友親綱、または16代大友政親(1444~1496)と17代大友義右(1484~1496)などの間で内紛が生じるが、戦国期に入っても20代義鑑が家督問題で、家臣に襲撃され死亡している。それを「大友二階崩れの変」。子の21歳の大友義鎮(大友宗麟)の代には豊後・筑後・肥後・豊前・筑前の6各国の守護職と九州探題職を獲得し、全盛期を築くが、島津藩との軋轢が深く耳川合戦で大敗し、高城合戦でも大敗し衰退してった。また藩主の大友宗麟はキリシタン大名で有名、家臣団との間で反キリシタン派との対立内紛を抱えていた。22代大友義統は豊臣秀吉から豊後一国を安堵されるが、文禄の役で苦境に有った小西行長を助けなかったため秀吉に怒りを買い、徐封された。滅亡するが、子孫は江戸幕府の高家となる。
『斯波氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍
斯波氏は足利一門の守護大名。室町幕府の管領家。代々当主が尾張守、または兵衛督、兵衛佐に任じられたので、尾張家、武衛家ともいう。
鎌倉中期に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を所領としたのに始まる。家氏の曾孫斯波高経は足利尊氏に従い、越前守護として新田義貞を討ち、将軍義詮の下で幕府執事となった子孫斯波義将を後見した。高経の弟家兼は羽州探題最上の祖となる。義将を補佐、その子斯波義重とともに斯波氏が越前・尾張・遠江3国の守護を世襲する基を築いた。義重の孫義健が早世したのち一族の斯波義敏と渋川氏から入った斯波義康とが家督争い、高経時代に最盛期を迎え我が世の春の天下だったが、後継者の早世に内紛が管領の役職に失地回復できず、存在の立場を無くし低迷し、斯波氏の後を継ぐ者が途絶えて幕府から忘れられていった。また応仁・文明の乱の対応にも見誤り、失態をぬぐうことが出来なかった。一因となった。乱中、重臣朝倉氏に越前を追われ、後に今川氏に擁せられ存続をしたが、斯波義銀(1540~1600)が永禄4年(1561)織田氏に追われ、斯波氏は滅亡した。
『大内氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍。
中世周防の武家。周防国の在庁官人多々良氏の内、大内村を本拠として、周防権介を称する一派が、大内介とよばれ、後に家名とした。
鎌倉期には幕府の御家人となり、周防の在国司として守護に準ずる地位を得ていた。南北朝期、大内弘世は北朝方として、応安年間(1368~1375)に防長両国を統一し、次いで九州に出兵して関門海峡を確保した。その子大内義弘は筑前に進出、博多を支配、応永の乱後は家督争いに一時家内が混乱したが、大内政弘の代までには国人層の大内氏御家人化が進められ、分国統治制度を整備された。大内義興・大内義隆の時代には、周防・長門を中心に、東は備後・石見から西は豊前。筑前に至る海上交通の要衝を支配する大大名として幕府政治にもしばしば介入した。天文20年(1551)義隆が家臣陶晴賢の謀反に有って死去し、大友氏から大内義長が養子に入って跡を継いだが、
弘治元年(1555)厳島の戦いで晴賢が敗北すると衰退。1557年毛利氏との合戦で義長が戦死し、大内氏は滅亡した。大内氏は大内版を出版するなど学術工芸の分野で奨励した。百済の王族を祖と称し、朝鮮や明との対外交流を積極的に行い、領国内でのキリスト教布教を許可した。弘世の代に本拠となった山口は、大内氏の居館を始め、在住を義務付けた家臣の屋敷が立ち並び、在住を義務付けられた家臣の屋敷が立ち並び、かつ京都から貴族文化人が招かれたので、人口も多く、和歌・連歌をはじめとする伝統文化が発展した。
『真田氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
戦国時代の信濃国小県郡から上野国沼田に及ぶ国境地帯の領主。真田幸綱(幸隆)・一徳斉、(1513~1574)が武田信玄の家臣として台頭。嫡男真田信綱(1537~1575)が長篠の戦で戦死した後に、三男真田昌幸が家督を継承した。武田滅亡後は、小田原北条、徳川、上杉の3者鼎立のなか外交戦略で沼田城を死守するとともに、天正11年(1583)海士淵城(上田城)に進出し独自の検地や裁判を実施した。翌年、豊臣秀吉、上杉景勝、真田の同盟により徳川家康と戦闘状況に入り、一時沼田を北条氏と分割したが、1590年の小田原攻めの結果、沼田、上田の領有を認められ豊臣大名となった。一方繁信は大坂の陣では豊臣方に方に忠臣を誓い、徳川家康を討ち取る寸前まで丁々発しの大活躍、智恵以て策を講じて、徳川方を翻弄させ、恐れさせた。命知らずの武士の中の武士として、後世に語り継がれる所以である。一族の存続には親子二分にしてでも、家名を残す武士の宿命と刹無さを垣間見ることが出来る。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは嫡男真田信之が東軍に属し、昌幸・真田信繁(幸村)は西軍として上京する徳川秀忠を釘付けにした。両人は助命され高野山に蟄居したが、信之は家康の養女を妻にして、元和8年(1622)松代城に移封。嫡男真田信吉は(1593~1634)は沼田城主となったが5代目信直は沼田城を改易。真田藩は明治維新まで待つ支藩として存続した。