「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想『重源』アマゾン電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川電子書籍・

2020-03-17 09:01:45 | 温故知新


『重源』アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍・
重源と言えば東大寺再建で知られている。平安末期の戦乱の中で、醍醐寺に出家し、流浪僧から、宋に渡航する事三度、念仏聖から、東大寺再建まで八六歳の生涯の物語である。
一、「上醍醐寺に出家」
重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和 国は平群県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平群で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。西国観音三三所有名な、上醍醐で修業を積み、下醍醐で教学を収めてた。.
二、「修験者への道
遊学に出た重源は、修験者の道を歩む、まず、大峰山に向かい、洞川から大峰山に表行場・裏行場の荒行を修行し、峰々を駆け巡り、ついで吉野山の金峯山寺の蔵王 権現で感得し、吉野から大峰奧崖は、、吉野から熊野まで七五靡くまで、形成されている。熊野三山の修行終えて、伊勢神宮参拝から御岳山で修験道を納めて京都に戻る。
三、「法然に浄土教を学ぶ」
京都に戻った重源は、時の流行の阿弥陀信仰に法然に浄土教を学び、阿弥陀聖として高野山など、流浪僧となって、浄土教を布教し、念仏聖となる。
四、「唐へ求法への道」
「中国三度入宋」入宋を試みて交易船で中国に阿育王寺と国清寺に修行し教学を納め帰国、その際い、阿育王寺より、舎利殿再建の資材の勧進を依頼された。二回目は重源が目指す五台山に登る。五台山で修行、教学を収めて帰国した。三度目は阿育王寺に依頼された資材の手配で入宋し舎利殿完成確認し帰国しあt。
五、「東大寺焼失」
平氏と南都六大寺が対立、南都僧兵を持って七〇〇〇人で対抗し、平重盛は4万の兵を持って奈良を攻撃し、奈良は悉く焼失し、東大寺を始め興福寺を焼失し、灰塵と化した奈良東大寺の再建に朝廷と公家・貴族の嘆きと再建の熱望した。
六、「東大寺再建と勧進」
東大寺再建に白羽の矢が重源に、六一歳の高齢の重源、一大決心、東大寺再建総勧進と言う重責に、西に東に奔走し、工事に勧進に何千と言う人々を束ね、結束させ見事大仏を完成さたが、大仏殿完成前に重源死去した。後は行勇と西行に任せられて完成した。 
七、「浄土寺建立」
浄土寺の建立と阿弥陀三尊像という、重源生存中の最大傑作の素晴らしさとその謎を探り、その偉大なる重源の企画力と行動力を表し、物語にした。


歴史の回想「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川電子書籍 

2020-03-17 07:17:07 | 温故知新

「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介・角川電子書籍 
畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。
 畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。①畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。②畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。
 ③畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に就任。その嫡子畠山満家以来管領家は河内・紀伊・能登守護家を立てた。しかしその後畠山義就と畠山政長が家督争い、応仁・文明の乱の一因となった。政長が細川政元に謀殺されてのち、一族・家臣の分裂抗争で勢力が衰え、高政は織田信長に属したが、弟で養子の昭高は家臣遊佐信教に殺された。能登守護家も上杉謙信に制圧された。昭高の子孫は江戸幕府の高家となり、能登畠山氏の子孫も幕臣になる。※「畠山氏は嫡流・傍流・庶流の流れは大きく分けて「七家」に区分することが出来る。「平姓畠山氏」「源姓畠山氏」「奥州畠山氏」「源姓畠山氏宗家」「畠山氏総州家」「畠山尾州家」「七尾畠山家」それぞれの流れと、出自を追ってみて、時代の趨勢の複雑さを知る次第であった・


歴史の回想「細川氏一族の群像」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍

2020-03-17 07:12:57 | 温故知新

​​​​​​​「細川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍
細川氏は、足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家。足利義康の曾孫義季が鎌倉中期に三河国額田郡細川郷を本領としたのが始まりと言う。義季の曾孫和氏・頼春・師氏兄弟とその従兄妹の顕氏・定禅・皇海兄弟は足利尊氏に属し近畿・四国などで軍功を積み一族で数カ国の守護になった。和氏の子清氏は将軍義詮の執事となったが失脚し、頼春の子頼之は管領幼少の将軍義満を助け、幕府権力の確立に努めた。嫡流の当主はは、頼之の弟で養子の頼元を以降代々右京大夫に任じられ、京兆家と称され、幕府管領及び摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を世襲した。庶流の内五氏はそれぞれ和泉頼春の孫頼長が和泉上守護家、基之が和泉下守護家として共同統治し、阿波・淡路・備中の守護を世襲した。その後、管領勝元は山名持豊(宗全)と対立し応仁・文明の乱を引き起こした。その子政元は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之を擁する家臣に殺された。以来一族・家臣の分裂抗争が続き、家臣の阿波三好氏の台頭を招き、永禄四年(1561)細川晴元が三好長慶に降り、京兆家は没落した。
江戸幕府の外様大名。本家は肥後熊本藩主。和泉上守護家の細川基常の甥で養子の藤孝(幽斎)より興る。藤孝は故実・歌道に通じ、足利義昭・織田信長に仕え、丹後田辺城主となった。その子忠興は信長・秀吉に・家康に仕えて軍功を重ねた。忠興の子忠利は熊本54万石を領し、子孫がこれを世襲した。


歴史の回想「太閤の夢の夢」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-03-17 07:04:41 | 温故知新

「太閤の夢の夢」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。


​​​​​​​歴史の回想「高杉晋作と功山寺挙兵の起因」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-03-16 18:31:07 | 温故知新

​​​​​​​「高杉晋作と功山寺挙兵の起因」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。
幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。
晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。
元治2年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
禁門の変・馬関戦争の後、朝廷と江戸幕府は長州藩へ、懲罰として十五万もの征長軍派遣を決定した。 長州では藩存亡の危機を前に、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する椋梨藤太に率いられた俗論派らの争いが激化し、ついに武力衝突にまで発展する。 最終的に正義派が勝利し俗論派は排撃されたが、正義派・俗論派・征長軍の各勢力内は細かく分派し、それぞれが独自行動をしたため事件は複雑な経緯を辿る。


歴史の回想「長宗我部一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介角川電子書籍

2020-03-16 17:54:27 | 温故知新

「長宗我部一族の群像」アマゾン電子書籍紹介角川電子書籍
長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。
長岡郡宗部郷(元南国市)を領したことから長宗我部氏と称し、岡豊城を本拠に勢力を伸ばした。
長宗我部氏の出自には諸説はあるが、まだ明確に解っていない。
 室町期には守護細川氏の配下に属して活動していたが、永正4年((1507)京都で細川政元が暗殺されると、国内で孤立を深めていった。
 まもなく、当主長宗我部兼序(かねつぐ)は周辺の国人達に襲撃を受けて岡豊城で自害をした。
 この時、兼序の子長宗我部国親(くにちか)(1504年~1560年)は幡多郡の一条氏の下で逃れたが、やがて岡豊に戻って長宗我部氏の再興を勧めた。永禄3年(1560)国親が急死すると、その子長宗我部元親が家督を継いで近隣の国人層を次々に従えて、天正3年(1575)土佐統一を達成し、更に阿波・讃岐を制圧し、伊予にも侵攻したが、1585年に豊臣秀吉に従属を拒否し戦いになった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。
元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。
秀吉に敗れて服属した。
 秀吉の下で諸国を転戦するが、慶長4年(1599)に元親が死ぬと、家督を長宗我部盛親は翌年の関が原では西軍に属した。
このために、徳川家康は土佐一国を長宗我部から没収したところ、遺臣らが反発して浦戸一揆など、度々蜂起が見られた。
元和元年(1615)盛親は大坂夏の陣で敗れて殺害され、一族は滅亡した。


「戊辰戦争の群臣」アマゾン電子書籍・角川電子書籍

2020-03-16 17:50:03 | 温故知新

「戊辰戦争の群臣」アマゾン電子書籍・角川電子書籍

「戊辰戦争は明治維新政府とそれに敵対する旧幕府、諸藩との戦争。発生した慶応4年(1868)の干支である戊辰をとった呼称。前年の12月9日の王政復古クーデターで天皇を頂点とした新政権が樹立され、幕府や摂政・関白などが廃され、前将軍徳川慶喜は大坂に退去した。慶喜は新政府内の土佐・越前両藩のなどの公儀政体派の巻き返し工作に期待したが、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生し、旧幕府軍は慶喜のあらわにした「討薩の表を掲げて京都へ進撃を開始した。薩摩・長州両藩など新政府軍は旧幕府軍の通行を阻止し1月3日に鳥羽伏見の戦いになった。戦争では、新政府軍が指揮官や将兵の士気、大小砲の兵器が勝り、初戦は機先を制して旧幕府軍を破った。4日には仁和寺宮嘉彰親王が征夷代将軍に任じられ、旧幕府軍が賊軍、新政府軍は官軍とされるに至って、慶喜は江戸に逃げ帰った。この鳥羽・伏見の戦いの結果、新政府内で武力討伐派が主導権を掌握した。西日本の諸藩は戦わずして新政府の軍門に降り、大商人の多くも新政府の支持に回った。新政府は1月7日に慶喜征伐令を発し、有栖川宮熾仁親王を東征軍は江戸へ進軍させた。
これに対して、慶喜は江戸城を退去し、旧幕府陸軍総裁の勝海舟が東征大総督参謀西郷隆盛に降伏状の交渉を重ねた。4月4日には東海道先鋒総督府橋本実染(1834~1885)が勅使として江戸城に入り、慶喜の水戸藩御預かり、江戸城明け渡し、軍艦兵器の引き渡し、城内居住の旧幕臣などの処置などの勅旨を田安慶頼(1828~1876)に伝え、4月11日には開城となった。旧幕臣は脱走し彰義隊は上野に立てこもり新政府に敵対した。関東では世直し一揆が激化し、開城後も新政府、旧幕臣との闘いが小山・宇都宮・舟橋などで散発的に起こった。5月15日には上野の戦争で彰義隊を壊滅させ徳川家達に70万円を与えて駿河に移した。東北については奥羽鎮憮総督を仙台に派遣し、藩主松平容保が会津藩に追討が命じられた。北陸諸藩は奥羽越列藩同盟は結んでいた新政府への敵対に対して、輪王寺宮を盟主に仰ぎ、白石に公儀府を置き、8か条の盟約を結んだ。東北戊辰戦争は、平・二本松・新庄・大館などが戦場になった。さらに、北陸の長岡・新潟でも激戦が交わされたが、既にして官軍となった新政府軍が優勢であった。会津では少年兵「白虎隊」動員されたが若松城は包囲され、9月22日に降伏した。最後の砦は函館の戦いは「五稜郭の戦い」の東北・北陸・北海道の諸藩の抗戦を圧倒し、新政府軍の平定で、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争が終結した。


「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍・

2020-03-16 17:38:41 | 温故知新

「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン電子書籍・
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。



歴史の回想「前田利家の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 15:55:21 | 温故知新

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前田利家(1538年~1599年)織田信長取り立て大名で加賀藩藩祖。尾張国愛知郡荒子村の土豪前田利春の四男。幼少より信長に仕え、軍功を上げ赤母衣衆に列し、1575年(天正3)柴田勝家の越前一国拝領の際、府中三人衆の一人として武生府中城に入った。加賀一向一揆の壊滅後は、1581年、能登一国を拝領し七尾小丸山城に移り、越後上杉の戦いに従事した。本能寺の変で信長が倒れたあと、柴田勝家と行動を共にしたが1583年の賤ケ岳の戦いの最中、秀吉に寝返り、北加賀2群を加増され金沢城に移り秀吉政権を支えた。1585年の秀吉の越中出兵に出陣、佐々成正を富山城を破り、翌年上洛し従四位下筑前守となる。1590年の小田原攻めにも従軍し伊達氏・南部氏の意向を秀吉に取り次いだ。1592年(文禄元)の文禄の役では肥前名護屋城在陣し、秀吉渡海の諫止、過書発給の明の講和使節応接などを徳川家康とともに行う。その後、秀頼の傅役となり五大老の第二の実力者として秀吉に仕えた。1596年(慶長元)秀吉父子の参内に供奉し、従二位権大納言に昇進、1598年退老し利長に家督譲ったが、秀吉の死後大坂城に入り、秀頼の後見人として徳川家康の専横を譴責する等豊臣政権を支えた。


歴史の回想「大内義弘の群像」アマゾン電子書籍紹介。楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 13:07:07 | 温故知新

「大内義弘の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
大内義弘(1356年~1399年)
南北朝時代の武将。父は大内弘世。九州探題今川了俊に従い、1371年(応安4)から九州出兵。1375年(永和元)再度九州に出兵し、1377年に了俊を救援、豊前守護となる。1380年(康暦2年)から翌年かけて家督をめぐって,弟満宏と戦うが、幕府の支持を得て勝利。1389年(康応元)将軍足利義満の厳島山系の際、一行を出迎えるとともに上洛する。以降在京が多くなる。1391年(明徳2)の明徳の乱の際には幕府方の勝利に導き、和泉・紀伊両国を守護に任じられる。1392年には南北両朝合体を成立させ、将軍の一族に準ずる旨の御内書を得る。了俊が1395年(応永2)に九州探題を解任されると、朝鮮との交渉の実権を握る。1397年和泉堺で挙兵し、幕府軍に攻められて敗死した。「応永の乱」。義弘の代には、安芸国の拠点として東西条も確保した。


歴史の回想「維新十傑・獅子奮迅の風」グーグル・楽天・角川・アマゾン電子書籍紹介

2020-03-16 13:02:07 | 温故知新

「維新十傑・獅子奮迅の風」アマゾン電子書籍紹介
維新の十傑(いしんのじっけつ)は、1884年3月刊、山脇之人『維新元勲十傑論』において、倒幕・明治維新に尽力した、志士のうち幕臣以外の10人を指す。また、このうち特に枢要な3人を「維新の三傑」と称する。小御所会議を経て王政復古の大号令を達成し、明治維新の新政府発足時の中心人物であり、各藩を代表する人物という点でも共通している。明治新政府に協力した有名な幕臣として、大久保一翁や山岡鉄舟、勝海舟等があり、他にも箱館戦争を戦ったのちに政府に協力した榎本武揚、武田斐三郎、大鳥圭介らがいるが、維新前に討幕に動かなかったことから含めない。藩閥の中で、十傑から洩れているのは土佐藩士だが、賞典禄は後藤象二郎と板垣退助の1,000石が最高位である。特に、大村益次郎については一時は「維新の三傑」に割って入ろうかという評価で、横井小楠も維新樹立を打ち立てた思想家として高い評価を得ている。明治政府内では大久保利通と江藤新平は政敵として知られ、佐賀の乱を鎮圧した大久保が江藤の首を梟首したことでも垣間見える。なお、この10人のうち岩倉具視を除く9人は、明治11年の紀尾井坂の変までに4人が暗殺され、2人が病死、2人が刑死、1人が戦死している。そして明治16年には残った岩倉具視が咽頭癌により死去する。十傑が去った後に明治政府を主導していったのは、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州藩の元老である。
なお、金澤正造の著書『維新十傑傳』(1941年)では、明治以後の政治家とは別に、幕末期に維新へと至るまでに導いた主な革命家10名に、吉田松陰、頼三樹三郎、有村次左衛門、高橋多一郎、清河八郎、伴林光平、平野国臣、佐久間象山、高杉晋作、坂本龍馬を挙げた。明治になるまで活躍した吉田松陰や坂本竜馬、中岡慎太郎は当然維新十傑に入っても不思議ではない。少なくとも没後、彼らの活躍や足跡、文献をを掘り起こし、世に知らしめた、歴史研究家や小説家の努力の賜物だと思われ、若くして没した高杉晋作など日本人の維新の立役者に思えるのも、偉大なる先駆者の運命かも知れない。


歴史の回想「今川義元の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 12:26:56 | 温故知新

「今川義元の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
今川義元(1519年~1560年)東海地方の戦国大名・三河守。父は今川氏親。母は中御門宣院の娘。幼少時に駿河善得寺に入り、その後一時、京都建仁寺や妙心寺で修業を重ね、歌人三条西実隆や連歌師宗牧とも関わった。1536年(天文5)兄氏輝は没すると、家督をめぐる異母兄玄広恵探と争いこれを打ち勝ち、家督を継ぎ今川義元と名乗った。翌年、武田信虎の女との婚姻により甲駿同盟を結んだが、それまでの関係にあった北条氏と敵対し、以降富士川以東の支配をめぐり1545年まで抗争する(河東一乱)その一方で松平広忠の支援、織田信秀との交戦を通じて東三河の有力国人戸田氏を制圧、1546年に吉田城を三河侵攻拠点とした。ついに1549年に岡崎城を占領し、さらに織田氏の支城となっていた安祥城を奪取し、その際、織田氏との人質交換で松平竹千代(家康)を駿府城に迎えた。その後弘治年間1555年~1558年までに三河の領国化ほぼ成功した、今川氏は戦国大名のとして全盛期を迎える。この全盛期の背景に領国東域の政治的安定を意図して、1554年まで婚姻関係に介する北条・武田氏との同盟(甲相駿同盟)があったが、それとともに、検地の実施、貫高制の採用、家臣団編成。寺社統制、農、商、職人政策、交通路・伝馬政策、鉱山開発など多数に渡る今川仮名目録を定めた。1560年三河守に任官後、駿遠三の兵を持って尾張に侵入したが同年5月19日、桶狭間の戦で織田信長の急襲を受けて戦死した。



「歴史の回想・蛮社の獄」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKERグーグル・楽天・角川・電子書籍

2020-03-16 12:22:40 | 温故知新


「歴史の回想・蛮社の獄」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
天保10年(1839年9に起こった渡辺崋山とその同志に対する弾圧事件でシーボルト事件(1828)とともに洋学史上最大の弾圧事件とされる。しかし、もともと幕府官僚内部の対立による疑獄事件であり、関連資料も故意に隠滅された形跡があって、真相はほとんど知られていなかった。藤田茂吉「文明東漸史」(1884)によって憂国の蘭学者たちが崋山や高野長英を中心に尚歯会という政治結社をつくり、林家を中心にした蘭学者や開明派官僚たちのグループとは別物で「蛮者」の名も普通名詞で、特に崋山らのグループを指すものではない。崋山は三河国田原藩士で1832年に年寄役末席につき、海岸役兼務を命じられたことから海防に関心を持ち、蘭学者を招き蘭学の研究を始めた。折から内政的には飢饉や一揆・打ち壊し、対外的には内憂外患が表面化していた。これに危機意識を共有する幕臣や儒者・文人など崋山のもとに集まり、崋山は「蘭学にて大施主」と評された。幕臣では川路聖謨・江川太郎左衛門・羽倉外記・下曾根信敦らの開明派、儒者・文人では、古賀侗庵、遠藤勝助・赤井東海・安積艮斎・斎藤拙堂・立原杏所らがいた。これが幕府儒官の林家を刺激し、とりわけ林述斎の次男鳥居耀蔵は崋山のグループを老中水野忠邦に告発。しかし、その告発より。1837年のモリリン号事件を契機に崋山が「慎機論」長英が「夢物語」を書いて幕政を批判したことが理由で1839年5月、二人は逮捕され、小関三英は罪が及ぶのを恐れて自殺した。崋山は在所蟄居、長英は永牢に処せられた。この後しばらくは蘭学は冬の時代に入る。



「歴史の回想・​​二条家一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:35:15 | 温故知新

​​​​​​​「二条家一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
(1)藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実を祖とする。二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。良実は1242年(仁治3)関白となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。鎌倉末期道平は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。その孫が足利義満の諱(いみな)一字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を一字もらうことを例とした。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。明治維新後、公爵を授けられた。
(2)藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の子孫(鎌倉後期~南北朝時代)の家名。定家の子為家(ためいえ)の長男為氏(ためうじ)を祖とする。定家の二条京極邸の中の二条大路側の家を伝領したゆえの名で、「二条」と号したのは子の為世からである(為氏は「藤原」とのみ)が、同じく為家の子為教の京極家、為相の冷泉(れいぜい)家にそろえて為氏からをさすのが普通。俊成・定家以来の歌道師範家の嫡流として重きをなし、両統分立以後は京極・冷泉家(派)が持明院統(じみょういんとう)と結び付いたので、いきおい大覚寺統と結び付き、為氏が『続拾遺集』を撰んで以来、代々勅撰撰者となった。 南北朝分裂後、北朝で一時勢力を失ったが、為定(為世の孫)が将軍足利尊氏の支持を得てふたたび師範家となり、3勅撰集をなした。しかし南北朝時代末期に人材を欠き、あるいは殺害されて断絶した。


歴史の回想・「九条家の一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-03-16 10:28:12 | 温故知新

「九条家の一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
藤原北家の嫡流。五摂家の一つ。関白藤原忠通の三男藤原兼実に始まる。家号は兼実の殿第が京都九条にあった。この事に由来し、坊名の陶化坊から陶化とも称す。鎌倉初期。兼実は源頼朝の後援を受けて摂政、氏長者、兄基実の興した近衛家・九条家の両家に分かれた。その後、兼実の孫九条道家の代に、頼経・頼嗣ら
摂家将軍の父祖として鎌倉幕府と結んで家門が隆盛し、その3人の子息教実九条、二条良実、一条実経が相次いで摂政・摂関に任じられ、九条家からは二条家、一条家から両家が分立した。また、この時期に近衛家からは鷹司家が分かれたために、摂関家は近衛・九条・鷹司・二条・一条の五家となり、いわゆる五摂家が成立した。以後、九条家は他の摂関家と共に公家社会再興の意を占めて明治維新に及び家族に列した。それぞれ爵位を授けらえた。