「有馬氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
有馬氏」(ありまうじ)
① 筑後久留米藩主そのおこりは赤松則村の孫義祐(よしすけ)で、摂津国有馬郡有馬庄(兵庫県神戸市)の地頭となり有馬氏を称したと伝える。7代有馬重則が豊臣秀吉に仕えて播磨三木満田城に移ったが、その子則頼が関ヶ原の戦いに東軍に属して加増を受けた。ついで9代豊氏(静岡県)横須賀に3万石、1600年(慶長5年)には3万石を加増されて丹波(京都府)福知山に移り、父則頼の遺領2万石も付与された。1620年(元和6年)に筑後(福岡県)久留米に転封され、御井、御原、生葉、竹野(たかの)、山本、三潴(みつま)、上妻、下妻の8郡21万石を領した。
以後廃藩置県まで歴代の久留米藩主で、江戸城内での家格は大広間詰であった。明治に入り華族に列し、頼万が伯爵となった。
②越前丸岡藩主 肥前高来郡有馬庄(長崎県南島原市南・北有馬町)におこるという。鎌倉時代には高来郡南部に勢力をもち、豊臣秀吉の九州知行割のおりには、高来郡内4万石の領地が有馬晴信に安堵され日野江城に住した。1612年(慶長17年)の岡本大八事件で、晴信は甲斐(山梨県)に配流されたが、子直純が遺領を継ぎ、1619年には1万3000石を加増され、日向国県(宮崎県延岡市)に転封、臼杵、宮崎、諸県、児湯の4郡に5万3000石を領し延岡城にあった。1691年(元禄4年)には農民逃散の責を負わされて3千石を減じ、越後国(新潟県)糸魚川に転封、ついで越前国(福井県)丸岡に移封し、廃藩置県まで続いた。明治以後子爵となった。
③下野吹上藩主 筑後久留米藩主有馬氏の支流。有馬豊氏の三男頼次駿河大納言忠長に仕え、忠長が罪を得たおり自らも蟄居したが嗣子なく没した。しかし、豊氏の外孫吉政が継ぎ、氏倫のとき、徳川吉宗の側衆となり、1716年(享保1年)伊勢国(三重県)三重郡に1300石を領知、翌1717年に下野国(栃木県)芳賀郡に1000石の地を得た。1726年に伊勢国多気、河曲、三重、下野国(栃木県)河内(かわち)、上総国(千葉県)市原郡内に、7700石を加増され、計1万石を領した。1781年(天明1年)氏恕のとき上総国五井(ごい)に陣屋を置き、氏郁のとき領知替えがあり、1842年(天保13年)下野国寒河郡吹上(栃木市吹上町)に陣屋を置き廃藩置県に至った。明治期に子爵を与えられた。
④筑後小松崎藩主久留米藩主の支流。久留米藩主10代忠頼に嗣子がなく、外戚(がいせき)の小出豊範を養子としたが頼利が生まれたので、豊範は御原郡小松崎1万石に分封されたが、まもなく絶家した。
「池田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
近世の大名家。出自に諸説があるが近世の家譜では、清和源氏頼光流、楠胤説、摂津国を本貫地とする。始祖の池田恒利の妻養徳院派織田信長の乳母、恒利の子池田恒興(信輝)は織田信秀・信長、更に豊臣秀吉に仕え、美濃国大垣城主となったが、天正12年(1584)長久手の戦で嫡子之助とともに討死。信輝の次男池田輝政は岐阜城主三河国吉田城主、ついに関ヶ原の功で播磨国一国を領し、姫路城守。輝政の次男忠継は備前国、三男忠雄は淡路国を領し、輝政は西国の重鎮になった。慶長18年(1613)の輝政の死後、遺領は、長男利隆に西3郡を除く播磨国が、忠継に備前に加えて播磨西3郡が伝えらえた。しかし、元和元年(1615)に忠継が、その翌年に利隆が相次いで死亡し、忠継の遺領は4人の弟、忠雄、(備前国・備中国の一部)輝澄(播磨国宍粟郡)、政綱に(同赤穂郡)輝興に(佐用郡)が継ぎ,利隆の遺領は嫡子光政が継いだ。1617年光政は因幡・伯耆に国替えとなって、さらに1632年に池田光仲が継ぐと、同族同士で国替えとなり、光政を藩祖する岡山藩31万石余、光仲が藩祖とする鳥取藩32万石が確定した。岡山藩支藩では、光政の次男政言・三男光録を藩祖し、備中国鴨方藩・生坂藩、鳥取藩支藩では、光仲の次男仲澄・四男清定を藩祖とする因幡国鹿野藩・若桜藩が置かれ、また輝澄の子孫から維新時に福本藩が創設された。本・支藩とも廃藩置県まで存続した。
「歴史の回想・ノモンハン事件」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境付近で起こった日本・ソ連両軍の大規模な武力衝突。ハルハ河戦争ともいう。ノモンハン一帯の国境線は不明確で日ソ間の紛争の種となっていたが、1939年(昭和14年)関東軍は国境付近に強硬な方針を決定した。たちまち同年5月ノモンハン駐屯の満州国軍衝突すると、日本軍はハイラル駐屯の第23師団の部隊を出動、外蒙軍をげきした。さらに7月2日第23師団は、反撃に転じた外蒙軍とソ連軍の圧倒的優勢な火力と戦車群の前に日本軍は苦戦を強いられた。戦況不利を知った大本営は事件の不拡大方針を決め、政府も外交的解決を求めた。これを無視した関東軍はソ連に対する攻撃を続けたが、8月20日ソ連軍の総攻撃を受けて、一個師団壊滅の大敗をきした。おりからの独ソ不可侵条約を締結と第二次大戦の勃発で国際情勢が急変すると、日本は停戦を申し入れ9月15日モスクワで停戦協定を調印され、関東軍司令官と同軍参謀長は引責待命となった。日本軍の敗北は陸軍の対ソ戦略に深刻な打撃を与え、対ソ開戦の企画を挫折に導いた。
「歴史の回想・辛亥革命」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
中国最後の先制王政清を倒し、共和制を樹立を目指した革命。干支の辛亥1911年10月10日年の、武昌で軍隊の反乱がおこり全国へ波及、翌1912年1月1日南京で中華民国が成立が宣言され孫文が臨時大統領に就任した。【辛亥革命で樹立され、共和政体をとった中国最初の国民国家。南京を首都に1912年1月1日成立。それは「漢民族主義国家を目指し「建立民国」(国民主権主義)の具現として実現した。ただし、それは、漢族主体とはいえ五族共和を建前ににし、国旗は五色旗、共和制も国制転換の手段の域をとどまった。その量要素の結節点に救国と言い、いわゆる洋務があった。またその国家イメージも大きなふり幅を随伴し、北洋軍系の北京政府、国民党系の南京国民政府、抗日戦争期国共再合作による重慶政府と、親日的南京政府など、その内実は絶えず変化させた。】清朝最後の皇帝溥儀は2月2日に退位した。中国同盟会に集結した革命派の勢いは、若い知識人らを中心とする小さなものだった。しかし、清朝の立憲主義的改革の限界が明らかになり、その鉄道国有化政策や財政政策に対しても蜂起に合流、革命に協力した。諸列強も早い時期に清朝を見限り革命への干渉を避けた。革命後政治体制は、軍部の介入や党派間の対立のために容易に安定しなかった。加盟以降、纏足や宮廷儀礼が廃止され、欧化主義の風潮が広がるなど社会的雰囲気も大きく変化した。
「歴史の回想・関東大震災」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
大正期の大地震、関東大地震によって起きた災害。1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地方南部に大地震が発生、規模マグネチュード7,9、震源は相模湾西北部と計算された。自身は小田原、根布川方面が最も激烈であったが、東京、横浜では地震による火災が加わり甚大な被害を生んだ。東京は3日未明まで燃え続け、下町一帯から山手の一部にかけて前史の三分の二が焼失し、本所の被服廠跡では火の旋風で一挙に3万8000人が焼死。横浜では煉瓦造りの洋館などが倒壊し多くの圧死者を出し、前史買いがほとんど消失ないし全半壊し、4日までに救助の手が届かなかった。被害者は9万9331名、負傷者は10万3733名、行方不明者は4万3746名、全半壊家屋12万8266名、半壊家屋12万6233戸、焼失家屋、流失家屋868戸、被災者340万名。〈デマを信じた人〉大災害であったが、この震災を利用して今日まで判明しているだけでも6000名以上の在日韓国、朝鮮人と600名以上の在日中国人が600人以上の虐殺され、亀戸事件・甘粕事件と言われる、日本人社会主義者・無政府主義者・共産主義者、労働運動者・青年運動の指導者総計14名が殺害された人災でもあった。とくに韓国・朝鮮人・中国人への大虐殺は全く無実無根の流言蜚語は放火、暴動、井戸に毒を入れたなどを信じて自警団に組織させられた日本人の民衆が軍隊、警察とともに行ったものである。当時日本経済は世界恐慌、昭和金融恐慌など経済が混乱、低迷し、手形決済や紙幣の焼失し、流通、住居、公共の施設の焼失で遷都を考えざるを得ないほどに混迷した。この大災害に大阪など関西に人口が流出し、また大阪をはじめ日本各地から救援の援助物資や金融の援助がなされた。
「黒田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
安土桃山時代から江戸時代の大名。宇多源氏、近江佐々木氏の一族と称し、鎌倉末期に近江国伊香郡黒田荘に住み、黒田氏を名乗る。重隆の代に播磨国守護赤松氏の一族で御着城主小寺政職に仕え、端城姫路城を預かった。職隆の子黒田孝高は織豊取り立て大名として出世、豊前中津城主となり、関ケ原の戦後に子の長政と筑前福岡に移った。①筑前福岡藩主。慶長5年(1600)関ケ原の戦功により、孝高の子黒田長政は豊前中津より移され、筑前52万3100石を領した。元和9年(1623)長政の死去により嫡子忠之が筑前43万3100石を襲封、弟二人は支藩を立てた。明治3年、12代長知の時に廃藩の時に長男長成は侯爵になった。②筑前国秋月藩主。福岡黒田家の分家、1623年黒田長政の死後、三男黒田長興(1610~1665)が5万石分知され、夜須郡秋月に陣屋を起き、一二代長徳の時廃藩を迎えた。後に子爵になった。
「加藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
加藤氏については、大きく分けて①近江国加藤氏。伊予国大洲藩主の加藤氏。肥後国熊本城主の三つに分けられる。近江国の加藤氏は水口藩主。三河国生まれた。加藤嘉明は豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)当初淡路国で1万5000石を宛がわれた。後に伊予国松前へ転封となり6万2000石を領有。10万石加増される。席が蠅らの戦後、10万石を加増され松山城に入った。寛永4年(1627)20万石加増されて陸奥国会津に転封。1643年明成のとき、領地を返上した(会津騒動)が、孫明友に石見国吉永で1万石が宛がわれた。天和2年(1696)1万石加増されて近江国水口へ移り、元禄8年下野国壬生に転封となり3万5000石を領有した。4代明英は、寺社奉行、奏番者、若年寄りを歴任して、更に正徳2年(1712)5代嘉矩のとき、近江国水口に戻り明治に至った。
②加藤氏に伊予国大洲藩主。家祖加藤光泰の父景泰は家電によると、藤原鎌足12代目の末裔とされる。光泰はその嫡男で美濃国生まれの斎藤龍興の武将、のち豊臣秀吉に仕え美濃国大垣に城主4万石に立身する。一時秀吉の勘気に触れて、近江国佐和山城主になり、小田原攻めの後、甲斐24万石に減封されたが、関ケ原の戦い後、徳川氏から伯耆国米子6万石を得、大坂の陣の戦功で元和3年(1617)大洲藩6万石に転封、以後廃藩置県まで13代続いた。
③もう一つの加藤氏は肥後熊本城主加藤清正、子の加藤忠広を中心とした姓氏、藤原北家道長流と言うが不明。清正の祖父が斉藤道三の家臣で尾張国愛知郡中村に住したのが始まり、清正の父清忠に継嗣されたという。清正は幼少期より秀吉に仕え、豊臣の武将として成長し天正16年(1588)肥後半国19万5000石の大名と秀吉蔵入り地の代官となり。関ケ原戦い後は肥後52万石となり、熊本城主となったが1611年に没後、1611年三男忠広が襲封したが、1632年に失政し出羽国庄内1万石に没落、その後飛騨国高山に流され、加藤家は消滅した。
「宇喜多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
宇喜多氏は室町から安土桃山期の武家、出自は百済王子、備前国児島などに諸説はあるが、16世紀初頭には、備前国邑久郡豊原荘を本拠とする国人で、同国守護代浦上氏の麾下にあった。宇喜多能家(?~1534)の代に浦上麾下の有力武将として台頭するが、天文3年(1534)能家は浦上の内訌で討たれ、その子宇喜多興家も逃亡先で客死して一時衰亡した。しかし興家の子、宇喜多直家が浦上宗景の下で家名を再興し、やがて浦上氏を滅ぼし、備前・美作・備中に勢力を拡大し、織田信長と結んで毛利氏に対抗した。直家の子宇喜多秀家は豊臣秀吉に従い、その四国、九州、小田原征伐へと出兵し、さらに朝鮮侵略に功を立て、57万石余の大名になり、五大老の一人として豊臣政権の中枢を担った。しかし慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで秀家は西軍に属して敗れ八丈島に流され数奇な運命を辿った大名の没落であった。
「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田国信、搦め手に山名持豊と一族を配した幕府追討軍が派遣された。山名軍の攻撃により9月10日に自害、子の教康は伊勢で殺害された。赤松氏の領国は播磨を山名持豊、備前・美作両国もそれぞれ山名一族に与えらえ、赤松氏は一時没落し、代わり山名氏の勢力が増大した。この政治的混乱期をついて機内に大規模など一揆が起こり、「嘉吉の土一揆」が起こり室町幕府の解体の遠因になった。
「天誅組攘夷の大義」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。
「歴史の回想・済南事件」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
日本の山東出兵で起こった日中両軍の武力衝突。1928年’昭和3年)の国民革命軍の北伐再開に際し、日本が第二次山東出兵を断行すると、(第一次山東出兵の昭和2年(1927)北伐の国民革命軍が山東省に迫ると、東北(満州)権益の動揺を恐れた田中儀一内閣は、邦人保護を名目に5月に2000人を同省に送り、7月には2200人を増派した。この間東方会議で対中強硬方針が確認されたが、中国側が北伐の矛先を緩め、内外の出兵批判も高まって、9月撤兵した。第二次出兵の際1928年の北伐再開で田中内閣は再度出兵を決め、4月、5000の兵力で山東の要所を占領。その結果5月、済南で日中双方の武力衝突が起こった。第三次では済南事件の発生で日本は師団単位の兵力を送って山東省全域から華北各地に展開させる一方、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明を出した。しかし1928年6月、関東軍参謀河本大作が政府の思惑を超えて東北の実力者張作霖を爆破、軍閥を継いだその息子張学良を石未革命支持の方向に追いやることになった。結局出兵は日本の侵略姿勢を印象付けただけに終わった。国内ではこの出兵を反対して対支非干渉運動が起こった。)5月3日済南で日中間の市街戦が起こった。8日には全面戦闘に発展、日本軍は総攻撃し済南城を占領。この一連の戦闘で一般市民・在留邦人、中国外交官にも犠牲者を出した。一方、国民革命軍は済南を迂回して北上し、戦闘は11日には終息したが、日本はこの事件を契機に出兵兵力を増加させ(第三次山東出兵)中国の反日民族意識を決定的なものにした。国民革命へ武力干渉という意味で、日中十五年戦争の端緒になった銭湯といえる。
「歴史の回想・中先代の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
北条高時の子、北条時行が1335年(建武2年)7月、建武政権に対抗して東国で起こした反乱。乱名は北条氏を先代、足利氏を後代、時行を中先代と称したことによる。同月初旬信濃の諏訪頼重ら北条旧臣が時行を擁して挙兵、鎌倉将軍府を運営していた足利直義を破り、鎌倉を占拠した。直義は拘禁中の護良親王を殺害を指示し、成良親王とともに鎌倉を退去したが、8月19日京都から下ってきた足利尊氏の軍勢鎌倉を奪回、時行は逃亡した。この反乱は鎌倉幕府と関係の深かった西園寺公宗の京都における建武政権転覆計画と絡み、北条残党の反乱の内で最も大規模で影響も大きかった。乱の鎮定後、尊氏は鎌倉で武家政権の債権の構想を練った。だが死んだはず時行が生きて再び挙兵し鎌倉を奪還した。それが後北条氏だという噂が未だ残っている。誰も時行の最期を知る者はいないという。
「歴史の回想・応永の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
応永の乱、1399年(応永6)大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。大内氏は室町幕府の全国統一に多大な貢献をしたため、周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の6か国の守護に任じれられ、その地理的条件を浮かした対外貿易で巨利を上げていた。このため、より安定的な幕府財源の獲得めざし3代将軍足利義満はと対立し、他の足利一門以外の大氏内氏族同様討伐の対象になった。1396年渋川満頼が九州探題に就任したのを機に、九州地方では戦乱が頻発したが、幕府の満頼援助の命令を受けた義弘は弟満弘を派遣、満弘戦死後は自ら下向しこれを鎮圧した。しかし、幕府の対応に不信感を持った義弘は、その後容易に上京せず、義満に不満を持つ鎌倉公方足利満兼との連携を強めた。そして1399年10月、大軍を率いて和泉国堺に着任して籠城、これを機に各地に反幕府勢力が挙兵したが、悉く鎮圧され、義弘も12月21日戦死し、弟弘重は降伏した。
「歴史の回想・上杉禅秀の乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
上杉禅秀の乱は、1416年(応永23年)から翌年にかけて鎌倉で起こった内乱。首謀者は前関東管領上杉氏憲(禅秀)で鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲基を討とうとして持氏の叔父満隆を擁し、千葉・武田・大掾・岩松ら関東の多くの武家を誘い、10月2日に鎌倉で決起した。このクーデター一端は成功したが、持氏と憲基は逃走するが、将軍の継承を廻って対立していた弟の足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍義持が持氏支持の姿勢を明示し、諸将に氏憲討伐を呼びかけると、各地の武士たちは挙兵し鎌倉に進み、結局氏憲は敗れて、よく1417年正月10日に自殺した。この乱は鎌倉府を二分にし、関東の武家のほとんどを巻き込んだ大規模なもので、この事件のきかっけに関東は混乱状況に入った。
「歴史の回想・奥羽仕置」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書
「奥州仕置の起因」(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。
豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。
宗洗は天正16年までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。
天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し、奥羽の無事実現へ大きく前進した。
秀吉は天正17年1月に政宗に書状を遣わし、天正17年前半の上洛を求めた。
しかし、その天正17年の前半である5月に政宗は蘆名領の会津へ侵攻したのだった。
秀吉は上洛要請を無視し、奥羽の無事を乱した政宗の行為に不信を抱き、政宗が会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する用意があることを明らかにした。
11月、北条氏が秀吉の沼田領裁定を覆し、真田領・名胡桃へ侵攻したことをきっかけに翌春に北条氏の征伐が行われることになり、東国に征討軍が派遣されることになった。
天正18年、秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。
これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。