「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「朝倉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍 室町幕府管領家斯波氏の重臣、後に越前の戦国大名。但馬国朝来の土豪であったが、南北朝初期に越前守護斯波氏

2019-11-09 06:44:04 | 温故知新
「朝倉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍
室町幕府管領家斯波氏の重臣、後に越前の戦国大名。但馬国朝来の土豪であったが、南北朝初期に越前守護斯波氏に従って越前に入部し、足羽郡を中心に土着的な勢力を伸ばす。長禄2年(1458)に朝倉孝景は守護代甲斐氏と結んで、守護斯波義敏方の勢力を討って頭角を現し、足羽郡の一乗谷を本拠地として軍事力を強化。孝景は応仁・文明の乱の中の文明3年(1471)に西軍から東軍に寝返って自立し戦国大名になるが。この時に越前守護職を与えたと伝えらえている。永正3年(1506)以降は加賀の本願寺派一向一揆と敵対していたが、永禄11年(1573)一乗谷で元服した足利義秋の仲介で本願寺と和睦し、浅井軍と連携し、反織田信長勢力の一環となった。天正元年(1573)8月に信長に敗れ、朝倉義景は自殺、朝倉氏は滅亡した。


「諏訪氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍

2019-11-09 06:42:06 | 温故知新
「諏訪氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍
中世の武家。興福寺成身院の家元。本拠は大和国添下郡筒井平城(現大和郡山市)代々興福寺の官符衆徒に任じ、一条院門跡の坊人となる。出自については諸説があるが、未詳。南北朝内乱末期から台頭。官符衆徒の棟梁として活躍する一方、いわゆる大和武士として、大和の制圧を目指して越智氏らと鋭く対立した。
大和にも影響力も大きい河内守護畠山氏に分裂が起きると筒井順永と兄の成身院宣(1390~1469)が畠山政長を強力に支援以降も代々政長を支持して、畠山義就流を支持する越智氏らと抗争を繰り返した。天正4年(1576)筒井順慶は織田信長から大和一国の支配を任され、郡山に築城。その後、家臣の対立でお家騒動、改易、後継者に恵まれず、不遇な戦国の世に生きたが、しかしも定次の世で理不尽にも、豊臣秀吉によって伊賀上野城に転封させられ、大坂の陣後は筒井氏は断絶した。




「二条家一族の群像」)アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電書籍 「二条家」(にじょう藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実を祖

2019-11-09 06:36:01 | 温故知新
「二条家一族の群像」)アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電書籍
「二条家」(にじょう藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実を祖とする。二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。良実は1242年(仁治3)関白となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。鎌倉末期道平は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。その孫が足利義満の諱(いみな)一字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を一字もらうことを例とした。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。明治維新後、公爵を授けられた。
(2)藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の子孫(鎌倉後期~南北朝時代)の家名。定家の子為家(ためいえ)の長男為氏(ためうじ)を祖とする。定家の二条京極邸の中の二条大路側の家を伝領したゆえの名で、「二条」と号したのは子の為世からである(為氏は「藤原」とのみ)が、同じく為家の子為教の京極家、為相の冷泉(れいぜい)家にそろえて為氏からをさすのが普通。俊成・定家以来の歌道師範家の嫡流として重きをなし、両統分立以後は京極・冷泉家(派)が持明院統(じみょういんとう)と結び付いたので、いきおい大覚寺統と結び付き、為氏が『続拾遺集』を撰んで以来、代々勅撰撰者となった。 南北朝分裂後、北朝で一時勢力を失ったが、為定(為世の孫)が将軍足利尊氏の支持を得てふたたび師範家となり、3勅撰集をなした。しかし南北朝時代末期に人材を欠き、あるいは殺害されて断絶した。

2、「二条家の出自」(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。
藤原氏北家九条流。鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)。家紋は二条藤。
 鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いを受けて鎌倉幕府より「中院禅閤(二条兼基)等子孫不可為家督」(『花園院宸記』正慶元年4月10日条)の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥った(後醍醐天皇の復帰で無効となる)。
 続く、南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の子)のもとで勢力を取り戻した。戦国時代の当主二条尹房は大内義隆を頼って周防国山口に滞在していたところ大寧寺の変(陶晴賢の乱)に巻き込まれて殺害されている。
「二条家」(にじょう)
(1)藤原氏。五摂家(ごせっけ)の一つ。鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実を祖とする。二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。良実は1242年(仁治3)関白となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。鎌倉末期道平は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。その孫が足利義満の諱(いみな)一字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を一字もらうことを例とした。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。明治維新後、公爵を授けられた。
(2)藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の子孫(鎌倉後期~南北朝時代)の家名。定家の子為家(ためいえ)の長男為氏(ためうじ)を祖とする。定家の二条京極邸の中の二条大路側の家を伝領したゆえの名で、「二条」と号したのは子の為世からである(為氏は「藤原」とのみ)が、同じく為家の子為教の京極家、為相の冷泉(れいぜい)家にそろえて為氏からをさすのが普通。俊成・定家以来の歌道師範家の嫡流として重きをなし、両統分立以後は京極・冷泉家(派)が持明院統(じみょういんとう)と結び付いたので、いきおい大覚寺統と結び付き、為氏が『続拾遺集』を撰んで以来、代々勅撰撰者となった。 南北朝分裂後、北朝で一時勢力を失ったが、為定(為世の孫)が将軍足利尊氏の支持を得てふたたび師範家となり、3勅撰集をなした。しかし南北朝時代末期に人材を欠き、あるいは殺害されて断絶した。

2、「二条家の出自」(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。
藤原氏北家九条流。鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)。家紋は二条藤。
 鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いを受けて鎌倉幕府より「中院禅閤(二条兼基)等子孫不可為家督」(『花園院宸記』正慶元年4月10日条)の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥った(後醍醐天皇の復帰で無効となる)。
 続く、南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の子)のもとで勢力を取り戻した。戦国時代の当主二条尹房は大内義隆を頼って周防国山口に滞在していたところ大寧寺の変(陶晴賢の乱)に巻き込まれて殺害されている。