「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。 近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田

2019-12-01 06:16:35 | 温故知新
「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。
近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満、賀茂真淵を経て本居宣長に至って大成したと言われるが、平田篤胤以降の幕末国学もこの流れの中にある。国学をどのように定義するかについて「道統」をどのようにとらえるかによっても異なる。既に近世にも宣長没後門人などの間では、歌学派と古道派の間に争いが見られ、近代以降になっても国学を文献学とみなす村岡典嗣、久松潜一らの立場の間に見解の相違があった。いずれにせよ、その大成者と言われる宣長の学問内に、古典に対する文献考証学的価値と復興主義的古道論の二側面をとらえ、どちらが本質か依っては学者の眼差しは分岐点来たと言っても良い。趨勢的には、戦前は国体論と結びつけて来たのに対して、戦後はその考証学的側面を近代的なものと評価する傾向がある。そうした眼差しの相違にも関わらず、今なお近代の国文学、国語学などの淵源として国学をとらえる見方は大形で一致している。しかし、それは逆に近代国文学などの学知が、繰り返し国学を淵源として「再生」させてきたことによるもので、その系譜自体を疑問視する子安宣邦らの研究もある。国学が成立以前は古典研究・歌学研究は秘事口伝、古今伝授として相承されてきたが、これも疑義を呈した先駆者としては戸田茂睡、下河辺長流などが知られる。元禄初期の大坂妙法寺の僧、契沖はそのうえに書誌研究や言語的研究といった文献的方法に研究を加えて、国学者の先駆者としての位置づけている。



「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。 弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛

2019-12-01 06:13:14 | 温故知新
「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。
弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。
天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。


「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。 近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満

2019-12-01 06:10:13 | 温故知新
「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。
近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満、賀茂真淵を経て本居宣長に至って大成したと言われるが、平田篤胤以降の幕末国学もこの流れの中にある。国学をどのように定義するかについて「道統」をどのようにとらえるかによっても異なる。既に近世にも宣長没後門人などの間では、歌学派と古道派の間に争いが見られ、近代以降になっても国学を文献学とみなす村岡典嗣、久松潜一らの立場の間に見解の相違があった。いずれにせよ、その大成者と言われる宣長の学問内に、古典に対する文献考証学的価値と復興主義的古道論の二側面をとらえ、どちらが本質か依っては学者の眼差しは分岐点来たと言っても良い。趨勢的には、戦前は国体論と結びつけて来たのに対して、戦後はその考証学的側面を近代的なものと評価する傾向がある。そうした眼差しの相違にも関わらず、今なお近代の国文学、国語学などの淵源として国学をとらえる見方は大形で一致している。しかし、それは逆に近代国文学などの学知が、繰り返し国学を淵源として「再生」させてきたことによるもので、その系譜自体を疑問視する子安宣邦らの研究もある。国学が成立以前は古典研究・歌学研究は秘事口伝、古今伝授として相承されてきたが、これも疑義を呈した先駆者としては戸田茂睡、下河辺長流などが知られる。元禄初期の大坂妙法寺の僧、契沖はそのうえに書誌研究や言語的研究といった文献的方法に研究を加えて、国学者の先駆者としての位置づけている。






「歴史の回想・大政翼賛会」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2019-12-01 06:06:04 | 温故知新
「歴史の回想・大政翼賛会」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
大政翼賛会は昭和15年(1940)から終戦の昭和20年まで5年間で発足したアジア・太平洋戦期を通じて活動した中心的国民運動と動員組織。新体制運動の結果。1940年10月12日に戦時体制を担う中核組織として結成された。近衛文麿首相が総裁を兼任し有馬頼寧が事務総長になるなど、当初は近衛グループが主導し、軍部・革新右翼がそれぞれ支えた。中央本部には総務局・組織局・政策局・企画局・議会局の5局が置かれ、地方組織として道府県支部一郡支部・6大都市支部一市区町村があり、その末端に町内会・部落会・隣組が組み込まれた。道府県支部長には途中から知事が就任し、独自の組織を作ったものの内務省の影響力を免れることができなかった。別に協議機関として中央協力会議一道府県協力会議一市区町村協力会議が置かれたが、実際には「下情上通」の組織であった。近衛グループは新党において指導権得ることを期待して解党した政党勢力を議会局に押し込んで、強力なヘゲモニーを発揮しようとしたが、近衛が主導することを嫌う観念右翼は、翼賛会を唯一の政治活動団体として政事結社を主張した。これを内務官僚や財界人などが呼応したため、結局1941年2月に公事結社と認められ、能動的な政治活動が禁止された。さらに4月の改組では有馬事務総長以下が辞任を余儀なくされ、内務省の「上意下達」の行政補助機関として機能することになった。有馬に代わる事務総長にはk大蔵官僚出身の石渡壮太朗が就任し、以後横山助成・後藤文夫・丸山鶴吉・小畑忠良・安藤狂四郎と官僚出身者が引き継いだ1942年1月には実践組織として大日本翼賛壮年団を発足させ、6月には産業報国団、商業報告国会・大日本青少年団など6団体を統合した。また8月には町内会・部落会の会長翼賛会の世話役に、隣組長を世話人に指名して事実上両組織の一体化図り、住民の日常生活を管理する唯一の国民運動組織・行政補助組織として戦争動員体制を支えた。1945年6月23日の国民義勇隊の結成に伴い解散し