「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介  中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。

2019-12-03 05:55:22 | 温故知新
「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。
 重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。
 頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。
 貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。
天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。
景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。


「島津一族の群像」アマゾン電子書籍紹介  鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家

2019-12-03 05:48:49 | 温故知新
「島津一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。













「長宗我部一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。

2019-12-03 05:45:45 | 温故知新
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長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。
長岡郡宗部郷(元南国市)を領したことから長宗我部氏と称し、岡豊城を本拠に勢力を伸ばした。
長宗我部氏の出自には諸説はあるが、まだ明確に解っていない。
 室町期には守護細川氏の配下に属して活動していたが、永正4年((1507)京都で細川政元が暗殺されると、国内で孤立を深めていった。
 まもなく、当主長宗我部兼序(かねつぐ)は周辺の国人達に襲撃を受けて岡豊城で自害をした。
 この時、兼序の子長宗我部国親(くにちか)(1504年~1560年)は幡多郡の一条氏の下で逃れたが、やがて岡豊に戻って長宗我部氏の再興を勧めた。永禄3年(1560)国親が急死すると、その子長宗我部元親が家督を継いで近隣の国人層を次々に従えて、天正3年(1575)土佐統一を達成し、更に阿波・讃岐を制圧し、伊予にも侵攻したが、1585年に豊臣秀吉に従属を拒否し戦いになった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。
元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。
秀吉に敗れて服属した。
 秀吉の下で諸国を転戦するが、慶長4年(1599)に元親が死ぬと、家督を長宗我部盛親は翌年の関が原では西軍に属した。
このために、徳川家康は土佐一国を長宗我部から没収したところ、遺臣らが反発して浦戸一揆など、度々蜂起が見られた。
元和元年(1615)盛親は大坂夏の陣で敗れて殺害され、一族は滅亡した。