年の瀬になって、いろいろ、痛ましいニュースが、聞こえて来る。
努力と才覚次第で、誰にでも、成功のチャンスがある「アメリカン・ドリーム」の世界と言われた資本主義。
そこで、今、何が起こっているのだろう。
思えば、資本主義は、弱い者、貧しい者、生き方が不器用な者に、冷たい社会。
競争こそが「正義」である、適者生存の社会だから、しょうがない。
あまり馴染みがないかもしれないが、資本主義社会には、「独占禁止法」という、競争をしない者を、処罰するための法律まであるのだから、当然だろう。
強い者は勝ち、弱い者は負ける。
富める者は、益々富み。
貧しい者は、生存限界で生きる。
考えてみると、恐ろしい社会。
資本主義社会では、競争が成長をもたらし、豊かさをもたらす。
全ての人が「神の見えざる手」から、平等に、競争への切符を手渡される。
しかし、今は、競争への切符は、「競争の勝者の手」から「縁故者」へ。
特に、「親の手」から「子供」へと手渡されるだけ。
機会の平等は消え、一部の限られた者、すなわち、勝者と、その縁故者に独占された競争へと変わってしまった。
そんな競争からは、最早、何も生み出されない。
強い者、富める者、生き方が器用な者が、弱い者、貧しい者、生き方が不器用な者から、全ての富を奪い、支配する、「格差社会」以外には、何も。
本来、平等に与えられるはずの、成功への機会を奪われた「格差社会」。
競争条件が、変わったなどという生易しいものではない。
いつの間にか、競争に参加できる人間と、参加できない人間とが、峻別されてしまった。
金も縁故もないために、競争への参加資格を得られず、辛く苦しい人生を送らざるをえない「敗者」。
その「敗者」に向かって、「才能が無い」、「努力が足りない」と叱咤する「勝者」。
「勝者」にとっては、この資本主義社会は、居心地のよい最高の世界となった。
「人生100年時代を謳歌し、せいぜい大好きな競争を、勝手に続けてくれ」と、悔し紛れに叫んでみたところで、詮方無しか。
しかし、少数の「勝者」の大好きな競争が、そして資本主義が、大多数の「敗者」の破滅をもたらすかもしれないということを、思い起こして欲しい。
そんな世界は、少数の「勝者」にとっても、地獄になるのだから。