現在のような「情報化社会」では、指導者を自認する人間と、その指導者を選ぶ国民の情報量に、ほとんど差が無くなった。
極端に言えば、誰でも指導者に匹敵する情報を持つ時代になった。
そのせいか、日本の国会議員を見ていると、議員を選ぶ側の国民の方が、優秀ではないかと思えてしまう。
情報化社会の現代、インターネットを使いこなせば、一瞬にして世界と繋がることができる。
私たちは、国家や組織を超越して生きることができるようになった。
そんな時代に、IT音痴を自認する、ネットも使いこなせないような指導者なんて、ハッキリ言って、要らない。
そうは言っても、現実世界の様々な制度や仕組みは、情報化社会以前の、遙か昔の、古典的社会を前提に作られている。
そのため、様々な不具合が生じている。
そもそも、古典的社会は、「動物」としての「人間」をベースに制度や仕組みが作られている。
確かに、人間は動物だが、その容姿や行動に重きを置いた制度や仕組みは、情報化社会では、役に立たない。
まさに、今のコロナ禍、密や接触回避のために、リモート化しようとすれば、するほど、古典的社会と情報化社会との間の乖離の大きさに気づかされる。
政治や経済にしても、主人公である国民や従業員の上に、「内閣総理大臣」だとか「CEO」などという「運良く、宝くじに当たったような、時代遅れの老人」が、国家や企業の代表だなんて、あまりに生産性が低すぎる。
情報化社会の現代、古典的社会しか知らない一人の老人を「代表」と崇めて、全ての情報や権限が収斂する仕組みなど、時代錯誤にも程がある。
中には、優秀な「代表」もいるかもしれないが、仮に百歩譲っても、一人の人間に、全ての権限を収斂させるなら、その人間に全ての責任も収斂させるべきだろう。
しかし、残念ながら、そんな例に、未だかつて、お目にかかったことは無い。
いずれにしても、遅かれ早かれ、国政や地方政治のための「代表」や「議会」、企業の「CEO」や組織を動かすための「会議体」などというものは、無くなるだろう。
一人一人が、自らの意思や考えを、瞬時に、世界中の不特定多数のもとへ届けることができる情報化社会。
そして、ロボットや人工知能(AI)が発達して「シンギュラリティ」を迎える頃には、私たちは、自分の生活や人生を、他人に任せる必要はなくなるだろう。
「委任」などという言葉は、死語となる。残ったとしても、「委任」の相手先は、「人間」ではなく「AI」ということになるのではないか。
明確で誤解の無い意思の交換と、それに基づく適切なフィードバックが得られれば、最早、自分の生活や人生を「他の人間」に託す必要はなくなる。
そうなれば、「民主主義など無用の長物」ということだ。