日本を含む西側諸国は自由主義国家。
自由主義国家は、「民主主義」と「資本主義」に支えられている。
「民主主義」によって、国民は、為政者を自由かつ公正に選ぶことができる。
そして、「資本主義」によって、国民は、自由な経済活動を保証され、富を得る公平な機会を持つことができる。
とにかく自由主義国家の国民は、政治、経済、社会活動において、制約や抑圧を受けること無く自由を謳歌できる。実に素晴らしいことだ。
しかし、残念ながら、それは虚構にすぎない。自由主義国家で、自由を満喫できるのは全ての国民ではなく、「一握りの勝者」だけというのが、現実だからだ。
そもそも、人間は、人種、性別、能力、体型、容姿からして異なる。決して平等には創られていない。
そんな、不平等な人間を、同じルールで競争させるのが資本主義。自ずと勝敗は決まってしまう。
人種や性別のような「人間としての初期設定の違い」については、競争ルールが変更され、大きな格差が生じないよう、ある程度の配慮がなされている。
しかし、能力や体型や容姿などの差は、自助努力で乗り越えなければならない。
それでも、不平等がここまでなら、まだ何とかなる。しかし、実際にはもっと酷い不平等がある。
それは、人間としての初期設定や資質の差などでは無く、生まれた環境の違いから生じる不平等。
こちらは本人とは全く無関係だから、自助努力で乗り越えるなんて不可能なのだ。
若いうちは、こうした様々な不平等に耐えられず、もがき苦しむ。
ところが、そのうちに、生きていくことで精一杯になり、「不平等を呪ったところで仕方が無い」と諦める。その方が、健全で無難な生き方だからだ。
しかし、それではいけない。
だいたい「敗者復活のない勝者総取りの競争」を是とする資本主義なんて、そもそも、おかしいだろう。
人生100年時代を、絶望の中で生きていく国民が増え続けたら、自由主義国家を支える資本主義や民主主義がもたないかもしれないからだ。
「能力のある者が、大金持ちになってどこが悪い」、「それが資本主義の醍醐味だ」、「資本主義が嫌いなんて、貧乏人のひがみだ」という人も多いだろう。
資本主義の勝者にとっては、敗者なんて努力が足りない軟弱な人間にしか見えないのかもしれない。
しかし、このまま、自由主義国家の中の「格差」を放置し続ければ、私たちの「自由と民主主義」は、外部からのイデオロギー的な挑戦によって崩壊する前に、内部から崩壊するかもしれない。
だから敢えて言いたい。
「自由と民主主義」を標榜する私たちは、一体どこまで人間同士の格差を拡大すれば気が済むのかと。