『おれも、母ちゃんも、長く生き過ぎたな』
老父がポツリとひとこと
「キュウリがなり過ぎたから、取りに来い」
「テレビが映らないから、見に来てくれ」
などなど、最近は週イチくらいの頻度で、実家に来いと誘われます
毎週は無理でも、仕事で近所に行った時には、
できるだけ寄るようにしています
昨日も、ちょっと寄ってきたのですが
父の老化が、加速度的に進んでいるような・・・
父も90歳を超えており、肉体的な衰えは仕方ないとして、
母が倒れ、ひとり暮らしになってから1年半
ひとりの寂しさ、体が動かないもどかしさが
老化を加速させているような気がします
『はやくお迎えが来て欲しい』
ともよくつぶやいていますが、その日は、なかなかきません
きっと寿命は決まっているのでしょうね
でも、『寿命がつきるとはどういうことなのだろう』
生物的機能の終焉の他には、意味があるような気がします
この世での役割が終わるということ?
寂しさに耐えられなくった時?
人生100年時代、なんて最近よく口にしますが、
生物的に100年生きられても、
ホントに幸せなんだろうか?
両親が倒れてから、1年は考える間もなく過ぎていきましたが
この状況に慣れてくると、いろいろ考えてしまいます
近くにいるというのも、良し悪しなのかな