スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
5年前に肺癌でなくなった父が
残した幼い日の記録を
私たち家族だけではなく
どこかの誰かにも読んで欲しいと
ふと 思いついて書きます。
父の満州の思い出を。
中国人同志の戦争
ソ連兵がいなくなって しばらくすると中国人同志の争いが始まった。
侵攻してきたのは、国防軍と呼ばれるもので、大人たちが話しているのによると、わたしたちに危害を与えない、いい軍隊だ とのこと。
しかし 悪い軍隊が攻めてくる という噂が出始めると、いつのまにか国防軍がいなくなり、
服装の悪い、武器のお粗末な兵隊が侵攻してきた。
大人たちは この軍隊を八路軍と呼んでいた。
これらの兵隊の中には、日本人もたくさん混じっていると噂されていた。
当時のわたしにはわからなかったが、これが蒋介石と毛沢東の戦争だったようで、
この内戦のために、道路や鉄橋が爆破されて、そのために日本への引き揚げが随分おくれたことは、大きくなってから知った。
衣食
終戦まで使用人として働いてくれた満人の家に、食べ物や着るものをもらいに行った。
くれるのは、家畜に食わせるコウリャン、エサのトウモロコシで 真っ赤なコウリャン飯やトウモロコシの粥を食べた。
それでも 食べ物があるのは大変にありがたいことで、栄養失調で死んだ人はたくさんいた。
春になると、食べられる草やつくしを山ほど取ってきて食べ、満人の家の豚を野原へ峰さんと連れていって草を食べさせ、お礼に食べ物をもらった。
大きな豚の背に乗って、野原へでかけた。
秋には、満人だか朝鮮人だか覚えていないが、稲の穂だけ摘み取って収穫しているので、
稲穂がたくさん落ちている。
それを田んぼに拾いに行き、瓶に入れて棒で突き、もみ殻をとって玄米ご飯。
どんなに美味しくてどんなに幸せを感じたことか!
冬には、雪の山にワナをしかけ、ウサギを捕ったり、雪をはねてエサをまき、雀を捕って食べたり 、わけのわからない幼いわたしには、楽しいことばかりだったような気がする。
また 近所の畑で何か作って収穫していたような気もする。
着るものも満人にもらった。
布で縫った靴、布に綿をいれた手縫いの服。
おかげで冬も凍え死ぬことはなかったが、一年中それ一着だから、ぼろぼろになっていた。
頭にも服の縫い目の中にも 、縫い目に頭を突っ込んで尻だけをだしたシラミがびっしりいて、
これをつぶすのも日課のひとつだった。
のみと違い、シラミは逃げ足が速くないので、つぶすのは簡単だった。