今朝の新聞にこのような見出しで出ている。要約すると1919年福建省の漁民31名が嵐にあって遭難し、漂流して
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内の和洋島(魚釣島の別称)に着いた。
八重山郡石垣村職員の玉代勢孫伴君は熱心に救護し、
故国に生還させてくれた。この書状の贈呈をもって感謝の
気持ちを表す。中華民国の駐長崎領事が1920年5月20日の公印が押してある感謝状をおっくたのが、石垣市立八重山博物館に保管されている。
尖閣諸島は1895年に沖縄県に編入した際、当時の清国
(現在の中国)異議はなく、1951年調印のサンフランシスコ
講和条約でも、日本が放棄した領土に含まれなかった。
72年の返還までは米国の施政下に置かれたが、中国や
台湾はこの時も異議を唱えなかった。
ここでも尖閣諸島は日本固有の領土であることが証明
される。このような物証があるのだから感情的にならず
話会えば理解出来るのではないだろうか・・・・
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内の和洋島(魚釣島の別称)に着いた。
八重山郡石垣村職員の玉代勢孫伴君は熱心に救護し、
故国に生還させてくれた。この書状の贈呈をもって感謝の
気持ちを表す。中華民国の駐長崎領事が1920年5月20日の公印が押してある感謝状をおっくたのが、石垣市立八重山博物館に保管されている。
尖閣諸島は1895年に沖縄県に編入した際、当時の清国
(現在の中国)異議はなく、1951年調印のサンフランシスコ
講和条約でも、日本が放棄した領土に含まれなかった。
72年の返還までは米国の施政下に置かれたが、中国や
台湾はこの時も異議を唱えなかった。
ここでも尖閣諸島は日本固有の領土であることが証明
される。このような物証があるのだから感情的にならず
話会えば理解出来るのではないだろうか・・・・