『いろいろ。石炭の歴史村篇 改訂版』をダイジェストでご紹介します。
もし、このダイジェストを読んで興味を抱かれたら、ぜひA-COLORが参加する同人誌イベントでお手に取ってください!
目次
同人誌の仕様
概要
本誌目次
石炭の歴史村 誕生へ
大成功 石炭の歴史村
石炭の歴史村 倒産
石炭博物館リニューアル
第1回バリバリ映画祭
同人誌の仕様
・B5版
・106ページ
・2022年12月3日 北海道COMITIA16初頒布
・フルカラー 1500円
概要
2018年に発行した『いろいろ。石炭の歴史村篇』の改訂版です!
前版を発行した後に、石炭博物館は火災に遭ったりコロナの影響を受けながらも、日本遺産に認定されたり、いろんなツアーが企画されたりと精力的に活動していました。
もう破綻した町の観光施設とは言わせない、石炭博物館としての現在の姿をもっと紹介したい! という気持ちになってきました。
そんなカンジだったので新たに調べたことや新しい出来事を盛り込んだ「改訂版」として作成しました。
主に加筆修正したのは、以下のところです。
・石炭の歴史村がオープンする前の総合開発計画のエピソード
・松下興産と夕張市の関わりを深掘り
・リニューアル後の石炭博物館のイベント
・夕張市を扱った映画
稼働時の写真は、ほとんど集められなかったが残念なのですが……。
現在の様子や資料などを調べました。
少しでも、石炭の歴史村の魅力が伝わるといいなあ。
前版をお持ちの方にとっては重複する内容も多いのですが、どうかそこはご勘弁ください。
本誌目次
石炭の歴史村 誕生へ
夕張市炭鉱開発の歴史
なだれ閉山の苦境、総合開発計画
炭鉱から観光へ―石炭の歴史村全面オープン
これが石炭博物館だ!
大成功 石炭の歴史村
炭鉱から観光へ、急加速
石炭の歴史村の施設
郷愁の丘ミュージアム
花とシネマのドリームランド
その他の施設
宿泊施設
松下興産によるリゾート開発
石炭の歴史村 当時の評価は?
松下興産の撤退
夕張観光開発株式会社の設立
夕張市のシンボル・ゆうちゃん
石炭の歴史村 倒産
夕張駅移転とホテルマウントレースイ
加森観光株式会社
『事業再生と債権管理』による破綻の経緯
産炭地とアートプロジェクト
清水沢アートプロジェクト
アートプロジェクト―アドベンチャーファミリーとその周辺
石炭博物館リニューアル
リニューアルした石炭博物館へ!
「バリバリ夕張」~石炭の歴史村~30年の軌跡と石炭博物館
夕張の石炭を運んだふたつの鉄路
石炭博物館バックヤードお宝拝見ツアー
「炭鉄港」ガイド養成事業「地域間視察・交流会」
道内最大の運炭私鉄「夕張鉄道」と北炭平和鉱を感じる
炭鉄港カードとゴールデンカムイのスタンプラリー
第1回バリバリ映画祭
女ひとり大地を行く
ユーパロ谷のドンベーズ
仮面ライダーBLACKと石炭の歴史村
冬の幽霊たち
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭
石炭の歴史村 誕生へ
かつて北海道は石炭の大産地であり、なかでも空知地方の夕張市は有力な産炭地でした。
1960(昭和35)年には、夕張市の人口が116,908人となり史上最多となります。しかし、国産石炭の需要減少と炭鉱合理化により石炭産業が急速に斜陽化。夕張市をはじめとする空知地方の炭鉱都市も人口が急減します。
こうした危機感から1970(昭和45)年、夕張市は「夕張市総合開発計画」を策定。
この計画案では炭鉱博物館と模擬坑だけが観光施設として建設予定で、アドベンチャーファミリーなど「石炭の歴史村」のような構想は無かったようです。
しかし、生産額の40%をあてにするという炭鉱頼みのこの政策は、もはや限界でした。
1978(昭和53)年「石炭の歴史村 建設基本計画」を作成。北炭夕張新第二炭鉱跡地に、立坑櫓を模した博物館と巨大な模擬坑道といった、国内でも例を見ない観光施設を建設するというものでした。
1979(昭和54)年、中田鉄治氏が夕張市長に選出。
そして1980(昭和55)年、第三セクター方式で「株式会社石炭の歴史村観光」が設立され、中田市長は同社の社長に就任。石炭博物館がオープンします。
本書では、リニューアル前の石炭博物館内の様子や地下坑道の様子も写真でご紹介します。
同年には、「夕張市新総合開発計画」が新たに策定され、「観光開発」「企業開発」「農業振興」の三本柱で新しい夕張市を目指します。
意外なことに、当初は「炭鉱から観光へ」を目指すのではなく、観光を呼び水に、炭鉱に変わる新たな企業誘致を目指そうというものだったのです。
1983(昭和58)年にはアドベンチャーファミリーが完成し、石炭の歴史村が全面オープン。その後も、次々と新たな施設が誕生。
そして1987(昭和62)年には、総合保養地域整備法(通称リゾート法)が施行。地域振興策の一つとして、レジャー施設やテーマパークといったリゾート開発がもてはやされる、狂乱の時代へと突入していき、夕張市もその渦中に飛び込んでいくことになります。
大成功 石炭の歴史村
1983(昭和58)年6月、遊園地のアドベンチャーファミリーをはじめ様々な施設が建設され、石炭の歴史村が全面オープンします(この年は開基95周年、夕張市市制施行40周年の年でもありました)。
その一方で、1981(昭和56)年10月に北炭夕張新炭鉱でガス突出事故、1985(昭和60)年5月には三菱南大夕張炭鉱でガス爆発事故と、炭鉱で痛ましい大事故が発生。
期待されていた北炭の新会社設立は断念。
1990(平成2)年には、三菱南大夕張炭鉱が閉山し、夕張市内の炭鉱がすべて姿を消しました。
かつて「ヤマさえ残れば」と期待していましたが、立て続けに発生した大事故により、炭鉱はまったく当てできなくなりました。それどころか閉山による経済対策が急務となり、結果として観光事業に頼らざるを得ない状況になっていました。
本書では深く掘り下げませんが、夕張市が観光事業に偏重せざるを得なかった理由として炭鉱会社への依存度の高さがありました。
夕張市では、水道、電気、病院、住宅といった生活基盤も北炭によるものでした。そのため北炭倒産に伴い、市が北炭から生活基盤を買い取って再整備しなければなりません。さらに北炭倒産で発生した多くの失業者対策、未払いの労務債、租税の踏み倒しといった、多くの閉山跡処理問題に直面しました。
石炭産業に変わる産業=観光へ産業転換を急ぐ必要があった、ともいえます。
度重なる炭鉱事故と炭鉱の閉山により、観光へ偏重せざるを得なかった夕張市。
そんな折りの1988(昭和63)年12月、松下興産がマウントレースイ国際スキー場を買収。
中田市長の想い描いていたビジョンが実現化し、まさに希望の光だったのではないでしょうか。
この年に開基100周年を迎えた夕張市では、記念として豪華な市勢要覧を作成。その記念すべき本の巻頭は、なんと松下興産の関根社長と中田市長による対談でした。中田市長は開基100年を迎えた昭和63年を「夕張再出発の年」として、「観光都市・夕張」へ向けて本格的なスタートの年と力強く宣言していました。
しかし、石炭産業を失った夕張市では、たとえ松下興産が参入しても人口流出は止まるところを知りませんでした。
観光政策を拡大していたこの時期であっても、夕張市の人口は下げ止まらなかったのです。
1990年代に入りバブル景気が弾け、リゾートブームが終焉を迎えたことで、一気に風向きが変わります。松下興産は、スキー場とホテル経営からの撤退を夕張市に打診。
観光を産業の柱に据えざるを得なかった夕張市にとって、松下興産の撤退に伴うスキー場とホテルの閉鎖は、まさに「第2の閉山」に匹敵する悪夢のような事態でした。
1994(平成6)年10月、観光産業と市民生活の維持のために、夕張市は第三セクター方式で夕張観光開発株式会社を設立。夕張市は松下興産が買収したリゾート施設をすべて買い戻し、松下興産は夕張市から撤退しました。
石炭の歴史村 倒産
2003(平成15)年4月、中田鉄治氏は夕張市長選挙に出馬せず、夕張市長に後藤健二氏が当選。
6期24年に渡る中田市政――市長就任時から石炭の歴史村の運営に携わってきた――が終焉しました。
そして3年後の2006( 平成18)年。北海道新聞が、夕張市財政が危機的状況にあることを報じます。
その年の6月、危機的状況を免れ得ない夕張市は、ついに財政再建団体入りを表明。
その翌年2007(平成19)年3月、夕張市は財政再建団体入りし、財政破綻します。
夕張市の破綻とともに、市が出資していた第三セクター、株式会社石炭の歴史村観光と夕張観光開発株式会社も破綻することに。
その後、石炭の歴史村の施設などは一部は加森観光の子会社・夕張リゾートが管理受託業者として引き継ぎ。引き継がれなかったものは解体されました。
石炭の歴史村とその関連施設は、ほとんどが閉鎖・取り壊しとなりました。遊園地・アドベンチャーファミリーも再開されることなく、遊具は取り壊されました。
このような状況でも、2011(平成23)年に清水沢アートプロジェクトが開催されました。
当時、清水沢発電所は解体がはじまっていましたが、きちんと主催者が所有者に許可を取ってイベントを開催。このイベントをきっかけに所有者の東亜建材工業株式会社のご厚意で、清水沢発電所が一般公開されることになりました。
さらに2015(平成27)年、NPO法人炭鉱の記憶推進事業団などが主催する「そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト2015 ― 堆積した歴史の層を剥ぐ―」が開催されました。
こういった市民の団結や草の根の活動が石炭博物館復活へと繋がっていきます。
石炭博物館リニューアル
2018(平成30)年3月、加森観光は観光施設の委託契約を更新しませんでした。
その代わりに2018(平成30)年4月からは、NPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」が石炭博物館の指定管理者となりました。
新たな石炭博物館の館長には、「炭鉱の記憶推進事業団」の理事長・吉岡宏高氏が就任。開館以来の大規模改修も行われ、展示内容もリニューアルされました。
リニューアルから一年が経過した2019(平成31)年4月18日、不運にも石炭博物館の模擬坑道で火災が発生。現在のところ改修中となり見学はできません(2025年に再開予定)。
目玉施設の損失により意気消沈していた2019(令和元)年5月20日、石炭博物館と模擬坑道が構成文化財となっている炭鉄港が日本遺産に認定されました。
関係者にとって悲願だった日本遺産の認定は、暗く沈んでいた石炭博物館にとって明るいニュースとなりました。
ところが2020(令和2)年3月以降、新型コロナウィルスの流行により石炭博物館も休館を余儀なくされることに。さらには文字通りの推進役であった石炭博物館の館長・吉岡宏高氏が急逝する不幸も重なりました。
一難去ってまた一難と困難がのしかかる石炭博物館。しかし、新たな館長・新たな理事長を迎えて、コロナによる規制も緩和されるにつれて、よりいっそう元気な活動を取り戻しつつあります。
一度は光が見えた「炭鉱から観光」でしたが結果的に破綻への道を辿ってしまいました。
しかし、現在の石炭博物館と夕張市は「その後」を目指して活動を続けています。
第1回バリバリ映画祭
夕張市を舞台、あるいは夕張市に縁が深い映画を特集しました。
期せずして、時代ごとの夕張市の姿を撮影していた作品を選ぶことになりました。
『女ひとり大地を行く』
1953(昭和28)年に公開された本作は、戦後の日本なかでも夕張市を舞台とした作品。
日本炭鉱労働組合と独立プロのキヌタ・プロダクションが共同製作し、主演が山田五十鈴という、現在の感覚からはチグハグな印象なのですが。
調べれば調べるほどに「戦後の日本、夕張市、石炭産業」だからこそ作られた映画だと思えました。
『ユーパロ谷のドンベーズ』
1986(昭和61)年に公開されました。
石炭の歴史村はグランドオープンしたものの、前年の1985(昭和60)年に三菱大夕張炭鉱でガス爆発事故が発生。
いよいよ炭鉱に頼ることができなくなり、観光政策へ驀進せざるを得なくなってきた頃の夕張市が舞台となっています。
そんな様子が随所に反映されており、これも当時の夕張市だからこそ作られた映画だと思えます。
『冬の幽霊たち』
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2004のゆうばりファンタランド大賞を受賞しています。
この前年、2003(平成15)年9月に中田元市長が死去。
その後に本作が製作され、中田市長が不在となって、はじめての開催となるゆうばり国際ファンタスティック映画祭で上映されました。
夕張市の観光政策の旗振り役だった中田市長がいなくなった直後という、これもまた象徴的な時期に撮られた作品です。
このダイジェストを読んで、石炭博物館にご興味を持たれたら、ぜひ夕張市の石炭博物館に足を運んでください!「夕張まで行けないよ」という方は、ぜひ本書をお手に取ってください!
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