佼成4月号「会長法話」
「自分は正しい」という偏り
ふうつ私たちは、自分の考えや行動が間違っているとは思いません。人から「それは一方的な見方ですね」
と指摘されても、自分が先入観や色眼鏡でものごとを見ているとは考えないものです。
それでも、たとえば自分にいつもやさしくしてくれる人の言葉は素直に信じられても、批判的な人の声は
端から否定するのではないでしょうか。自分の感情や都合を大事にするそういう見方や受けとり方を、私たちは
多かれ少なかれしていると思います。これは、いうまでもなく自己中心の狭い見方です。
この見方が高ずると「私の考えが正しい」「自分の判断は間違っていない」といったとらわれや偏見が強くなって、
ものごとを正しく見る目がさらに曇ります。
そこで、そういうものの見方を省みるとともに、自己中心に偏りがちな視野を大きく広げる動機づけともなる、
法華経の一節をご紹介しましょう。
「等正覚を成じて広く衆生を度すること、皆提婆達多が全知識に因るが故なり」(私が仏の悟りを得て人びとを
教えるのは、すべて提婆達多という善き友のおかげです)
「提婆達多品」の有名な言葉です。自分を敵視して殺そうとまでした堤婆達のことを、釈尊が感謝の思いを
こめてサンガに伝える重要なくだりですですが、これは私たちが、偏った見方から大きな見方へと心を切り替える、
スイッチのような役割をもつ一節でもあると、私は受けとめてています。
仏性をひたすらに信じる
深い闇の底にあった地平線が白みはじめるころ、明けの明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。
そのとき釈尊のみ心は、おそらく明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。そのとき釈尊のみ心は、
おそらく明星輝く中天にまでのぼり、宇宙と一体となって、大いなる真理をつかまれたのです。
それは、宇宙的視座でもものごとを見たということかもしれませんし、明星の輝きが自他の仏性の輝きと重なった
ということかもしれません。いずれにしても、そのとき釈尊の目には、何もかもが美しく光り輝く仏性そのものという、
この世の実相がありありと映ったのではないでしょうか。
そして釈尊は、提婆達多からの非難や攻撃という厳しい現実には直面するなかでもまた、心を天にのぼらせて、広く
大きな心で提婆達多と向きあったのだと思います。
すると、その瞬きに「自分を害する悪い人」と見る自己中心の心が、スッと仏性を信じる大きな心へ切り替わり、
すべてに合掌・礼拝せずにはいられなかったーーそうゆう心の切り替えをうながしてくれた提婆達多は、釈尊にとって
「全知識」以外の何ものでもなっかたといえるでしょう。
「みんな仏性」という見方に立てば、偏った見方で人を傷つけたり、争ったりすることはありません。人を批判する前に、
「そうか、あの人も仏性なのだ」と思い返すきっかけがあれば、偏った見方をして悩むこともないのです。
ただ、誤解されやすいのですが、仏性を信じるというのは、相手のいいところを見ることではありません。
相手を、まるごと仏性として拝むことです。すべての仏性をひたすら信じるなかで、私たちは矛盾や葛藤とも向きあい、
人として成長して成長していくのだと思います。
仏教思想家の毎田周一師は「信ずる」ことについては「世には自分が相手を疑っていて/相手が自分を信じないと/
小言をいっている人がある」「自分が人を信ずることによって/相手を信じさせることーー/これを信の大道という」といっています。
よけいな先入観などをもっていなかった幼いころにはもどれませんが、せめて花まつりの日に、釈尊降誕のお姿を彷彿
させる誕生仏に接して、純真無垢な心を取り戻し、自他の仏性を深くかみしめることは大切でありましょう。
「自分は正しい」という偏り
ふうつ私たちは、自分の考えや行動が間違っているとは思いません。人から「それは一方的な見方ですね」
と指摘されても、自分が先入観や色眼鏡でものごとを見ているとは考えないものです。
それでも、たとえば自分にいつもやさしくしてくれる人の言葉は素直に信じられても、批判的な人の声は
端から否定するのではないでしょうか。自分の感情や都合を大事にするそういう見方や受けとり方を、私たちは
多かれ少なかれしていると思います。これは、いうまでもなく自己中心の狭い見方です。
この見方が高ずると「私の考えが正しい」「自分の判断は間違っていない」といったとらわれや偏見が強くなって、
ものごとを正しく見る目がさらに曇ります。
そこで、そういうものの見方を省みるとともに、自己中心に偏りがちな視野を大きく広げる動機づけともなる、
法華経の一節をご紹介しましょう。
「等正覚を成じて広く衆生を度すること、皆提婆達多が全知識に因るが故なり」(私が仏の悟りを得て人びとを
教えるのは、すべて提婆達多という善き友のおかげです)
「提婆達多品」の有名な言葉です。自分を敵視して殺そうとまでした堤婆達のことを、釈尊が感謝の思いを
こめてサンガに伝える重要なくだりですですが、これは私たちが、偏った見方から大きな見方へと心を切り替える、
スイッチのような役割をもつ一節でもあると、私は受けとめてています。
仏性をひたすらに信じる
深い闇の底にあった地平線が白みはじめるころ、明けの明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。
そのとき釈尊のみ心は、おそらく明星の輝きを受けて、釈尊は悟りを得たといわれます。そのとき釈尊のみ心は、
おそらく明星輝く中天にまでのぼり、宇宙と一体となって、大いなる真理をつかまれたのです。
それは、宇宙的視座でもものごとを見たということかもしれませんし、明星の輝きが自他の仏性の輝きと重なった
ということかもしれません。いずれにしても、そのとき釈尊の目には、何もかもが美しく光り輝く仏性そのものという、
この世の実相がありありと映ったのではないでしょうか。
そして釈尊は、提婆達多からの非難や攻撃という厳しい現実には直面するなかでもまた、心を天にのぼらせて、広く
大きな心で提婆達多と向きあったのだと思います。
すると、その瞬きに「自分を害する悪い人」と見る自己中心の心が、スッと仏性を信じる大きな心へ切り替わり、
すべてに合掌・礼拝せずにはいられなかったーーそうゆう心の切り替えをうながしてくれた提婆達多は、釈尊にとって
「全知識」以外の何ものでもなっかたといえるでしょう。
「みんな仏性」という見方に立てば、偏った見方で人を傷つけたり、争ったりすることはありません。人を批判する前に、
「そうか、あの人も仏性なのだ」と思い返すきっかけがあれば、偏った見方をして悩むこともないのです。
ただ、誤解されやすいのですが、仏性を信じるというのは、相手のいいところを見ることではありません。
相手を、まるごと仏性として拝むことです。すべての仏性をひたすら信じるなかで、私たちは矛盾や葛藤とも向きあい、
人として成長して成長していくのだと思います。
仏教思想家の毎田周一師は「信ずる」ことについては「世には自分が相手を疑っていて/相手が自分を信じないと/
小言をいっている人がある」「自分が人を信ずることによって/相手を信じさせることーー/これを信の大道という」といっています。
よけいな先入観などをもっていなかった幼いころにはもどれませんが、せめて花まつりの日に、釈尊降誕のお姿を彷彿
させる誕生仏に接して、純真無垢な心を取り戻し、自他の仏性を深くかみしめることは大切でありましょう。