兵藤庄左衛門、批評

芸術、芸能批評

安物腕時計を壊れるまで使い切るのが趣味のこと

2023-03-12 18:03:12 | エッセー
・安物腕時計を壊れるまで使い切るのが趣味のこと 
 一番安い腕時計を購入して壊れるまで使い切り、どの程度の耐久性があるのかを自分で着装して試すのが趣味である。
 以前は「CASIO」の¥1000~¥1800の安物腕時計を使っていてかなり耐久性があり、2~3年は持った。かなり故障しない。バンドも2年ほどはもつ。切れたら安い¥500~700の替えバンドを購入すればよい。時計自体は1ヶ月1~2分の遅れは出るが、私は気にしないで時々修正すればいいだけと思っている。私にとって必要な機能は、ランニング等に使うのでストップウオッチ機能と、海沼での水泳に使うので防水機能、夜用にライト機能があればよしである。
ちなみに「CASIO」の腕時計の防水機能に関しては、以前こんな話があった。かなり不幸な話だがさせてもらう。山梨県甲府市で若い女性が誘拐され、身代金を要求される事件があった。女性は数日後静岡県富士川町(現・富士市)の富士川下流の川原で遺体で発見された。はめていた腕時計は止まっていたようだが、「CASIO」製で日常生活防水機能だったようだ。というのは、新聞報道で、「CASIO」の社員コメントが掲載されていた。内容は日常生活防水機能でも川に流されて、すぐだめになるものではなくかなりの耐久性があり、川に流された時刻の特定はできないだろう、というものだった。後日犯人が逮捕されたが、川に流した時刻ととまっていた時刻にはかなりひらきがあったらしい。かなりの安物でもランニング中の雨、海沼での水泳でもへこたれたことは一度もなく、かなりタフだと思う。時刻表示は遅れていくが、タフであることは信頼した。
 ただここ数年もっと安い¥980の腕時計があるのでそれにした。「TELVA、CREPHA、保土ヶ谷電子販売」のものだ。初めて購入した物は、1年経過後すぐ液晶画面が薄くなり見づらくなった。2代目は購入2ヵ月後に防水機能がだめになり、新品交換になった。3代目は液晶は1年以上もったがスイッチがぽろりととれた。4代目は1年半後にバンドが切れた。以前の物はこんなに速くバンドは切れなかった。この腕時計は既製の替えバンドが使えないので、購入しなおした。5代目は購入3日後に雨に濡れ防水がだめになったので、新品交換で6代目になった。これは9ヵ月後にバンドを通常使用ではめようとした時に切れた。保証書には1年間保証となっているが、バンドは対象外と記入されている。これには納得できない。代が進むにつれバンドの耐久性が明らかに劣化してきていて、保証の対象外であることを利用しているものと思われる。バンドだって1年は通常使用で保証すべきではないか。お客様相談室とやらに相談はまだしていないが、購入店では店員に保証書を逆提示され保証対象外であることを見せ付けられた。しかし納得できない。バンドの質を劣化させといて速くだめになってもいいやの姿勢のようだ。いかに安物とて1年間保証なのだから、何とかバンドの耐久性や防水機能を1年間はもつように作ってくれといいたい。液晶機能はかなりよくなったのに残念だが、現時点「TELVA」¥980は不合格です。さてお客様相談室にクレームをつけるか否か思案首投げです。CREPHA(株)もう少し品質向上がんばってください。
 しかし腕時計はすぐ必要なので、次はまた信頼している「CASIO」の¥1480の安物腕時計を購入した。時計本体及びバンドが薄く軽く着け心地がフィットする。これがどこまでもつかワクワクする。
・原付バイク(原動機付自転車)を限界まで使用するのが楽しい。
 今は原付バイクに乗っていないが、かつてはよく乗った。200ccや225ccのオートバイにも乗っていた。中型オートバイともなると限界まで乗り回せないが、原付50ccともなると素人の私でも性能の限界まで引きずり出せる。最高スピードにせよ、山岳上り坂をどこまで上っていけるか、山岳林道の悪路にどこまで耐えられるかなど、過酷な使用にどこまで耐えられるか試してみるのは楽しかった。乗るならやっぱり安物の原付だね。
・安物のクロスバイク購入、市内一安物で欠陥品のマウンテンバイクがとうとうダメ
18年前に2万円以下の市内一安いマウンテンバイクを購入して乗り続けたが、チェーンは伸びきり、シフトは購入したときからキャパシティが少なすぎるといわれ、きちんとギヤチェンジしきれた試しがない欠陥品の超安物だった。最近ギヤチェンジがまったくできなくなってきたので、もうここまでとあきらめ、新しい自転車購入を決断した。自転車店に行きクロスバイクで一番の安物が欲しいと言った。クロスバイクの値札を見ると最低5万8千円以上なのでその程度プラス・オプション代を覚悟してたのだが、いきなり店員から3万9千円台の提示があり、前輪にシフトがなければさらに2万円台でもと追加提示された。値札の付いているクロスバイクに挟まれて安物は目立たない様相で値札もなく赤の物が1台だけあった。ただ峠越えは想定内なので、どうしても前輪にシフトは欲しい。そこで4万弱の物にした。それに発電機付きLEDライト、前籠付、後ろ荷台、持参メーター取り付け依頼、鍵付けて6万弱だった。ただ色を青にしたら予定よりだいぶ待たされたが、色は気に入った。この安物がどこまでもつか興味津々である。さっそく東海自然歩道沿いの足久保から水見色峠近くを通り高山市民の森を抜けた。打越峠も行った。その代わりあっさり、チェーンが伸びきった。それは想定範囲内だけど、ちょっとくやしいね。新品なのに。
・雑巾やタオルを使い切る快感
 雑巾やタオルをぼろぼろになるまで使い原形をとどめず単なる糸くずになるまで使い切ることが快感である。
・変わり者
 私は名実ともに奇人変人だという自信があるが、さて他人のこととなるとよう分からん。だがこのところ、私以外にもけっこうそういう人たちがいるんだというのを目撃した。まあ自分以外にも個性的というかそういう癖をもち別に世間体や常識にとらわれない人たちがいることは、狭苦しいこの世界に風穴を開けてくれ爽快だと書きたいが、本当はポカーンと口を開けなんじゃらほいという間の抜けた気持ちと不快感すらある不思議さを感じている。その実例を挙げる。
① 行きつけの公共プールは50m公認プールで水深も1.7mあり、たいてい水泳経験者ばかりで、私や身近な人たちも水泳習いたての頃や下手という自覚があるととても行くことを躊躇してしまうプールである。私はある程度泳げるようになってから行くようになった。そのプールに最近犬掻きだけを熱心にやっている人がいる。その人のキックはあきらかに膝下だけを蹴るド素人キックであり、ある程度泳げる人がわざと犬掻きをしているのとは違う。プルの手の動きは肘を曲げ肘より先だけを動かす典型的な犬掻きで手で水をきっちり掻けているわけではない。私は平日のいずれか週1回そのプールに行きトライアスロンの練習のため泳ぐのだが、そのたびごとにたいていご一緒なので、かなり熱心に通っていらっしゃるようだ。それにしてもたいていの人がバンバン泳げるスイマーばかりの中でよくもまあのんびり自己流の犬掻きで泳ぎ続けられるものだ。たいした強心臓の持ち主かよっぽど鈍感かであろう。私もド下手なのに平然とした振りをして練習している強心臓の持ち主だろう。その人は別に水泳を習おうという気はないらしく、マイペースに犬掻きとビート版によるキック練習をしているが、上達無く常に自己流でのんびりしている。まあこんな人が泳ぎに来るのもおもしろいもんでしょう。しかもその人この前速く泳げる人ばかりが使うコースにいて平然としてました。すんごい。ただ他に使ってる人は皆無だったようですが。
② 休日に私がランニング練習する近所の川の土手がある。そこに真夏の間、30歳代ぐらいの茶髪でベリーショートの痩せた女性が、原付で乗りつけ川に入り、タンキニトップスになって日光浴をしてました。それも1~2回ではなく煩雑に見受けました。そんなとこで日焼けするなんて紫外線による肌荒れやがんの原因になるだろうに、私ですら無駄と言われながらも日焼け止めを塗りサンバイザーを被って走ってるのに、よくもまあ子供しか水遊びしてないとこに大人がタンキニトップスでいられるものです。たいした根性? 鈍感? よっぽど好きなんでしょうか? 世間より自分の気持ちに素直になろうということか。雰囲気からして独身で水商売系かななんて思えました。
 まあ私以外にも自分に素直な人がいるっていいですね、と思いましょう。世間も私にさぞ不快なことでしょう。私は世間がそうだから、みんなやってるからって理由は大っ嫌いです。



情けない話  庶民のわびしさ  みみっちい庶民話

2023-03-12 18:01:00 | エッセー
情けない話  庶民のわびしさ  みみっちい庶民話
変人・兵藤庄左衛門
 以前見たり聞いたりして遭遇した、情けない話をいくつか紹介する。

  机
 市民生活センターの市民活用バンクを通して、学用机を譲り受けたことがある。そのとき市内の公共団地に行って、そこの二階か三階の住民から机を千円から二千円で手に入れた。机をもらって出て行くとき、そこの奥さんからドアを開けて出て行ったらすぐに行ってしまってほしいし、運ぶのは手伝えないし、挨拶もしないでほしいと言われた。なぜなら、うちの子供が学用机を使っていなくて不要なのがばれたら、いかにも勉強していないという感じで恥ずかしい、だから手伝えないし、家のドアからさっさと離れてほしいし、そのお宅とは無関係の振りをしてほしいと、のたまうのだ。ちなみに机はきれいではなくて、一旦雑巾を借りてふかざるをえなかった。一人で狭い団地の階段を机を持って運ぶのに、さっさと行けと言われても困ったが、何とか一人で階下へ運び、車に積んで、知らん振りして団地を出た。
考えてみれば恥ずかしいと言いながら無料ならまだしも、たかが千円か二千円にしてもきっちりお金を取っているのだし、あの狭い階段を机を持って早く行けと言うのだから、なおさら情けない気がする。いかにもほんの少しの銭であってもものにして、世間体だけは取り繕いたいという、情けない貧乏人根性というか、庶民のひがみ根性の哀れさというかわびしさがにじみ出ている。

  本棚
 別の件で、市民活用バンクを利用して、スチールの本棚を譲り受けたことがある。あらかじめ電話で問い合わせて、謝礼について聞いたら、「お気持ちだけでいいですよ。」とのことだった。しかも事前に問い合わせたときも、行く直前に聞いたときもその返事だった。しかしそのお宅に着いてみたら、五千円にしてくれないかと言われた。どうも別の家族に口添えされてそういうことにしたらしいが、それじゃ話が違うし、新品が買える値段なので、二、三千円にして欲しいと値切った。了承してもらったが、当の物は、ほこりまみれだったので、雑巾を借りてふいてから車に積んだ。たいてい金の話が先行する人ほど、物の方はほこりだらけだったりするものだ。 

  市民活用バンク
 ちなみに友人はこの市民バンクに腹を立てたことがある。なぜかって云うと、市民が不要な物を譲り合うのを役所が取り持つというのが本義だろうから無料なのが当たり前なのに、お金で取引し金儲けの手段にしている人たちが多くて、けしからんというのだ。それももっともだが、まったく無料とも割り切れなかろう。でも確かにはした金なのに金儲けの手段にしている人がいる。回数多く利用すると分かる。
 
  クーラー
 市民活用バンクでもう一席。今度は窓用クーラーを譲ってもらうことになり、別の公共団地に行った。所定の部屋の前にクーラーが出してあった。それを確認して相手から受け取り、一定の金額を払った。相手はとてもあせっているようだし、小声でしゃべりすぐに取り引きを終えたがった。一旦取り引きを終えて、相手はドアを閉めたが、私はすぐ窓用クーラーの窓枠にはめる枠がないことに気付き、再度相手を呼び出したが、二度と出てこなかった。相手はどうも隣近所にこのことを知られたくないようだった。

  ずっと井戸端会議
 以前用宗のお宅に週二回通っていたことがある。そこにおばあちゃんが引き取られてきた。で、近所の人たちとの世間話、井戸端会議に花が咲くのだ。一回二時間いるのだが、そこの奥さんやおばあちゃん、近所の女の人たちは、その二時間の間中、玄関先で世間話をしっぱなしなのだ。すごいエネルギーだ。ストレス解消にいいだろう。
ただそこで聞いた情けない話を一席。
近所に老人センターができ、そこでは踊りや絵を描く、陶芸をする等の文化的活動ができる。それを傍目に見たおばあちゃんや近所の年寄りが言うには、「老人といってもまだ働けるような人たちが昼日中から、やれ踊りだリクレーションだのと、遊び呆けている、働くこともせずもったいないことをしている、けしからん、私らは働けるだけ働いたというのに。あんな老人センターなんて近くにできても、私らのためには何にもならない。税金の無駄遣いだ。」と、のたまうのだ。
まあ二時間中世間話をするのも隣近所の連帯感を強めるにはよいでしょうが、文化的活動を楽しむのもいいのにねえ。でも体がだめになるまで働いたとおっしゃるけど、どれくらい働いたのかなあ。本当に働く人だったら、遊ぶときはしっかり遊び、楽しむことを知っているのだろうに。なんでそう世間がちっちゃいというか、わびしい世界観というか、いい年してなんでそうひがむかなあ。結局楽しく文化的活動をしている人たちがねたましかったのでしょう。
ただずっと世間話をして盛り上がっている、あのパワフルなエネルギーはすごい。近所の人が醤油が切れたから貸してと言いに来てから、二時間ぶっ通しでぺちゃくちゃ話が盛り上がって、私が帰る頃、「あっ醤油もらってかなきゃ。」とあわてて帰っていくのは、なんとものどかでよかった。

  図書館にいる人は暇
 市立図書館で遭遇した話も一席。中年のおばさんが誰ぞに連れられて、初めて図書館という所に来たようだ。そしてこのおばさん、わざと周囲の人に聞こえるように誰ぞとしゃべりだした。
「本を貸してくれるの、しかもただで貸してくれるの、こんなにたくさん本があって、こんな所があるなんてはじめて知ったわよ。それにしても昼間っから働きもしないで、本なんか読んじゃって、暇というか、私なんか働いていたからこんな暇あるわけないじゃない。なんでこの若い人たち働いてないのよ。無駄なことしてるのかしら。本なんか読む暇がどうしてあるの。働かなきゃ駄目じゃない。暇ねえ。」
無論連れてきた誰ぞは、恥ずかしくてさっさと連れ出したようだ。それにしてもこういう無学無知と言うか無恥というか、私も人のことは言えないが、よくも恥ずかしくないものだ。別に無知なのはいいのだが、なんで静かな公共図書館でこんなこと大声で言えるかな。こういうひがみ根性丸出しで、それを誇らしげにさえする人がいるんだね、としか言えない。みすぼらしく悲しいおばさんだ。

  弁当
 うちの父親の話を一席。父は仕事に行くとき、母の作った弁当を持っていくのだ。そして同僚の弁当と見比べているのだ。
 「あいつの弁当のおかずは、何品でこんなものだったので、たいしたことはない。こいつのはこんな調子の弁当で、どいつもこいつもたいしたことない弁当ばっかし持ってきやがって、たいしたことない奴ばっかだ。みすぼらしいなあ。」などと、帰宅してから、のたまうのだ。
それを聞いてる僕はわびしさにがっくりくるのだ。貧乏人の背比べ。
ちなみに昔の我が家が米屋から取っていた米は、その店の最上等のもので寿司屋に卸しているのと同じものだった。でも昔の電気保温炊飯器で炊いて保温しておくと妙にくさくなり、乾いてくるのだ。(今の電気炊飯器は品質が向上したようだ。)上等の米だとしてもわざわざまずくして食べていて、ちっともおいしくなかった。まず上等の米を使うなら、いかにおいしく炊いて食べるか工夫すべきなのに、そんなことには無頓着なのだ。そして結局米のどこがどうおいしいのかという味覚、美食学、グルメという観点がすっぽり抜けているのだ。貧乏人には何がどう旨くて、どうすればさらにおいしくなるのかなどというのはちんぷんかんぷんなのだ。でも多分一番高い米を取って食べているという、単なる見栄が満足されればよかったのだろう。
サッカレー「虚栄の市」。ようするに分かりもしないのに見栄だけ張って。
ちなみにお米は安物でもおいしく炊く工夫をして、炊き立てを食べればかなりおいしいものだそうだ。
 私は勤め先であいも変わらず安物の仕出し弁当を取っている。ご飯は¥100で、それは家から持ってきているので取らずに、おかずの¥220を取っている。たいていの人は飽きて取るのをやめるのだが、どうも私は平気で飽きていても食べている。昔、丸一週間同じインスタントラーメンを一日三回、一週間21食続けて食べたことがある。なぜ同じものだったかというと、スーパーで特価一個¥33、一箱30個¥990で購入し、一日の食費¥99で一週間過ごしたからである。貧乏生活はスリリングだったが、なぜ一週間だったかというと、もうそのインスタントラーメンに飽き飽きして、9個残したところでギブアップしたのだ。どうも食に関してのこだわりは少ないらしい。
その代わりというか何と言うか、写真集やビデオなど、似たようなHものはすぐに飽きてしまい、3回続けて見ていられない。頻繁にシチュエーションが変わらないと駄目、おもしろくない。

 料理の味
以前静岡の宴会で食べて話しも盛り上がっていたときのこと。
「そうよ、京都の料理なんて何一つちっともおいしくないのよ。あの人もこの人もそう言っていたわ。」
ふと思い出した歴史的挿話があった。織田信長が京の都に上洛したとき、朝廷御用達の宮廷料理人に料理を作らせ食べた。そしたら信長、「まずい。」と、のたもうた。それを聞いた宮廷料理人、「信長は田舎者なので宮廷料理の味付けは分からなかろうという気がしたが、もしやと思って最高級の料理を用意した。しかし田舎者には分からなかったようだ。もう一度料理を作って信長に食べさせたい。今度こそは大丈夫だ。」と言ったそうな。二度目を食べた信長の感想は伝わっていないが、きっとまずくはなかったのだろう。基本的に京都の料理はうす味で、尾張で育った信長は田舎風濃い味に慣れていたと解釈されている。
ただし現在田舎者という表現は差別語で放送には用いられないはずだ。昔の表現だ。
確かに静岡育ちだと京風料理のうす味は苦手な人が多い。自分個人の味覚は大事でそれを主張するのはいいと思っていたが、それだけでは駄目なようだ。世間一般の味覚評価を詳しくないにしてもおよそ知っておいたほうがよく、その一般評価に対して自分の味覚がどの辺の位置にいるのか知ったほうがよい。例えばどの程度の濃さが好きなのか、どういったものをおいしいと自分は思ってしまうのかなどである。また健康のため塩分控えめ、脂肪や糖分、カロリーに注意なんていう世の中、飽食の時代、生活習慣病予防のための食事のあり方なんて言われるご時勢である。そこでどういったものが健康的なのか、それに対して自分の食の好みの偏りはどうなっているのかはある程度分かっていたほうがよかろう。少なくともあの料理はただまずいと主張するだけで、自分の食の偏り、あるいはまずいものしかおいしく感じられず、本来おいしいはずのものがまずく感じられる味覚の貧困さを正当化しているだけなのは、興ざめだ。そのうえその偏った食事が生活習慣病を誘発しやすいなんていう内容だったら、阿呆そのものだ。
私の父は、やたら濃い味が好きで、煮物も味噌汁も何でもかんでもこれでもかというぐらい、しょっぱくしないと気が済まなかった。私は小学生のとき、健康診断の結果、内科医に再検査ということになり、内科医でアドバイスされたことは、「味噌汁を薄めて飲みなさい。」ということだった。言われた通りに味噌汁に湯を足して薄めて飲むようにした。父は変なことをする奴だという怪訝な顔をしていたが、医者からの指示だから私に対して四の五のは言わなかった。そして私が驚いたことには薄めた味噌汁がおいしかったのだ。それまで味噌汁というのはただ塩辛くのどが渇くものだとしか、入力されていなかったのだが、味噌汁が初めておいしいと感じた。以後姑息にもやけに塩辛いものはやたらに薄めて食べるようにした。料理の味付けというのはこのしょっぱさだけで育った私にはこれしかないと思っていたのが、薄めた料理がやけにおいしく感じられるようになったのは、私にとって料理の味付けについての発見だった。以後自宅のやたらしょっぱい料理を薄めて食べるとおいしくなるのが分かった。
父は親戚やらなにやらの料理にも、「こんな薄い味噌汁なんか飲めるか。味噌をけちった貧乏料理め。」などと周囲の者達に威張って言っていた。でも内科医がこれを見たら嘆いた、またはあまりの滑稽さにせせら笑ったかも知れない。          
後年ある内科医が、塩分摂りすぎの家庭料理は犯罪であると言っていた。なぜかというとそれを食べて育った家族皆、特に子供はその塩分摂りすぎの味付けしか受け付けなくなり、生涯そういう味付けの料理しか食べられなくなる。そうするとそういう人は生活習慣病(高血圧、脳溢血、動脈硬化等)になりやすく、病気の治療に多大の金銭と労苦を費やし、寿命を早めることになる。真綿で首を絞めるようにじわじわと金を奪い取り、命までも取ろうとしているということから、犯罪行為に匹敵するというのだ。しかもその子供は成長すると、その子供や孫にも同じ味付けの料理を目に見えない形で強制することになり、はなはだ危険なのだ。
ちなみに塩分摂りすぎとは直接関係なさそうだが、すごい偏食だった父は糖尿病になり、それがもとで死んだ。

 ギャンブル
賭け事にもあまり縁がない。たまにやっても全く当たらない。当たるような気がしないし、外れたらどうしようということの方が気になり、当たったらどうしようという夢を買うことができないので、おもしろくない。買えば当たるなら買うが、そういうわけじゃないなら買う気にならない。

 酒
父はアルコール依存症の肝硬変だった。それがもとで糖尿病になったのだが、これといったお酒のおいしさが分かっていたとは思われない。おそらくアルコール依存症者は、お酒がおいしいというよりは、アルコールの禁断症状により、細胞がアルコールを欲するというか、お酒が人を飲むというか、まずくとも体に悪魔の酒を流し入れるしかないというか、もうたしなみで楽しくてお酒を味わいたくて飲むわけじゃない。飲むのじゃなく、体の細胞に注入してるだけなのだ。何てわびしい飲み方か。極端に言うなら酒のおいしさなんてわからないのだ。ワインのソムリエなんていう世界とは異質の酒地獄に漬かっているだけだ。どうせ酒好きなら、酒のおいしさをたしなみ、ソムリエのように言葉で表現できるといいのに。家にもワインなんてのがあったけど、ずっと置きっぱなしで酸化してすっぱくなっちまってたと思う。父はワインなんて飲まないで、ただ飾ってあっただけで、ビールか、日本酒か、ウイスキーだけだった。ワインが酸化することも知らなかったろう。

 骨董
父は骨董などに趣味はなかったが、晩年の頃、テレビで「お宝鑑定団」なんていうのが流行った。そしたら私が実家に置いてあったぐにもつかぬ漫画本やポスターを捨てるのをやめた。まあやめてくれただけいいのだが、価値があるかもしれないと考えたらしい。あほらしい。でもポスターによっては価値が上がるものがあるかもしれない。さらに駅前辺りで売っていた大量生産の二宮金次郎像、あの薪を背負った奴を買ってきて価値があるかなあと考えていたようだ。こんな大量生産物にあるわけないのに。また会社の何かの記念でもらった大型だけどこれまた大量生産の花瓶に価値はあるのかと問うのだ。こんな大量生産物で会社の他の社員にも配った物になんで骨董価値があるなんて考えなきゃいけないのだろう。根本的に何にも分かってないのね。

 尋ねちゃ駄目
以前、舘山寺のパルパル遊園地に行った。遊園地内で遊んでいたとき、年寄りの女性から何かを尋ねられた。よく覚えていないが、多分道案内についてだろう。そうしたら、その女性に連れ添っていた若い女性が、「お母さんやめて、みっともない。よくも恥ずかしくないわね。田舎くさい。」と、とがめるのだ。その年老いた母の方は、「そんなことぐらい人に尋ねたっていいじゃない。」と困惑気味。再度若い女性が「人に尋ねるなんて、恥ずかしい。田舎者みたい。」と制した。
多分トイレか出口か、食堂あたりを尋ねてきただけのことで、すぐに返答した。それでどうってことない話のはずだ。その母娘のやり取りを目の前にした私は、その若い女性の対応がそれこそ、田舎くさく、いや失礼、恥ずかしかった。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥。知らないことは尋ねるべきだ。知らないのに知ったかぶりする方が、あとでばれたら大恥だ。尋ねることが恥ずかしいなんて、どうしよう。それこそ田舎くさい。差別語は使っちゃ駄目ね。

 町内会役員
町内会役員の一人として町内会の会議に出席した。その中で、とある部会の部長と副部長を選考せねばならなくなった。会に参加した男はほんの数人で、あとは大多数が女だった。私はそこの町内へ引っ越してほんの一、二年目だったので、周囲の人たちが誰だかさっぱり分からなかった。皆さん自己紹介をしたのだが、その中には、「私はまだ引っ越してきて十年でよく分からない。」とか、専業主婦風の人が「うちは宅の主人に聞いてみないと分かりませんし、主人は忙しくて町内会の仕事はなかなかできませんし。」ときた。「私のところは年老いた母の面倒を見なきゃいけない。」とか、「母子家庭なので私が働かないといけないし。」とか、いろいろ言い訳がでた。納得できるのもあるが、前半の言い訳なんて、なんてあつかましいと思うよね。それやこれやで紛糾したら、隣に座っていた長老風のおばさんが、「そこのお若いのおやりなさい。」と私に振るのだ。知りもしない人から、無責任に振られ、それにこの会の無責任さにもむっときていた私は、がんとして引き受けず、「副部長ならやる。」と申し出た。それにしても大多数の専業主婦風の人たちが、私は女、専業主婦、宅の主人に聞かないと困るしという雰囲気で全く知らん顔なのである。結局もう一人参加していたおじさんが、部長を引き受けざるを得なくなった。ただしこの人は夜勤のある人なのでいつも活動に参加できるわけではないと言う。年度前半は部長が主にやり、後半は副部長が主にやることにした。あとあとで別の町内会役員に聞いたら部長はほとんど活動に顔出さないで、副部長ばっかやってるじゃないと言われた。でも部長もいろいろ活動してくれていたことは告げておいたが、どうもあんまりやってくれなかったみたいだ。うちがよく知りもしないのに副部長を押し付けられたことも知っていたらしい。
ここへ越してくる前、別の町内会にいたとき、周辺の専業主婦から聞いた話で、「あの役員さんの家に昼間電話してもいないのよ。困るのよね。」ときた。うちも共働きのように、その役員さんも共働きなのだから昼間いるわけないじゃないと答えておいた。それにしても昼間いないと困るなら、共働きの家に役員振らなきゃいいじゃない。専業主婦であることを旨く利用して、責任を回避する人たちがいて、しかも文句だけは言う人たちがいるのだね。無責任。専業主婦自体を批判する気はなく、大いに結構だと思う。うちは共働きになっちゃったが、本当は専業主婦でいけたらよかったのにと思うもの。私がちょうど見た人たちがたまたまそういう人たちだったということだろう。
私の同僚の主婦兼教師の人がいた。つまり共働き主婦の教師なわけである。とても社会参加意識が強く、「教師は社会参加意識が低く、町内会の活動などをあまりしない。こんなことではいかん。」というのが持論だった。こういう前向きかつ積極的な人もいるのね。ただし専業じゃなく兼業だけど。そういう持論を聞くたび、自分が直面した情けない町内会の内輪のことが浮かんできた。
町内会の話をもう一席。妻が組長をしていたとき、ごみを置く場所を変更して欲しいという要望が、ごみ置き場付近の住人から出された。そこで妻は活動した。うちとうちの前の狭い道に面したもう一軒のお宅は、ごみを置くのをOKしてくれたのだが、我が家の前の道は狭くてゴミ収集車が入りにくいので困ると、清掃公社側から言われたので、駄目だ。別の道に面した近所のお宅を妻は訪ね歩いた。どのお宅も嫌がるのだ。なかには「あんたんちが駄目なのを幸い、人の家に迷惑かけなくてもいいじゃない。」とか、一度は怒鳴りつけられ、泣いて帰って来たことがある。ごみは他人の家の前に置くならどうってことないが、自分の家の前なら絶対反対という人が多いのだ。
そういえば以前、町内会の話し合いのとき、誰ぞが、ごみ置き場を変更して欲しいと要望した。そうしたら町内会長はすげなく、いろいろな手続きが大変だし、町内でやる話ではなく、そこの隣近所周辺の人たちでうまく折り合いを付けてほしい旨を話した。妻の件を後年見て、町内会長がこの話になぜのらなかったか分かった。住民エゴ。
清掃工場を作ろうとすると周辺住民が反対運動をするのと似ている。清掃工場は必要だが、ここには作って欲しくない、別の所に作れというわけだ。
似たような話を一席。障害者用の施設や授産所を作ろうとすると、周辺住民が反対するというのだ。これは障害者に対するいわれのない差別、偏見からだ。結局作るにしても、周辺住民を納得させるため、公園やらなにやら別の物も整備することになるらしい。予算がよけいにかかるのだ。またひどい話としては、そういう所では不動産屋も嫌がるというのだ。なぜって、不動産価格が下落するというのだ。んな、あほな。偏見もはなはだしい。ええ加減にせい。これからの世の中、障害者や高齢者の福祉施設は各町内に設置される方向に行くのだ。ノーマライゼーション。その方がよっぽどみんな便利だし、心にいいはずだ。

 不動産屋
不動産屋の件で一席。かなり以前、静岡市内の家を買うことになり、契約のため焼津の不動産屋に行った。売主が焼津の人で焼津の不動産が売り出した物件で静岡のいくつかの不動産屋を通した仲介物件だったため、わざわざ焼津までとなった。そこで焼津の不動産屋とそちらで仲介していた不動産屋とで世間話を始めた。
「それにしてもひどいのよね。電信柱に予想される津波の高さを書いてあるじゃない。私は腹が立って、役所に行ったわよ。なんでうちの商売邪魔すんのよ。あんな物取り払ってよ。不動産が値下がりしたらどうするのよと怒鳴ってきたわ。役所なんて人の商売のこと何にも考えてないのよね。」
「七夕豪雨のときの洪水がどこまで高かったかも、電信柱に標識を取り付けてあるのよねえ。役所のやることってひどいのよ。」
宅地建物取引業法によれば、不動産物件に対する正確な情報を宅地建物取引業者(不動産屋)が持っていたにもかかわらず、それを客に知らせなかった場合、罰則が適用される。それにしても正確な情報を得ようとするのを邪魔するのは言語道断である。しかも命にかかわる情報である。あんたら洪水や津波で死んだら賠償してくれるのかい。
それにしても、今から不動産の契約をしようという客の面前で、よくもまあ自分勝手なことばっかししゃべれたものだ。こんないい気で殿様商売ができ、威張って世渡りしていられたらいいのにね。当時はバブルがはじけたばかりで、まだ不動産神話がまかり通っていたからかも知れない。こちとらも教師商売だが、PTAにぺこぺこ、同僚や上司にぺこぺこ、もう疲れちゃう。先生先生と呼ばれるほどばかじゃない、とはいえ、やはり。
こちらも今から、こちらのたてた不動産屋とともども値切る交渉をするつもりなので、何にも言わなかったが、交渉は不調で、結局こちらで仲介した不動産屋が取り分を値下げして、その分だけ安くなった。あの失礼な話をしていたおばさん不動産屋たちは強気だった。それにしてもこんなんかねえ。実は私は宅地建物取引主任者資格があるのだが、そこまであこぎにはできないだろう。

 会議や相談の仕事は楽
宴会をしていて、とあるおばさんと仕事の話をしていた。
「会議があるとたまんない。疲れているのに会議だと眠くはなるし、時間に追い立てられるし、あわただしくなるばっかり。」と話したら、おばさんからは、
「いいねえ、話をしたり聞いたりするだけで仕事になる。給料がもらえるなんて。」という返事。
後年、またそのおばさんと宴会で話したら、
「会議なんてたまんない。仕事はあるのに会議なんて入れられたら、仕事ができなくなる。うちの会社でも会議をするようになったんだけど、会議は会議、仕事は仕事でノルマは別でしょ、だから仕事時間が増えただけで大変になっただけ。」とこぼしていた。
また人からの悩み事などの相談を聞く、いのちの電話やカウンセリングについての話もした。
「いのちの電話で、死にたいような悩み事について相談を受けている人たちには、ノイローゼや自殺をする人が多いそうだよ。」と言ったら、おばさんは、
「いいねえ、ただ人の話を聞いていればいいなんて、気楽な商売だねえ。私なら一日中聞いていてやるよ。それで給料もらえるなんて天国だ。」と答えた。チャンチャン。

  料理持ち帰り駄目、スイカ
うちのおばあちゃんや父は、料理屋で食べ残したものを持ち帰ろうとすることを、「おこんじき(乞食)みたいでみっともない、恥ずかしいからやめろ。」という人たちだった。まあそういう価値観で育ってきたのかなとも思うのだが、田舎くさい者があえて田舎者であることを知られたくなくてとるような手段で、妙にせせこましく、見栄だけ張ったような行動で、それをまた料理屋でタッパーや折り詰めを用意してくれている場なのに、本気で怒りだしているので、店の人にもばつがわるくて、何だか本当にみっともなく恥ずかしくなるのだ。無論、持ち帰ることではなくて、そんなことで怒っていることがである。なお店でも生ものの持ち帰りは控えるようにしてくれるので、彼らは食中毒を心配しての怒りではなく、せこい見栄を張っているようにうつった。
おばあちゃんはまた、田舎の農家育ちで、ついでに見栄を付け加えると裕福な農家だったそうだ。
おばあちゃんの前で小さい頃、すいかを食べていたことがある。そうしたら、おばあちゃんが言うには、
「いまどきの町の子は、しゃれてるだねえ、いちいちスイカの種を出し、皮も食べないだねえ。」
それを見た、おばさん答えて曰く、
「おばあちゃん、今の子が種や皮食べるわけないじゃない、何言ってるの。おばあちゃんは昔の人だから、種も皮も全部食べていたのだろうけど。」
ちなみに僕の答えはこうだった。
「スイカの種を食べるとお腹の中で芽を出すって言うよ。」
今にしてみると、スイカの種や皮を食べる方が栄養学的にはいいのだろうが、んなむちゃくちゃな、と思った。おばあちゃんは見栄を張りたがるような、でもこの発言を聞いているとむやみに田舎くさいような、いや失礼、実用的なというべきか、何とも珍妙な印象だ。

 トラブルメーカー
トラブルメーカーについて。世の中、多分五十人に一人は、他人を傷つけ迷惑をかけ続けるタイプの人がいると思う。隣近所、町内会、同僚、同級生、親戚、PTAの中にきっといるはず。些細なこと、変なことで難癖をつけ、周囲の人たちを困らせる人である。あとで自分に非があったと分かってもあやまるじゃなし、他人のせいにして平気である。何事も全て他人が悪く、よいことは全て自分がしているというように主張する人である。周囲と協調できないし、話をしていっても物事に対する見方感じ方自体が普通と違い、他人と合わないのである。だからトラブルメーカー、問題起こし屋である。こういう人と隣近所になったり、一緒のグループに所属すると、とんでもないとばっちりを受け、心を痛く傷つけられる。こういう人とも話し合いは大事だが、どうしても折り合いが付かなくなるので、他の人たちと共闘することと、どこかで突っぱねないと、あなたはずたずたにされておしまいである。世の中面白い変人ならいいけど、こんな人とはお付き合いまっぴらである。

新聞
とあるお宅にいたとき、今日配達されたばかりのはずの新聞を見たくなったので、探したが見つからない。そのお宅では夕食の準備中であり、台所にいる家人に、今日の朝刊や夕刊の所在を尋ねたら、配達されたばかりの新聞紙は、てんぷら等の油きりに使われていた。そこで新聞の月ぎめ契約料がもったいないから、新聞取るのやめるといいね、と言ったら、相手から、馬鹿にするんじゃない、と言われた。この言葉、別のお宅でも実は言われたことがあるのだ。新聞見ないならいらないから取るのやめれば料金が浮くし、どうせニュースならテレビでもやっているしと、経費節減のつもりで言ったら、そりゃ困る。世間に新聞すら取っていないなんて知られたら恥ずかしい、と言うのだ。唖然。世間には世間体を本人としては保つつもりで不必要な新聞とやらを取っている人がいるなんて想像もできなかった。それにしても世間は広い。どうも私の言葉は、人を馬鹿にしているという勘違いを引き起こすようだ。なお私は大学生の頃、新聞を取らずに大学図書館で立ち読み専門だった。ただし同じ事を狙っている人たちがいて、読み待ちで行列ということもあって不便だった。さらに私の知り合いには、今新聞を取っていなくて、近頃読んだこともないので、世間のことに疎くてと楽しげに話す人がいる。あんたは偉い。私も近くに新聞のある図書館や公民館があって、ご隠居さんか、ちょっと暇を見つけられる裕福な自営業の大旦那なら、公共施設の新聞ただ読みで済ませられるのになと、いつも思ってしまう。いつか新聞なんて取らずにいられる身分になりたい。せこい。
ちなみに知人の中には、家にテレビがないというお宅もある。しかも数十年間続いている。むろん子供たちも家にはテレビがないから家では見たことがない。ただし友達の家で見たり、テレビの情報はなんだかんだで入手されるらしい。テレビがない生活が当たり前になると何の不便もないらしい。そしてテレビなんてなくても生きていくうえでは何にも困らないということを、この一家が証明しているということが、何より大切である。でも僕テレビっ子、だから無理。

 紙切れみたいな人生、想像力のなさ
さきほど新聞紙のことを書いたので、ついでに紙に関してのこと。寒風に舞い散る紙切れから、紙切れみたいな人生とたとえるが、その紙切れひとつにさえ、命をかけていると言うか、ここまで紙切れを極められると言うか、紙ひとつを取っても世の中の奥の深さを思い知らされることがあった。紙漉きをすることになり、紙に関しての資料を市立や県立の図書館で探したら、やはり専門家がいて専門書というものはあるものだ。あまりに専門過ぎて難解なものは手に取るのもやめたが、一般的な書物の中に書いてあったことを数例紹介する。犯罪現場にあった紙の端切れからでも犯人を絞り込める。なぜって、いつどこで何を用いて作った紙か、かなり特定できるからである。素人にはどの紙も一緒に見えても、玄人は判別特定できるのだ。そして紙の質改良はとどまることなく鋭意努力が続けられているのだ。昔と今では新聞や本に使われている紙は違って、相当改良されているのだ。
ここで何を言いたいのかと言うと、取るに足りないものの代表とされる紙切れひとつにもこれほど奥深い世界があるのだ。それはこの世のあらゆる物事に共通しているのだろうということは、容易に想像がつく。しかし世の中には私を含め、何という想像力のなさ、世の中の表面だけを見て安易にたかをくくっていることの多さには驚く。かなりの年配者にでさえ、こんな人がいるのだ。この人たち人生の奥深さの何を見てきたのか。
そしてこんなこと偉そうに書く自分は何様のつもり、この想像力の貧困さ、たいしたもんだよ。

 飲み屋で酔ってリフォーム契約  階段を直しに来た大工
近頃、悪質な建築リフォーム業者とのトラブルが社会問題になっているが、それとは関係ないが、こんな話があった。
昔自宅の階段が急で狭いのでそのうち直そうということになった。父は相変わらず飲み屋で酔っ払いをしていたのだが、そのうちこの階段の直しの話を飲み屋で酔っ払ってしたようだ。たまたま店の中に大工を名のる者がいて、そのぐらい直してやるような話になったらしい。というわけで酔っ払ってリフォーム契約成立である。翌日早速来た大工は、古い階段を取り去り、新しい階段を取り付けた。しかし寸法間違いを起こしていて上と下の一段ずつは極端に短いのと長い幅だった。はっきり言ってど下手なのだ。しかしもう作りきってしまったし、直そうにもその大工の力量では直せないらしくどうにもならず、そのままになった。しかも父は相手が誰なのかを知らず、そんな契約をしたこともはっきりしなかった。が、相手はそう言っているし、飲み屋にいた人たちも、そんな話を聞いていたらしい。というわけで、安くしてもらったが一応料金を払った。母が近所で聞いてきた話では、その大工達は確かに大工だが、いまだに一本立ちできない腕の劣る下働きの人たちだった。その後、一応親方に当たる人が見に来てくれたそうだが、直してもいいが、料金はまた別にもらえるならということだった。なぜって一応へたくそでも階段として使えるし、親方の私が知らない話しだから私が責任持てないし、酔っ払った勢いにせよ当事者同士で契約しちまったんだから、文句のつけようがあるまいということだった。で、もうこれ以上料金を払いたくないので、その不便な階段を以後使い続けた。誰が上っても違和感があり、必ず全員、変な階段だと言った。親戚の中にはそのネタで笑い話にするものがいた。

 携帯電話を持たないわけ
私はいまだに携帯電話を持っていない。いまどき珍しい種族だ。単に携帯通話料を支払いたくないからである。誰かが支払ってくれるのなら、欲しい。でも実はそれだけではない。電話が嫌い。自分のペースで活動しているときに、いきなり電話があって中断されるというのは、いきなり土足で家に上がりこまれるみたいだと思いません。僕って変。

 昼食抜き
よく私は休日一日外出すると昼食を抜いてしまう。理由は、やりたいことが詰まっていて昼食時間が惜しいのと、ロングトライアスロンやウルトラマラソンに比べれば、一食抜いても平気なのと、一食我慢してダイエットしちゃおうというのと、昼食を抜いたあとの夕食は妙に旨いというのと、自分の財布の中身を減らさずに済むからである。けち。

 CD購入
私はCDを正規の値段で買ったことは二回しかない。一度目は、勤務先の同僚から、息子のCDを聞いてくれ、よかったら安くするから買ってくれと言われた。とりあえず聞いたところぶったまげて、「将来絶対天才になるから、定価通りで良いから是非サイン入りにして欲しい。」と頼んだ。CD「エポックⅠ、Ⅱ」を2セット計4枚、息子の松谷卓、同僚である母親の親子サイン入りで買った。なぜ2セット購入したかというと、将来プレミアがついたら1セット売ろうと思ったからだ。この当時、本CDは廃盤になっていて、親が箱入りで大量に購入してあったので、安くてもいいから1枚でも売りたかったようだ。ちなみに私の予想通り、卓君は天才として有名になり、再発売どころか新作もどんどん出てくるようになった。私の持っているサイン入りCDにプレミア付くかなあ。せこい。
二度目はジグソー(ブリティッシュ・ロック・グループ、「スカイ・ハイ」が特に有名)のアルバムがCD化され発売されていることを知り、CD屋で初めてCDを購入した。ただし「スカイ・ハイ」入りのベストアルバム系のものばかりで、本当に欲しかったオリジナルアルバムはカタログには載っていたが、在庫切れであった。残念。切腹。波田陽区。
私はどうやってCDを聴いているかというと、ほとんど図書館利用である。クラシック、ジャズ、ロック、民族音楽のたいていの古い名曲名盤は聴けるといってよい。ポップスも流行ってから三年たてば借りたい放題である。ついでに図書館だから書物を探せば、クラシック、ジャズ、ロック、民族音楽、ポップスの名曲名盤解説本や音楽歴史本なんてあるからそれを参照しつつ聴けば、これであなたも音楽通になれる。しかもただ。CDを保管する棚も要らない。最新のものはなかなか聴けないが、最新の流行なんてすぐすたれるかもしれないから、少々古くても歴史的評価を上げたものを聴くほうが合理的。
蛇足を言うと、クラシックを全く聴いたことのない人は、よくクラシックを見栄を張って聴こうとすると、聴くというより、書棚に並べてコレクションを誇示したくて、書店でも売っていて、テレビや新聞の広告にも載る「何々クラシック大全集」なんていう解説本とCDが付いてやたら安いセットものがある。それを一通り購入して満足するようだ。まあ全く聴いたことはないし、周囲にもクラシックマニアがいなければ、見栄を張れて自己顕示欲は満たされるだろう。しかし少々クラシック好きの人なら、そのCDの演奏者名を見てにやりとするかがっかりするだろう。ある程度クラシック好きなら、まずあの廉価版クラシック大全集の演奏者名は、まったく聞いたことのない人が多い。多分二流の人が多く、ほとんど一流演奏家はいない。クラシックマニアはたいてい演奏家で選ぶことが多いので、あそこまで無名の演奏家のものを聴く気にはならないだろう。少なくとも持っている人は、クラシックマニアに誇示するとあざ笑われるので要注意である。じゃあどうするかであるが、さして知りもしないし研究する気にもならなければ、やはり名曲名盤解説本を図書館で借りて一覧表をコピーして、その通りに集めたら手っ取り早かろう。これであなたも擬似クラシックマニアとして見栄が張れるというものだ。えへん。 

 本をめったに買わない
ついでに私は本もめったに買わない。出版した本の参考資料のほとんどは図書館の資料である。たいてい本なんて一度読んだら書棚の肥やしである。古本屋に持っていっても二束三文、へたすると引き取り拒否なんて目に遭う。買うときは高かったのに、悔しい。といって書棚においといても、家族にとっては粗大ごみが増えるだけで不評。そこで図書館で間に合うものは借りるに限る。(だじゃれのつもり、笑) 間に合わないものだけは買えばよいとした。ようするにケチである。

 写真集
本を買いたくないといいつつも、Hな写真集がやたら増えた。図書館で写真集いっぱいそろえてくれたら、借りてきてコンビニで、気に入ったページばかりカラーコピーするのにな。それじゃ著作権違反だの声が聞こえる。図書館はある傾向の写真集購入しないんだよな。写真集も気に入るページはほんの数ページなんだし。ただしその写真集購入は古本屋で安くなったものばかりである。例えば、宮沢りえの「サンタフェ」は¥500の超廉価版だった。中を見て、確かに篠山紀信の芸術性はあり綺麗ぽいが、Hな気持ちには全然ならず、こんなん¥500の価値もないというか、流行り遅れだけれど古本の¥500の損失で済んで良かったという感じ。こんなん数千円も出して買った多数の雄(オス)諸君はだまされたというべきだろうに。宮崎ますみの「XX」は¥500でもがっかりした。ここまで獣っぽくしないと裸になれなかったのかなあ。一大決心だったのか、イメージを変えたかったのか、でもつまんない。それまでの清純派で脱ぐか、普通のうら若き乙女の恥じらいで脱ぐか、明るく若い女性のはじけたさまでいくかしたら、好感をもったろうに。というわけで買っては見たもののだまされたとか、がっかりしたものがほとんどで、気に入ったのはほんの数点だけというのが実情なのに、相変わらずまだだまされては購入する。

 みすぼらしいかっこう
私はいつもみすぼらしいかっこうをしている。穴のあいた服、色あせた服、よれよれの服を平気で着ている。太宰治はえらくファッショナブルだったようだし、けっこう文士にはそういった連中が多かったようだ。でも僕は逆。刑事コロンボのようなよれよれコートが良い。どうせかっこつけたくたって、もともとかっこ悪いし、内容伴わないし、やたら世の中、見てくればかりにとらわれているようで嫌だし、「ぼろは着てても、心の錦」である。世界に対する抵抗としてアンチファッションこそが、私のファッションになった。それはぼろを着ているヒッピー文化にも通じる。それにしてもジーパンならわざとスリットと称して切れ目や穴を開けて、あえてぼろぼろ風にするのが、ヴィンテージ風でよいというのに、何でTシャツやソックスだと駄目かなあ。ソックスなんかもわざと左右違うものを履いたらカラフルで、一度に二粒おいしいのに。これからは虫食いスリットの服もファッション。「あえてかっこわるくする。あえてださくふるまう。」レジスタンス。単なるけち、逆見栄。

 貧乏性
新品の服はすぐに袖通しができないし、他の新品もすぐ下ろして使えない。なるべくお古を使い通す方がらくである。またやたら物を捨てることもできない。もったいない。
穴の開いた靴下やTシャツを、自分で糸をかがって縫い直して着用するなんて、私ぐらいのものだろう。そして縫い直した靴下を着用してランニングをすると、また穴が開いてしまい、修理が無駄であることを悟り以後やめるようにした。

 私、貧乏人
以前、三保の松原に家族で行ったときのこと、後でおいしい店に行って食事しようということになったが、子供がどうしても待てなくなって、目の前の売店でそばを一杯食べた。うちの子のことだから中途半端に食べ残した。毎度のことながら私が残りを食べた。付近にいた観光客が、「服装は貧しそうだし、一杯のそばを家族で食べてて、ひもじいのかね。」とひそひそ話している。気まずい空気を感じたが、我慢して食べて、すたこらさっさと帰った。きゃはは。

 スポーツに金をかけない
私はスポーツに金をかけない。だからトレーニングはしていても、スポーツクラブに入会しない。だって高いもん。公共プール利用のほうがはるかに安く済む。スポーツクラブへは一度無料お試し券を持って行ったことはある。それだけ。あとプールは職場のものを夏から秋にかけ、ただで利用する。一度12月下旬まで震えながら利用したことがあったが、もう凍えて二度とそこまでやりたくない。それでもウエットスーツ着用なら11月半ばまで利用可能である。ただし水がクロレラのように緑藻いっぱいになる。自転車も15年前のものである。買い換えたいが先立つ金は出版費用に消えた。まだ自転車は買えない。金をかけないのではなく、かける金がない。江戸っ子は宵越しの銭は持たないのではなく、翌日まで暮らせる金がないだけのことである。

リュック
大学生の頃、それまでショルダーバッグ派だったが、急にリュック派になった。とはいえ当時、多分80年前後頃でリュックを背負っているのは、中学生、高校生までの現状で、登山でもないのに、大人がリュックを普段背負うなんてありえない光景だった。中学生か高校生みたいと言われた。お世辞を、言ってくれる人は、可愛いと述べるのだが、たいていの人は物珍しい変人という目つきで見ていた。ではなぜ私がリュックにしたのかというと、ショルダーバッグだと片側の肩にばかりひもを乗せて歩くので、片側の肩ばかり疲れる。時々左右を入れ替えればいいじゃないかとおっしゃるかもしれないが、左右入れ替えても片側ずつ肩が凝ってくるのだ。歩く姿勢も左右どちらかに傾いた姿勢になり、背中や腰まで凝ってくるのだ。またリュックだと両手があいて便利でもあった。当時荷物をたくさん持つことが多くなおさらだったし、大き目のショルダーバッグの中にはリュック用のひもが付いていて、すぐにリュックに早代わりするものがあったのが幸いした。ただリュックにして使う人は皆無のはずだった。リュックを背負って大学に行ったり、町を歩いたりするのは恥ずかしかったが、上記理由における合理性を重んじて実行した。赤い小さなリュックを背負っていたときは、おのぼりさんが歩いてると、見ず知らずの人から言われた。随分リュックを背負っているので物珍しがられたが、その後多分、90年頃から、スーツ姿の若いOLが、リュックを背負ってマウンテンバイクで繁華街を駆け抜けるのが、かっこいいみたいな風潮になった。ネクタイ、スーツ姿でリュックを背負ってオフィス街を歩くビジネスマンの姿が一般化さえした。私としては唖然とした。かっこいいなんて、そのときの見てくれの風潮次第でどうにもなることなのだ。それより中身の合理性である。そしていまだにリュック派だ。
近頃リュック派が激減してきた。これは流行り廃れなのでいたしかたない。私はのらないだけである。私一人でも合理的理由があるものを続けていくだけのことだろう。

自転車かご
リュックの次に、合理的理由によりやりだしたことは、自転車の後ろ荷台にかごを固定することだ。これまた見てくれはお子様を乗せる二人乗り用みたいだし、昔の自転車行商用みたいでもあり、恥ずかしいのだ。私の場合、自転車の前かごには、いつ雨が降ってもよいように、雨具一式(合羽上下、帽子、手袋、荷物入れ用ビニール袋)と水分補給用ペットボトル等が詰め込まれていて、他の荷物は入らない。要するに雨が降ってものどが渇いてもまだ乗るつもりなのだ。しかも私は自転車で一日数十キロ程度平気でこいで、あちこちで買い物をしたり荷物を運んだりすることがあるので、荷物を背負っていたのでは疲れる。そこで後輪の荷台を使うに限るのだが、荷台にいちいちゴムバンド等で縛っているのは面倒だ。しかも荷物が複数にもなるとなおさらである。後輪の横に付けるサイクリング専用の横かごを取り付けたこともあるが、中学生の自転車にぶつけられ壊れた。後輪の横はちょっと危ないし、狭いかごで大量には詰められない。後輪荷台の上に大きめのかごを付けるのが最も手っ取り早い。いかにもママチャリ風になるが、大きめの荷物でもひょいひょい乗せられる。落ちないようにするには、ゴムバンドをかければよい。引ったくり防止にもなる。このゴムバンドも必需品である。ゆっくり走っていないので、段差や凹凸のある路面ではしょっちゅう自転車が跳ね、荷物が飛び出すこともある。一応トライアスリートなので、たいていの人より速く漕いで、パンク等故障しやすい欠点があるが、トライアスロンの自転車練習も兼ねているので、少しは速く漕ぎたいので、荷物飛び出し防止はやるしかない。そして見てくれのかっこ悪さであるが、前掲のリュックの話のように、そのときの風潮でどうにもなることだ。合理的理由のほうが大事。私がこれをやりだしたとき、お子様乗せ椅子付きママ(パパ)チャリ以外、周囲にこんな後輪荷台上かご付き自転車なんて見たことがなかった。しかし見よ、このところおじさん、おばさん自転車で後ろかごが増えている。あとはテレビドラマで、アイドルタレント俳優が後ろかご付き自転車で登場すれば、仕上げである。
関西では自転車に雨傘を取り付ける金具装置が売られていて、おばさん御用達だそうな。手で傘を持つより便利でよいとのこと、ただしそれを見た関東人は、かっこ悪いからやらないと言ったそうな。でもあんたのかっこよしあしの判断基準なんてそのときの風潮次第じゃん。これは便利なのでさらに普及するだろう。車椅子に取り付けるのもよさそうだ。ただし危険だとのことで、警察ではつけないことを推奨している。

 歩道という名の無法地帯
歩道という所はやっかいだ。歩行者や自転車が対向して来ても、どちらへよけるというルールがない。両者の雰囲気により互いに何となくよけ合うだけだ。でも往々にして両者とも同一方向によけ合い、またよけ直すことがある。これなどよけ会おうというだけまだましで、歩道を横一列か集団大挙で占有して相手を通そうという意思が全く見られないことも間々ある。あるいは歩道に店の看板、棚を堂々と設置していることもある。
もっとすごいのは、歩道の真上にしっかりと車が駐車している。本人にしてみればちょっと置いただけと言い訳をするつもりかもしれないが、歩道上は完全に駐車停車禁止なので、交通課のパトカーや白バイに見つかれば2点減点なのだ。だからほんの少しでも歩道の上で車を置いたら、見つかれば即違反だ。それにしても車によって歩道を完全にふさいで歩行者や自転車が全く通れず、車道に出て通行するしかないのだ。このとき事故に巻き込まれれば歩道上に車を置いた人はかなりの罰則を食らうだろう。個人的には歩道に止めるななどと偉そうなことをいうつもりはないが、歩行者や自転車が困るということがなぜ分からないのか。きっとこの運転手はいつも車ばかりで歩道を歩くということがないのだろう。この想像力の貧困さ。少しは通れる程度に配慮ぐらいしろ、このばか。それに交差点の横断歩道上で赤信号になったからといって、いかに渋滞しているにせよ平気で車をとめるばか。渡れないじゃないか、貧困な想像力め、いっそ横断しながら車体を傷つけてやろうか。
たいていの歩行者や自転車は歩道のど真ん中をふらふらと蛇行している。そのことをたいていの人は気付きもしない。それでよけいよけ合うタイミングが取りにくいし、追い越しにいたってはほとんど無理、たいていというより全ての人が追い越されるということを全く想定していない。想定していたらど真ん中をふらふら蛇行するはずがない。そして追い越す側や対向してくる側も何の合図もしない。
私は自転車に乗っていて、一度歩道いっぱいで対向してくる女子中学生にベルを鳴らしたら、「このジャージ野郎。」と毒づかれた。このばか、こちらが通れないのがなぜ分からない。それはともかく、やはり事前に合図を出したほうがよいと思う。あらかじめ想定している人は少なく、対向や追い越しぎわに、驚きの声を上げる人がいるぐらい、前も後ろもほとんど注意を払っていない。何にも見ちゃいない。
そして個人的には歩道での通行では、あらかじめ左右どちらかに寄って通行している。そうすれば対向者や追い越し者もあらかじめどちらに寄るかを判断しやすいからだ。ど真ん中をぼんやり通行しないようには配慮している。
で、そのことをスムーズにやりやすい所が、静岡市内に一箇所ある。場所は、安倍川に架かる安西橋の歩道橋である。なぜかというと、この歩道橋、センターラインが引かれ、道の左右の入り口部分にはどちらにも矢印で→か、←が記入され、左右どちらを通行したらよいか判断しやすい。これで絶対安全とはいかないにせよ、無駄なよけ合いは少ない。この歩道橋の中では、矢印に従って通行している者が優先されるというのが暗黙のルールとなっている。反対車線を通行する者は、遵守者に道を譲るのが当たり前になっている。これを信じ込んでも甘いし絶対ではないにせよ、せいせい通れて良い。
いっそ全ての歩道に、センターラインと矢印(→、←)がほしい。別に遵守義務はなくとも、随分通行がスムーズになるだろう。
歩道といっても全ての広い道路にあるわけじゃなく、国道1号線にしたってひどいものだ。国道の1号というぐらいで、かつての東海道を元にしているのだから、それ相応の道だと思うのだが、その歩道が突然なくなってしまう区間や、こんなの通れないという区間やら何やらでひどいものだ。1号にしてこのざま、推して知るべしだろう。なぜこんなのかというと、歩道の建設基準は努力義務にすぎないため、作らなくても良いのだ。以前、自転車で日本一週した子が、将来の夢は建設省(国土交通省)に入りたい。なぜってあまりに道路がひどいからと答えたことが思い返される。歩いたり、自転車で日本旅行したら、その道路事情のひどさには泣かされるだろう。例えば静岡市と焼津市を考えると、国道150号バイパスは自転車と歩行者は通行禁止なので通れず、あの悪名高き狭くて怖い急カーブの大崩道路を通るしかないのだ。まあはじめから両市を自転車や歩いて通るということが全く想定されていないのだ。
そして歩道のひどさは、その舗装にも表れている。車道は数年に一度は綺麗に全面舗装し直すが、歩道は一旦舗装したらそのままで、以後、地中の管工事等で部分的に掘り返されて、その部分だけまた舗装し直されることの繰り返しであっちこっちでこぼこだし、地盤の沈下等でも、ひび割れ、傾き、でこぼこのオンパレードである。少なくとも車椅子ではほとんど通行不能であろう。普通の人でも実感したければ、あえて自転車で車道と歩道を交互にかっ飛ばすと、あっさり分かる。車道はスイーとスムーズに進むが、歩道は舗装されていても、でこぼこだらけで車体がガタガタと跳ねまくり、お尻は跳ね飛びハンドルは振られ、とてもかっ飛ばせなくなるからだ。歩道の舗装のひどさが分かり、これでは車椅子での自力移動が困難なのは分かるはずだ。そして競技用自転車では、全く歩道で通行できないと言っていい。歩道と歩道の境目は必ず段差があるうえ、先ほどのように歩道中、全てでこぼこだらけではとても走れない。競技用自転車は軽量化されている分、衝撃に弱くすぐに壊れてしまう。生卵を積んで走っても壊れないぐらいでないとね。自転車で生卵を運べる路面にしてほしい。ちなみに歩道でかっ飛ばせば、瞬間最高時速25キロまでが限度かな、すぐに段差でスローダウンするし、でこぼこで跳ねるから。車道なら30~40キロ出せてよいのですが。だから競技用自転車は車道を走るのです。
ちなみに歩道では歩行者最優先で、自転車は歩行者の邪魔にならないよう通行することになっている。ということは本当は自転車は車道を走るべきなのだ。まあ車道の左端ということだが。でも自動車ドライバーの視点では、自転車が車道走るなんて恐ろしいし邪魔そのもの。自転車は歩道を走るべきだと、勘違いしているドライバーも多い。何にせよ車道を自転車が通行すべきなら、車道左端を広げてもらわなければ、自転車にとっても末恐ろしい。だいたい大型車に車道左端上の自転車が追い越されるときは、スレスレになり怖いものだ。左端が広がったからといって、すぐ良くなるわけではなく、しばらくは左折巻き込み事故が増発するだろうが、がまんして周知徹底を図るしかないだろう。でも左端が広がるなんて話、聞いたこともない。
現状ただでさえ狭い車道に自転車が出ずらいのだから、歩道を歩行者と自転車で共存するしかなかろう。ならば歩道にセンターラインがあり、歩く人も自転車も左右どちらかに寄って通行するよう配慮を促せば、今より随分スムーズな通行になるはずだ。
ああ、それにしても「歩道は無法地帯だ」いろいろな点で。庶民にとってもっとも身近な道にして、このざまだ。

自転車の蛇行
ある人と話をした。自転車は皆、蛇行しているし、私もまっすぐ走れないと言ったら、馬鹿にするんじゃない、自転車ぐらいまっすぐ走らせられるに決まっているじゃないかと非難された。でもしばらく経ってから、その人は職場の同僚で自転車を専門にやっている人と話をしたようだ。そしたら、そうだってね、自転車をまっすぐ走らせるというのは難しいんだってね、たいてい蛇行してるものらしいね、と答えた。まあ納得してくれてホッである。チャンチャン。

 レンタルビデオ店の18歳未満立ち入り禁止コーナー 
レンタルビデオ店に入ると、客が誰もいなくて寒々としていることがある。で、森閑としている店内の奥のコーナーへ、カーテンで仕切られ、18歳未満立ち入り禁止と書かれているところがある。その内側に入ったとたん、ぎょっ、入れない。なぜって、人だらけで進めない。無言で黙々とビデオ選びをしている、汗臭いような男男男だらけ、一種無気味、沈黙していても汗臭い熱気が立つ。あちらのコーナーと違いすぎる。でも言いようのないこの沈黙している男達の存在感は何。
レンタルビデオ店の18歳未満立ち入り禁止コーナーの壁という壁、陳列棚の中のビデオやDVDの全て、裸裸裸乳房乳房乳房乳首乳首乳首くびれた腰腰腰お尻お尻お尻白肌柔肌もち肌濡れた唇可愛い臍白い背中誘う瞳ムチムチプリン、さすがにヘアーは出てないが、うーん、極楽極楽、この世の天国、これに囲まれていたら幸せ幸せ、一日中囲まれやりまくりたい。ウホッホーイ。本当は幸せなんて単純なんだ。でもここに来てるってなーぜ。満たされぬ思い、「ミスターグッドバーを探して」でさまようダイアン・キートンは誰、そしてここにつどう汗臭い野郎ども。

 獣姦
いかにも変態的な響きだが、かつての農村ということは町屋の長屋風景の裏事情でもあったはずだ。かつては一夫一婦制ではなく、財力のある者が、正妻以外にも妾を囲っても良かった。しかも公娼制でさえあり、農村や町長屋には年頃の女が少なく、売春宿にいるかすでにどこかの旦那の囲われ者かである。金のない農家の四男、五男などという者は、生涯結婚もできず、いい仲になる女を持てなかった。そこでどうするかである。
ヒントは、映画、今村昌平「楢山節考」である。左とん平扮するしがない貧困農家の息子は、夜な夜な、隣家のメス犬のところに夜這いをかけるのだ。結局女なしのわびしさをメス犬で晴らすのだ。
これは「異常性欲心理学」の本では、かつての農村では当たり前の光景だったとしている。相手は犬だけでなく、牛、山羊、羊、馬等かなりの種類の家畜に及んでいる。要するにはめられれば何でもありなのだろう。本の中にもよくこんな動物とできたものだと感嘆するような動物名まであった。ただこれは異常ではなく、仕方のない性欲処理なのだ。わびしい男達が多かったのだ。でもそのことは、女にとっても不幸だったのだろう。
そして今レンタルビデオ店には、あらゆるジャンルがあり、獣姦もある。環境的には不必要でも、違った意味、つまり変態としてある。それにしてもよくもまあこれだけのジャンルがあるものだと感嘆せずにはいられない。スカトロ、レイプ、視姦、痴漢、コスプレ(ブルセラ、白衣、スチュワーデス、OL、女教師、レースクイーン等よくもこれだけ細分化しているものだ)、他に挙げるとまだまだわんさかとあり、すさまじいほどの細分化である。求めるHに際限はないのね。この欲望の裏がうら寂しいのだ。悲しき男の性(さが)。

 オリンピック
次回の夏季オリンピックは北京でよかったと思っているが、その次がロンドンてのは、何で。他の候補地も、パリ、ニューヨーク、モスクワ、マドリード等で、それらの都市のある国は、一度は開催したことがあるじゃないのと言いたくなる。立候補地は、先進国で金があり金儲けと名誉のために出てきてるという感じだ。日本でも大阪や東京が立候補したいらしい。しかし先進国ですでに開催した国はやめてほしいね。次回の北京は、中国初開催でアジアで三番目、中国が発展途上から脱却しスポーツの国際大会をやっと取り仕切れるのだし、中国国民へも寄与するだろうからいい。課題として、治安やスポーツ観戦のマナーは心配だが、だからこそ開催してスポーツ観戦等の向上を期待したい。
これからのオリンピック候補地は、自己財力による立候補ではなく、今後スポーツを普及させたい国や都市を意図的に候補地とし、その当の国では資金がないだろうから、参加したい国、特に先進国が主になって、資金を提供して、その国に国立競技場等を作るのだ。予算はODAの費用の一部をそのまま回せばよいのではないか。閉会後の諸施設はその国民のスポーツを楽しむ場になり、選手村は公共団地にすれば、利用価値が高い。このようにすれば、発展途上国にスポーツを普及し、インフラ整備に拍車を掛け、発展を促すことにもなり、アフリカ、アジア、中南米等、広く全世界でオリンピックを開催することができる。ただし閉会後その国に競技場を維持管理する能力さえなく、先進国の金持ちに身売りされ、広く国民に利用されないなんてことがない程度には、審査や管理はした方がいいでしょう。
それにしてもロンドンは3回目、既存の競技場をまたつぶして立て直すのかね。まあ結構なことだが、そろそろ発展途上国でも開催できるようにして国力や文化を発展させる契機にしてあげられるといいのにね。そのために国際社会が協力すべきではないか。
何か偉そうなことを書いたが、開催地選びが先進国だけの特権で、多くの発展途上国を蚊帳の外にしているみたいに感じられたので、たわ言をひと吹きしてみた。

 二流の知識人、文化人や常民は大切
国にとってノーベル賞やオリンピックの金メダルを取る人は大切だろう。首相によっては、ノーベル賞をどんどん取れる人材育成のできる学校教育なんてのに期待する発言もある。一見これは良さそうだが、これらほんの一握りのエリートだけが育成されれば国家の   繁栄があるかというと、そういうわけではなさそうだ。
例えば、幕末や明治維新期の日本において、日露関係を開いた高田屋嘉平とリコルド少佐、日米関係のペリー提督、「少年よ大志を抱け」のクラーク先生、静岡学問所のクラーク先生、オランダ人医師シーボルト、これらはほんの一例だが、一応挙げてみた。日本の歴史では重要人物になっている人もいるが、この中の外国人で出身国で天才、英雄になっている人がいるかといえば多分いない。その国で有名な人ならわざわざ極東アジアの当時、発展途上国に過ぎない田舎の国、日本に行かされることはなかろう。今の日本にたとえるなら、海外青年協力隊みたいなものだ。決して一流ではないのだ。しかし彼らや彼らと交わった人々を考えると、幕末・明治期の日本を、ノーマルにしかも仕方のない現実とこれからあるべき将来とをうまくつなげながら、バランスを取って発展に寄与させている。しかも平和に。
常民とは村や町の庄屋や長老みたいな地域のまとめ役みたいな人たちで、読み書きそろばんの他、自由民権や普通選挙などの概念を広めていくのに預かった人たちだ。
彼らがいて初めて国民が現実的折り合いの中で動いていけるのだ。一握りの天才、英雄が現実離れした理論や活動をしただけでは、この世は動かぬ。二流の人たちによって広範に支持された人が天才、英雄になり、支持されぬ者は歴史に埋もれるのだ。二流人が大切。

 通勤ラン
私が合理的理由でやりだし恥ずかしかったものとしては、リュック、自転車かごの他に通勤ランがある。マラソン大会に出たくて走ることにした。しかし練習時間の確保は、フルタイムワーカーでアフターファイブしか使えない身としてはつらいものがある。そこで考え付いたのが、通勤中に走ってしまうというものであった。走るとそれまでの自転車やオートバイでの通勤より時間がかかるが、アフターファイブにわざわざ走るより便利だと考えた。走った後の汗の処理は、更衣室でおしぼりで拭いたり、トイレの奥のシャワー付き水道を使ったりして済ませることにした。これは自分のオリジナルの考えとしてはじめたのだが、のちに市民ランナー向け雑誌を見るようになったら、すでに通勤ランという言葉まであることを知った。

 歯磨きチューブやシャンプーの使い方
しみったれた私としては、歯磨き粉やシャンプーを一通り使って捨てられないというより、ぼろぞきんを絞りつくすがごとく、最後の一滴まで搾り取るのが好きである。そこで一通り使って出てこなくなった歯磨きチューブをさらに絞ったり、しまいにはチューブを切り開いたりしてまで使うのが好き。シャンプーは一通り使って出てこなくなったら、容器の中に少し水を入れて薄まった溶液が出てくるようにする。それすら出てこなくなったら完全に水を入れて超薄め液というより大量の水を髪にかけて使い、容器の中のシャンプー液を完全に流しきってしまうのが好きだし気持ちいい。要するに私はけち、でもそういう使い方気持ちいいんだけどな。
食べ物に関してもそうで、残らず食べるのがモットー。人間生ごみ処理機を自負している。何を食べたいかが問題ではなく、何を捨てる前に処理するかが問題であり、処理しきれるとすっきりする。でも何でこうなんだろ。まっいいか。

 台風接近にわくわく
台風が近づいてくるというニュース報道にわくわくしてしまう私。すぐに海に行きたくなってしまう。防波堤を今にも超えんばかりの大波荒波を見ていると、きゃーすてき、と興奮して言いたくなる。そしてこういうとき海岸にいるのは私だけでなく、いるいるばかどもが、それなりにいて、わざわざ波に近づこうとしているのだ。高波というのは百波に一波、千波に一波あるいは一万派に一波、それまでの二倍のものがあるので、ぎりぎりに近づいたところで、二倍の波が来たら、はいそれまでよ、人生にさよならである。こんな荒れ狂った天候の中では、舟もヘリコプターも出せないから全く水難救助できないので、完全に自己責任、自己努力で助かるしかないのだ。だから極限まで近づくのはやめて、遠巻きに見るだけにしましょう。でも一度あの荒れ狂った海の中に入ってみたいというのはだめな願望かな。それにしても何であの荒波を見ていると心躍るのだろうか。楽しくてやめられない、とめられない、カルビーのかっぱえびせん。
 
自転車は大変
とあるおばあさんは職場までの約1.5キロを自転車で通勤していた。その自転車は後輪が二つ付いている要するに三輪自転車であった。おばあさんは常日頃の口癖で、「車やバイクで通える人はいいね。車は暑さ寒さ雨露みんな防げていいね。バイクもただ腰掛けてりゃ着いちまうし、みんならくしてるね。私はひいこら大変な思いで自転車を漕いでるだで。夏は暑くて、冬は寒くて、雨が降りゃ濡れて、風が吹けばよたよたして毎日大変だよ。」とこぼしていた。
あるときおばあさんは私の車に乗って、とある目的地に行った。「あっ、あそこの道、曲がってよ。こっち、こっちだよ。」と言うのだが、一方通行の逆や右折禁止などで行けない道もあり、紆余曲折を経てというか、ほとんど迷子状態でやっと目的地に着いた。おばあさんの一言は、「全く車は不便だね。」だった。チャンチャン。
確かに雨の日など車の方が便利だが、近距離なら交通法規や周囲の安全に気を遣わない自転車や徒歩の方が気楽だと思う。でもその後もおばあさんの口癖は変わらなかった。

 文楽鑑賞
文化会館で文楽鑑賞会があった。この地方都市で文楽のライブは珍しい。吉田家等一流陣がそろっていた。で、当日、ホールにて前の方の指定席で見学、ところどころ空席があった。開演してしばらく経って、後ろのドアから係員に先導され礼装のご婦人がやって来た。「暗くて歩きにくいじゃない。」と大声を出した。私の耳にもはっきり聞こえた。係員に諌められ、前の方に来る。そのときには係員は戻って行った。かなり前の席らしく前列部まで来る。とそこで、「あっ私の席に誰か座ってる。」と大声で叫んだ。文楽の演者達もビクッと全身が震えたのが分かったが、すぐに気を取り直して舞台に打ち込んだ。その席に座っていた若者は、すぐに物音を立てず席を出た。ご婦人はどたどたと音を出し座った。観客全ての注意がそのご婦人に注がれていた。人によっては、他人の指定席に座っていた若者をけしからん、と思うかもしれないが、開演後は、見やすい空席にスムーズに移動するというのは、ある面、コンサート会場の常識みたいなものである。開演後遅れてきて、自分の席に他人が座っていたら、音を立てず近づき、小声や態度で自分の席であることをアピールすれば、すぐにどいてくれるものである。上品そうなご婦人だし、しゃべり方自体も上品そうなのだが、かなり不慣れな方らしいと判断した。しかし座ったのだからこれで舞台に集中できると、思った矢先、信じられないことが起きた。「何あれ、黒装束着た人達が人形動かしてる。何でなの。」と、舞台の演者及び全ての観客に訴えるため大声で叫んだ。全員の注意はご婦人に集まった。しかし舞台はけなげにも続行していた。「何であんなことしてるの。」と納得できず、重ねて訴えかけている。隣の客が「シー。」とその人に向けてアピールしたが、ご婦人は「だって、何あれ。」と大声を出す始末。とうとう係員が後ろのドアから来て、一言二言小声でやり取りして、ご婦人を連れ出した。もう二度と戻って来なかった。あれは単に不慣れだったのか、いやわざと公演を失敗させたかったのか、どういう意図があったのか、今もって分からない。信じられないが実話である。清水文化会館中ホールでのことだ。

 打ち水
夏暑いとき、夕方打ち水をすると涼しくなり、クーラーの電気代節約になるのでまいたのだが、ホースから水を出しっぱなしにして一晩忘れていた。翌朝気付き止めたが、えらい水の無駄遣いでがっかりした。何の節約にもなってません。しみったれた人間というのは、こういうみみっちいことが気になってしょうがなく、あとあとまで後悔するのだが、大局のところは見えていなくて、結局ばかなことばかり繰り返すつまんない人生を送るのだ。

 TVアニメ「セーラームーン伝説」
テレビで子供たちが「セーラームーン」を見ていた。セーラームーンをはじめセーラー少女たちは、ギャザースカートを翻し動き回るのだ。子供たちは夢中で見ているが、私はいつの間にか姿勢を低くして下から覗き込む体勢になっていた。アニメだから下から見たって見えるわけないのだが、スカートの裾から伸びる太腿は魅力的だ。ふとそんな体勢に気付き姿勢を戻し、子供たちが気付いていないことにほっとした。しかし無意識に覗き込む自分が情けなく、おじさんになったことをしみじみ感じるのだ。

 結尾
私は単なる変人。だからこんな変な話を書いてる。


愉快な話

2023-03-12 17:57:52 | エッセー
  下校
 17:00定刻で帰れると、正門玄関から出られる。このときなんだか「勝った。」という気持ちになる。別にそれが何ということではないが、うれしいのだ。そして玄関を通るとき、にやりとしてこぶしを突き上げてしまうのだ。
 定刻より遅れ残業になると、裏口からしか出られなくなる。この裏口、出ることはできても入ることはできない。また入りたいときは、職場室に電話するか、職場室の外から大声を出して、入れてくれるよう頼むしかないのだ。人様のお情けにすがらないと二度と入れないところがみそ。
 残業で自分が帰れず、他人がどんどん帰っていくとさびしい。そして最後の一人になると、完全に落ち込み、KOされたボクサーみたいな気分が味わえる。何せびりだと、「日番日誌」と「戸締り日誌」に記入捺印し、職場室を施錠し、自動警備開始をしなければならず、手間ひまが増えてさらに帰りが15分以上遅くなるのだ。がっかり。そのうえ自動警備開始のときアナウンスが聞こえるようになっている。女性の声で陰鬱に「警備を開始します。」と言われると、ぞっとして周囲を見回してしまうのだ。「もうちょっと明るい声でしゃべれよ。お疲れ様でした、ぐらいのことを言ってみろ」と、機械に向かって八つ当たりしているわびしい自分がいる。きゃはは。

   休暇
 この人、休暇なのに勤務している。なぜって家を出されて、かといって金があるわけじゃないので、結局勤め先に行き、プールにつかり、ビデオ見ながら、ローラーバイク台で自転車漕ぎをしトレーニングに励み、マット上でストレッチをし、あとは冷房の効いたパソコン室でパソコンを打って遊んでいたという次第。ちゃんちゃん。昼食は近くのおんぼろ定食屋で安く済ませ、一日たった500円で過ごしていたそうな。しかも通勤はランニングでトレーニングを兼ね、お金もかからないという寸法。でも靴は磨り減るし、服は汚れるのだが、通勤費が出ないのはちと苦しい。

   なんかネタない?

トミー伝説、おもろい話

2023-03-12 17:56:24 | エッセー
トミー伝説
・夜中突然弟に東京ドームを見せたくなり、車で静岡を出発、無論正確な場所など分かっていず、夜中に静岡にいる友達に携帯で「東京ドームへはどう行ったらいい?」と尋ねたそうな。聞かれた友達は「今どこにいるの」と質問すると「分からない。」とのこと。いったい何をどうするつもりだったのか。見せたかったのもドームの外観だったそうな。夜中ライトが消えていたら見えるのかなあ。
・彼はすぐに忘れやすい。今言われたこともどんどん記憶の彼方に忘却されていく。友達とハンバーグご飯を食べていて、友達から「君は何でもかんでもすぐに忘れるんだから」と言われている矢先、ハンバーグはしっかり食べたのだが、ご飯は全量残っていた。友達から「なぜ?」と問われ、「あっ、ご飯があるの忘れてた」とのたもうた。
・感謝や素直な気持ちはあるが、すぐひねこびたような答え方をしてしまう。そこで誤解を招きやすい。
・後先なく無頓着にやりだす。そこでめちゃくちゃになる。でもにこにこしている。皆から愛されるべきキャラクターである。彼のような人がそれでも認められて生きていけるか否かで、社会の健全性が分かる。

・トミー伝説、募集中! ここにメモ書きしてください。


学校のおもろい話

2023-03-12 17:54:47 | エッセー
  出勤簿
 以前勤めていた学校での話し。
 ある名物先生(  )は出勤簿に印を数ヶ月間ついたことがなく、事務室からつくように言われつくようになった。しばらくしてからそれが他人の欄についていたことが判明し大騒ぎ。それにしてもその他人も数ヶ月間ついたことがないってことなんだよね。その学校自体がのんびりしていたというか、自由だったんよね。

  名物三兄弟先生
 はんこつかないで有名になった先生は三兄弟の末っ子で、上に一卵性双生児の双子の兄がいて先生をしている。この三兄弟は伝説の三兄弟と云われる。
 一方の方の兄は、けっこうのんびりというかおおざっぱというか、まあそういう人である。あるとき趣味のハイキング会を主催し山に行くことになったが、集合に遅れるやら弁当やら何やらの買い出しにかかるやらで、結局山に登る前に日が暮れた。
 その人のかみさんは料理が苦手だそうで、料理作るたび鍋を焦がし、そのたび鍋ごと捨ててしまうとのこと。口癖は、「まっそういうことで、いいじゃないですか。」であった。
 もう一方の方の兄は、付近にある文房具、つまり鉛筆や消しゴム等を使うと自他の区別なく自分の筆箱にしまってしまうので、自分の筆箱はいつの間にか破裂せんばかりに膨らみ、付近の他人の文房具はなくなりやせ細っていくのである。そして膨らんだ筆箱になくなった文房具類がごちゃまんとしまわれているのを周囲が発見し、唖然。口癖は、「なすがままなら、きゅうりはパパよ。」であった。
 
  体育会系教師
 とある体育の先生、職員室で何やら削っているので、尋ねると、「これだ。」と言って、削りかけのバットを見せた。何でバットなんかわざわざ削ってたんだろう。いまだに謎である。
 また、「今日はこれだ。」と言って、朝からゴルフクラブをブンブンぶん回していたり、授業が終われば晩まで、「これが研修だ。」と言って、サッカー、バレーボール、ソフトボール、バドミントンに日夜熱心に取り組んでいた。ひたすらスポーツオンリーな先生暮らしであった。仕事より体育命。

  白衣
 とある先生達三人組、何を考えたのか、というか、隣接の病院の行事でリンボーダンスをした。その時衣装としてスポットライト映えするよう、看護師の白衣を借用し着用した。無論男三人である。そのあられもない格好でリンボーダンスを見せ、婦長に不評を買い、その格好のまま、学校内を練り歩き、周囲を唖然とさせた。
 この三人組及び周囲の者達は、忘年会等でもセーラー服を着て、「セーラームーン」の真似をしたり、ウエディングドレスを着たり、あられもない格好で踊り狂ったりと、あらゆる痴態を繰り広げた恥さらしである。
この踊りのとき、工事用ヘルメットを着用し、その上にパトライトを明滅させ、道頓堀にあるグリコの一粒百mの看板絵の模造紙を突き破り登場し、競泳用海水パンツというビキニスタイルの下半身もっこりで下半身をもこもこ動かし扇情的というより、恥辱のスタイルで踊り狂っていた。そして後ろには企画立案者たちがエレキギター、ベース、ドラム、キーボードでかっこよく演奏していて、前で踊っているのは企画者達におだてられ踊る羽目になった馬鹿ばかりであった。
 「セーラームーン」の真似だったときは、セーラームーンキャラのついた幼児用パンツをはこうとしたが、あまりにサイズが小さくはけなかった。阿呆。ちなみにセーラー服は憧れの英和女学院の三本線のセーラー服だったそうな。

  河童
 学校のプールには河童が住むと云われた。シーズンオフで緑色の藻に覆われた夜のプールに水音が立ち、黒い影がうごめくのだ。
周囲は一年中出没すると、思っているようだが、詳細に観察するに、プール清掃後の6月から最大で12月下旬の2学期終業式までで、平常11月中旬までで打ち切りとなる。本人に聞くと、11月中旬で、ウェットスーツを着用していても水温低下で凍えるためで、まともに泳げるのは11月上旬で精一杯だそうだ。12月までのときはウェットスーツに手袋、靴下、ラッシュガードまで着用しながら震えて泳いでいた。単に話題を提供し、新たな非常識かつ阿呆な伝説を作らんとするためのやせ我慢だったそうなので、以後二度とこの時期まで出没しなくなった。ようするに根性なしである。またプールの水はクロレラの味になるそうな。この先生の口癖は「学校はワンダーランド、学校はレジャーランド」だそうで、いったい何しに学校に行っているのか。

 おちょくる子
この子は、名前を呼べば「ハイ」と返事ができるのだが、呼びかけられると、呼びかけられたことは分かっていて、わざと違う返事で「あいやー」とか「はーう」と答えるとか、顔を左右に振ってニヤニヤしたり、手でテーブルをたんたん叩いたりと、ふざけた真似をしては、先生をおちょくるのだ。トイレではおしっこをする気になれなくて、話して聞かせてもそっぽを向くような嫌そうな表情になり、おむつにするか、おむつをはずせば床でも車椅子でもどこでもトイレ以外に黙って静かに出し、見つかると「へへへ。」という苦笑いのような、してやったりというような笑顔になるのだ。食事での摂食機能にも課題があるので、口周辺の訓練体操もしていたのだが、ここを触ると真顔になり、手を出しこちらの手をむんずと掴み、「俺の顔に触るんじゃねえ。」と言いたげな表情で振り払うのだ。こやつわがまま、しかも天邪鬼、自分のやりたいようにやる、なんちゅーやつ。

 プールの底で笑う子
世間で言う寝たきりの子で、歩けない、しゃべれない、座れない、自分でトイレや食事等ができないというほとんど赤ちゃんと同じなのだ。しかしこの子は表情は豊かで、笑顔がとても人をひきつけるのだ。そのためこの笑顔に出会うと、出会った人も幸せな気分になるのだ。ただしぞっとしたこともあった。それはというと、夏に水遊びの学習をしていて、ビニールプールの淵に首をもたれ掛け、頭を水から出していたのだが、いつのまにか彼が見えない。どうしたかと目を凝らすと、水中というか水底に彼は沈んでいて、水面上の私たちを見てニコニコ笑っているのだ。しかも口から空気の泡をブクブク出しながらである。このときにはその笑顔を見てぞっとした。無論すぐ引き上げ事なきを得た。彼は自力で姿勢を維持できないので、ずるずると水底に体がもぐって行ったのだ。そして恐怖のあまり顔を笑わせるしかなかったのだ。

 先生をばしばし叩く子
この子は歩けない、しゃべれない子だが、気に入った大人を見つけると、一緒に遊ぼうとする。その方法のひとつがその大人の体を引っ張る、つねる、手で叩く、後頭部で頭突きをかますである。ただし頭にシャントが挿入されているのでこれはやめてもらいたい。しかし当人は大人が「やめな」と指示すればするほど、おもしろがってよけいやるのだ。先生の言うことは聞かないのである。何ということか。この天邪鬼ぶり、たいしたものだ、頼もしい。人の言いなりに生きない。自分の思いは表現する。少々頑固者がいい。先生をおちょくる態度がいい。

 先生を挑発する子
この子、少し言葉をしゃべれるがはっきりしないし、歩けないが、いたずら者の目をはっきりするのだ。いたずらな目つきになると、これ幸いといたずらを先生に仕掛けてくる。しかもニヤニヤしてわざとやるのだ。それに対する先生の受け方を試しておもしろがるのだ。お互いのやり取りを自ら仕掛けてコミュニケーションをとろうとするなど、えらいやっちゃ。この子も先生の言うことを聞かない、天邪鬼なのだ。

 寝た振りする子
この子はしゃべれない、歩けない子だが、別に関心のないことに対しては、目をつぶって見ようとしない。ちょうど電気製品の待機電源状態のようになるのだ。省エネタイプというか、本当は自分の人生の何かをこの態度で表しているのだろう。見る気になれない物事は目をつぶってしまううち、本当に眠くなって熟睡してしまうことも往々にしてあるのだ。この子も先生の言うことを聞かない天邪鬼だ。 
  
  院内学級
珍しいことではあるが、時々病院内に学校の学級が設置されていることがある。学校から教師が病院に派遣され、病院の一室で授業を行うのだ。基本的には小・中学校義務教育の補完である。近隣の小・中学校の管轄のこともあれば養護学校の管轄のこともある。養護学校管轄のときは養護学校教師が赴くことになる。生徒総数に応じて教師数が決まるので、生徒が少ないと、赴任する教師はたったの一人か二人である。一人の教師がたいてい小学一年から中学三年まで受け持つことになる。中学三年生の国語、数学、英語、社会、理科等ともなるとそれなりに難しい。場合によっては他に美術、技術家庭、保健も含めて全教科を一人で受け持つこともある。そのうえ養護学校教師だと普段教科学習を教えていない。教師も一から勉強である。それがまたおもしろいのであるが、当然教師に分からないことがいっぱいになる。生徒から質問され、「ごめん、先生分からない。また調べておくよ。」のせりふが日常茶飯事と化す。そして結局調べても分からないこともあり、正直にそう言うだけである。しかしそんな中でも子供たちはおもしろまじめに、まあまじめかつ楽しく学習に取り組むのだ。不思議といじめなどなく、皆協力的で、上級生は下級生の面倒をみて、下級生は上級生を立て、同級生同士助け合うのだ。家族から離れ入院していることでフォローしあうのが当たり前みたいになっていた。

  院内学級ドタバタ
とある地方の総合病院に院内学級がある。学習用として小児科内の一室を学習室として借りていた。病院というのは時々増築や改築があり、その都度、小児科病棟や学習室の引越しがある。改築中のあるとき差額ベッドのある個室で最高級スイートルームみたいな部屋が空いていて、学習室としてあてがわれた。床はふかふかカーペット、壁はそれに合わせた高級内装壁紙で、高級ホテル並みだった。そこで学習している中に、実は幼稚園児で、学籍外の子だが、病棟からの要請と、こちらの温情で小中学生ともども一緒に学習していた子がいた。実はそれやこれやで高校生も学習に参加していた。あるとき理科で虫メガネを用いた学習をしていた。虫メガネのレンズで光の焦点を絞ると発熱、発煙、発火することも学習した。この子、目を離したすきに虫メガネで焦点を絞り、よりによってカーペットから発煙発火させるボヤ騒ぎを起こした。そのこと自体はそこで終わったが、カーペットの黒こげしみは残り、結局カーペットの張り直し、しかも特注で同一物がなく全面張替え、しかもそれに合わせた壁紙も全面張替えと相成った。その費用たるや、数百万円かかったそうな。病院に大損害を与えたのだ。むろん即刻学習室は別の庶民的な部屋に変わったことはいうまでもない。えらいこっちゃ。

 アはキリンのウー
この子は遠く関西から入院して、院内学級に転入した子である。ちょっと知的にも遅れていて学年相応の勉強についていけなかったし、内気で無口で、もといた学校ではいじめの対象だったようだ。しかしこの院内学級の水があったのか、急に明るくなり、妙に自己主張をするようになった。その一例が、病棟から朝登校してくるなり大声で、「アはキリンのウー。」などというわけの分からんというか、シュールというか、面白おかしいことを言い出したのだ。それまで世間に抑え付けられていた自分の思いを吐き出すようになった。学習に生活に自分の思いをアピールするようになった。図工の絞り染めでも決して器用ではなくはっきり言って不器用なのだが、その不器用ゆえに大胆に紙や布を巻いて染料にドボンと浸けてしまうのだ。そして開いてみると鮮やかで大胆な図柄ができていて、変に器用に繊細に作ったものより迫力があるのだ。お見事として褒めたくなる物になった。本人は何事にも自信のない子なのだが、このように褒められることが多くなって、生き生きした表情が出るようになった。あげくが関西の漫才師のようにひょうきん者としての地が出るようになった。ちなみに「アはキリンのウー」は学習中、先生から「小は小学校の小。リはリンゴのリ。」などと教えられていたことを、ヒントに自分流にへんてこにアレンジしたらしい。
転入してきた当初、何事にも集中力がなくすぐあきらめる子だったが、実は集中力があり負けず嫌いであることが分かった。技術家庭の作業で物を作ったとき、当初は不器用ですぐあきらめてしまうので、こちらであれこれ手助けしていたが、地が出るようになってから、手伝おうとすると「やめて」と言われるようになった。それでも不器用そうにうまくいっていないので、見ているこちらがいらいらするというか、体までくねくねしてきて、「いい手伝ってやる。」と言って、手を出そうとすると、「じゃかあしい。手え出すんじゃねえ。」と答えるようになった。「何や、えらそうな口きくようになったなあ。」と言うと、「あたりまえやろ。アはウルトラマンのシェーやから。」とまたわけの分からんこと言うのや。自分でできるまでもくもくと頑張る子だった。ただしこの子は退院後、すぐ別の施設に入所することになった。家庭で引き取ってもらえなかったのだ。
院内学級というところは入院している間だけの仮の宿りの学校で、退院すれば元の学校に戻って行くシステムで、一年間で子供のほとんどが入れ替わってしまうほど、転入転出が激しい。それにしても院内学級にいて、多くの普通学級からの転入生に出会って思うことがあった。普通学級でこれほどまで傷ついている子が多いという事実だ。普通学級でこれだけ傷ついているということは、普通の世間というのは果たして大丈夫なんですか。競争社会、勝ち組、負け組というレッテルの社会は大丈夫なんですか。私はついていけない。

 自分のまひしている手をたたく子
 この子は肢体不自由軽度知的障害児である。この子の場合ようするに脳性まひで自分で歩くことが大変な子だが、人と話はできるし生活力はあるが、ちょっと学力の足りない子である。学習ではひらがなの読み書きができ、一桁の足し算ができ、漢字や掛け算が苦手である。
 この子、話はまともにできるし、性格のとてもよい子でした。この子と文字の書き取りをしているとき、手にまひがあり、きれいに書けないため、自分の片手でもう一方の手をたたき出し、「この手が悪い。だからきれいに書けない。」と言うのでした。たたく行為を止めざるをえなかったが、何せ自分の手を責めても致し方ないが、返す言葉がなかった。

   院内学級てんかん病棟にて
 中学生の入院児で、普通に話せるし、勉強熱心な子だった。しかし記憶力が少し乏しかった。というか、こんな具合だった。
 国語の学習で漢字書き取りの成績が思わしくなかった。そこで授業中、漢字書き取りを繰り返し行い、覚えた。そして直後に、その漢字の書き取りテストを行った。結果は散々だった。わずか数分、十数分後に記憶が薄れていってしまうのだ。おそらくてんかん発作のため脳が微細な損傷を受け記憶力にダメージがあると思われた。本人は熱心に勉強に取り組むのに、覚えられないのだ。記憶力による丸暗記だけが学習ではない。生きていく力というのは、それより大きな何かがあるように思いたい。

  持ち物調べ
ある時、持ち物調べということをすることになった。阿呆な先生は「持ち物調べって、何か学校みたいじゃん。」とのたもうた。そしたら「だってここ学校だから。」と言われた。「そうかここ学校だったのか、アハハハハ。」と、いったいここが何なのかさえ気付いていなかったという、駄目先生の話である。この先生、常々、「学校はワンダーランド。」と思っていた。要するにレジャーランドと同義語だったのだろう。

 B級グルメ
とあるへんてこ先生、またまたへんてこなことしてはるわ。まっとうなグルメになれるほど、エンゲル係数、つまり食費に掛けられるわけじゃなし、というわけで、B級グルメ、ラーメン味めぐりなどやりだした。味の違いなど分かりもしないくせに、うんちく傾け、ああでもない、こうでもないなどとわけの分からんことわめきちらして食べ歩く、つもりだったらしいが、結局挫折したとの風のうわさである。何事にも根性なし。

空き時間
とある先生、年度初めの時間割を決めるとき、4時間目に空き時間がほしいとのたもうたそうな、なんでかというと「お昼に味噌汁を出したいので、それを作る時間にしたい。」と申し出た。無論却下。でもこの先生がたまに作ったお昼の味噌汁はなかなかリラックスタイムになってよかった。お堅い先生達は、「何で昼に手作り味噌汁なんか出てくるのよ、学校をなめてんじゃないのよ。仕事が大事。こんなことする暇があったら仕事をしなさい。」と、のたもうていた。おおこわ。
またこの先生、研修発表会の日に、来校された方々に是非温かい物を出そうと頑張った。その結果、学校中朝から甘酒の匂いがぷんぷんと漂い、いったいこれは何?という状況になった。無論お堅い先生達はキーキー怒りまくり、甘酒は捨てられてしまった。甘酒で持て成したいという、あったかい気持ちは無残にも葬り去られた。

  女教師によくあるタイプ
何にせよ、すぐ人を呼びつけ、人にやらせようとするタイプである。他人をあごで使うというか、アッシーにするというか、他人が物事をいろいろ抱えているか否かはどうでもよく、本人が忙しいから、とにかく他人に割り振るということらしい。これが女教師の特権だとでも言う気はないらしいが、それで当たり前と思っていることは間違いない。この最たる被害者の件に関しては、特に小学校に勤めた男教師は悲惨な目にあいやすい。なぜって公立小学校はたいてい女教師が多く、男教師がたいていの仕事を割り振られてやらされることになり大変らしい。これら女教師は家庭などのプライベートでも他人を呼びつけ割り振りをしだし、不評を買うようだ。

  いたずら、学校のトイレ前にウンチ模型を置いたら
この阿呆教師、ウンチの模型を人からもらったまではよかったが、何を考えたか、学校のトイレ入り口前に置いて、他人の反応を見ようとうきうきしていた。しかしその後一向に騒ぎ出す気配が見られなかった。数時間後、とつとつと「あのう、トイレの入り口に何かありませんでしたか。」と先輩教師に聞いた。「あっ、何か落ちていて誰それ教師がトイレットペーパーに包んでゴミ箱に捨てたそうですよ。」との返事であった。阿呆教師、大慌てでトイレのゴミ箱に行き、中を探り、ペーパーに包まれた模型を回収した。笑いを取れず、真に受けられたことでくしゅんとしたが、その後先輩教師たちに苦笑され、まっ、ちっとは受けたかなと自画自賛した。阿呆だあ。学校でいたずらする教師がどこにいるか。いや、ここにいた。

卒業証書授与で寝ていた子
 この子は大物だった。卒業式の練習では、在校生たちが大声を立て騒ぐのを聞いてニヤニヤしていて、しまいには「あは、あは、あは」と笑い声まで出して喜んでしまうのだった。まあそのこと自体が失礼なことではあるが、練習中車椅子に座って起きていて、興味をもって周囲の様子を見聞しているので、本番も大丈夫と思った。が、これが大失敗。当日朝からおめかししてよそ行きの服を着て、うはうはとお喜びであった。しかし、がーん。本番が始まったらうとうとし出し、とうとう眠りだした。まいった。本人が卒業証書授与で呼名されても、ぐーぐーであった。私が介助で車椅子を押し校長の前まで行くと、校長が小声で「起きて」と、のたまわれた。証書を校長から手渡され、やっとうっとうしそうに目を開けた。私は卒業式に卒業生が寝ていたというのは始めてであった。なんとも記憶に残る子であった。
 ただ聞くところでは、卒業生とその親まで寝ていたという話がある。さすがに親子で寝ていたので教師たちも驚き千万だったそうだ。すっごい大物だ。しかも親子で。あんたはえらい。
  
   入学式に寝ていた先生
 どこの阿呆か、入学式の間中、寝ていた教師がいた。入学式が始まったとき、確かに起きていたのだが、ふっと気がついたら、入学式が終わるときだった。これには本人も驚いた。始まったのは覚えているが、次は終わるときだった。とにもかくにも式の間中の記憶が一切ない。うーん、よくも式の間中、完全に寝られていたものだと感心すること、しきりである。がはははは。

   参観会
 近頃参観会での保護者のマナーのひどさを指摘されることが多い。こんなら例があった。
 参観授業の間中、教室の後ろに置いたパイプ椅子に座り、一時間中携帯電話とにらめっこしメールを打ち続けていたお母さんがいた。授業は全く見ていなかった。教師がその人を呆れて見ても、気付くことなくメール打ちに必死になっていた。たいした集中力であった。褒めて進ぜよう。
 参観授業中、廊下でお母さん同士で井戸端会議に花開き、どんどん声が大きくなり、笑い声、嬌声が教室内にまで響くようになったが、おやめにならないのだ。一時間中ぺちゃくちゃ話していた。この人たち何しに来たのでしょうか。
 でもね、学校に来るだけ保護者としては全くまともです。いかに多くの保護者が全く学校へ来ないことか、一年に一回ぐらい、ちったあ学校に見に来てよとは思います。
 保護者面談に出席予定の母親が待てど暮らせど来ないので、電話をしたら全く忘れていたそうな。そしてどこかへお出掛け中のようなので、後日に予定を変更した。まっ、こんなことはよくあることで、でへへへへ。

~重症心身障害児者施設での話~
とある先生が訪問教育所属で、重症心身障害児者施設に通っていた頃、見た話である。
 牢名主
とある女性患者さんいつも特製椅子に座って職員さんたちに話しかけていた。腕を胸元の中に突っ込んで、ちょっと眉間にしわ寄せたポーズでである。それって牢名主みたいであった。そうして大好きな看護師さんを呼ぶのだ。「○○さん」と大声かつ横柄そうに呼びつけ、「こっちおいで」と言っているのだ。職員が近づけば誰彼かまわず腕をむんずと掴んで引き寄せ、その腕にすりすりとしてきて、なんだかんだと話をしてきては甘えるのだ。その人に向かって、「昼食のカレーはおいしかったかい。」等と聞くと、たとえ食べてもいないメニューであっても「あん、おいしかった。」とひょうきんそうな声で答えるのだった。そして「今日の天気は何。」等と天気の話を聞くと、「今日は晴れ。」と雨であってもいつも変わらず、そう答えるのだ。そしてなんだかんだと話をつないでいって長引かせる工作をするのだ。そして体にまとい付いて離すまいとするのだ。この人にとって、話の内容より、誰かとかかわりあって人に甘えたいのだ。愛情に飢えているのだ。ホスピタリズムを自ら打破しようとしているのだ。
カタカタ人形の押し車で脱走する子
この子は押し車があれば、立って歩行ができ、病棟内を一人でゆっくり歩くのだ。今日も今日とてカタカタ人形をかたかたと動かし、押し車を押して一人で棟内をゆっくり散歩中、目の前の病棟入口が開いていた。一旦立ち止まって、周囲の様子をじいっーとうかがっていた。誰も近寄らない、誰も注意を払っていないのを確認すると、突然猛スピードで押し車を押して入口をすり抜け、外へ外へとどんどん行ってしまった。顔つきは真剣かつうれしそうだ。さっきまでと全くスピードが違う。そして見つかると「うっうっー」と残念そうに唸るのだ。そうまでして外に出たいのだ。

~家庭にて~
猫との会話
この人、家庭で飼っている猫に向かい、こう話すのだ。
「お前ともそのうちお別れだ。自分の給料の入る口座を変えてかみさんのところにいかないようにして、自分でもらうようにする。それから家を出ていく。お前はかみさんに養ってもらえ。長い間お世話になったな。別れはつらいが元気で頑張れよ。俺は自由に新しい女を作って生活を楽しむから。」
しかし実行されたためしがない。
彼の給料は自分の口座に入っているが、その口座のキャッシュカードと暗証番号、預金通帳はかみさんが持っていて、彼は暗証番号さえ知らない。
以前確かに彼の口座でキャッシュカードも暗証番号も通帳もあったはずなのに、かみさんに貸したキャッシュカードを、かみさんが落としたといって、勝手に再発行してもらい、暗証番号を勝手に変えたため、何がなんだか彼には分からなくなり、通帳もかみさんの手に落ちた、という話である。

だめ教師
この阿呆教師、一応妻と子という名の者が戸籍上いるらしい。で、妻とやらも同業者で養護学校教師である。そして子供が言っていたことでこのようなものがあった。ちなみに事実である。
「うちのママとパパは養護学校に行ってるんだ。ママはいろいろなことを教えるために先生として養護学校に行ってるんだ。パパは何もできないから養護学校に行って、いろいろ教えられている生徒なんだ。」と言っていた。
彼は生徒で給料がもらえるなら万々歳でいいなあと思って、否定するどころか、そのことを夢想してにんまりしているのであった。

・砂糖好きな子供
 家の近所に「クロンボ」という喫茶店がある、ここ女子供向けの味と量で勝負のお店、子供たちを連れて行ったとき、テーブルにスティック・シュガーがたくさん置かれていた、あっと思うまもなく、スティックを破り一瞬のうちに口の中にいれ、また次のスティックに手を伸ばし、えらい早業で、次々飲み込み、自分のテーブルだけでなく、隣のテーブルのスティックもあらかたえじきにしていた、次にこの店に行ったら、もうスティック・シュガーは出していなかった、
またこの子達、家の砂糖もえじきにしていて、砂糖入れの容器ごとスプーンでばくばく食べ尽くしていた、家は慢性的砂糖不足というか、常に子供の胃袋に直行してしまうのだ、さらに子の子達、小児科でもらう感冒薬も甘いためえじきにした、「かぜひいた、おくちゅりのむー」が口癖で、言い終わる前に手につかんだ薬の包みを、あっという間に引き破きもう口中に入れ終わり、一瞬の間に笑顔でおいしそうに飲み下していた、おやつ等はあるのだが、何でこんなに飢えたかのように蟻のごとく甘いものに群がるのか不思議だ、


怨み、つらみ、憎しみ、怒り、悲しみ、呪い、怨念、呪詛、憤怒、憎悪、失望、絶望 05,5.27

2023-03-12 17:50:24 | 詩、散文詩
怨み、つらみ、憎しみ、怒り、悲しみ、呪い、怨念、呪詛、憤怒、憎悪、失望、絶望
05,5.27
むなしい人生と死ぬことを天秤にかければ50対50でどっちつかず、生きるのもわずらわしいが、死ぬのも苦痛そうだし道義的にごちゃごちゃとうっとうしい。どちらも積極的に選びたいわけじゃないが、第三の選択肢があるじゃなし、どうにもならずただ生きながらえるわが人生かな。といって哲学的絶望感なんて深いものがあるじゃなく、たかが数億円の資産があり道楽気晴らしばかりして生きていられれば80パーセントの虚しさはやりくりつくかと思われる。いやいや働いて生きて、気晴らし道楽の時間と予算を必死で生み出している、今のぎちぎちの生活。家族を愛してるわけじゃなく、自分さえもよりよく愛してるのか分からない。ただ死ぬこともできず、快楽を求めてうろついているだけ。働いていなければ責任もなく無責任にちゃらんぽらんに生きていける。ただ快楽の享受と相手方の責任だけを問うていられる。金が全てとは云わないが金があればある程度の自由と権利が手に入る。資本主義の原則か。持てる者と持たざる者、勝ち組、負け組なんて虚しい分け方、でもある程度持てる者になれば楽なのは確かなこと。勝ち組なんてこと夢見てもありえないこと、せめてそんなことでも空想してあほらしい人生の慰めにするしかない。

06,4,8
なんでこんな虚しいというか、虚しいと何度も思うこと自体があほらしいはずなのに、どうにもこうにもできず、やっぱり虚しさにため息もれる。
スポーツのトレーニングなんてやったって、ただの消費ばかり、一円の銭にもなりゃしない。でも他に何ができる、結局嫌々でも何でも今それしかできないことを怨みつつ、やって行くしかない。でもやったって取り立てて強くなるわけじゃない。自分程度の練習量で自分より強い奴はごちゃまんといるはずだし、だからといってとてもこれ以上練習量増やせる絶対的時間量があるわけじゃない。そして増やしたところでそれが何、ちょっと順位や記録が上がったからと言って、それが何なのさ、表彰されるわけじゃなし、ましてやヒーローになぞ縁はなく、賞金賞品なんて別世界の話、さいならーの、その他大勢の二束三文にすぎない。ドラマでいうなら通行人か死体の役、いやそれ以下で編集カットされて映らない部分に過ぎない。それでも増やすっていうなら、もうそうするには銭をもらえる仕事とやらにおさらばするしかない。いっちもさっちもいかない、ただあくせくと地べたを這いつくばってみっともない生き恥晒し、ゴキブリみたいに生きてくしかない、泥まみれの阿呆な人生かな。
「復讐するは我にあり」まさに自分で自分の人生に復讐するしかない。こんな虚しい人生とやらの重荷を背負わせやがって、てめえ、なめてんじゃねえ、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。もうちょっと甘い汁の吸えるお気楽人生とやらの選択肢はねえのかよ。怨みます人生を、この世を、摂理を。
「釣りバカ日誌」でも見てわざと笑うしかない虚しさよ。♪どさきゃいいのかこの私、夢は夜ひらく♪
なんで生きてくのか、なぜ生まれて来なけりゃいけなかったのか、ついでになんで死ななきゃいけないのか、納得も了承もないが、そうなっちまう、不条理というかそれが摂理というか、ついでにこの世そのものすべてが不条理なんだ、なんでもかんでも不条理、だから不条理に悩んだとて、何も得られぬ、しかし悩まずにはいられぬ、それもまた不条理、不条理が不条理を呼び、さらに訳の分からぬ不条理が上塗り、横塗り、すべり塗り、ついでになんでもかんでも塗りたくり、何から何まで不条理だらけの摂理、そんな中でうろたえつつ生きてのたれ死んでいくのさ、あほくさ、
自分の切ない思いをひたすら押し殺して生きていくしかない。自分を常にだましだましして嫌な思いで、言いたいことも言えず、うろたえて頭を垂れ意気消沈し、それでも我慢して生きていくしかないのか。
人生なんて我慢我慢の我慢だらけのつまらない我慢比べの拷問、牢獄か99%の我慢の嫌な思いと、たった1%の拷問の休み時間があるだけか、ほっとするのはつかの間、また人生という名のリングに突き出され、いやいや格闘技をやらされ続けるのだ、死ぬまで、なんでやねん、誰がそんなこと了承したねん、

  恋歌
髪は悠久のカーブを描き とこしなえ 永遠に流れ行く その醸し出す 雰囲気 
海の泡から 産まれゆく ヴィーナスが如き 夢の世界の 天使よ 永遠に続くものの真理よ 今この瞬間に 会得する 絶頂の彼岸 永遠は 今この瞬間 ここにあれり 
といえり 

  大型客船をレイプ
太陽まぶしき港 波止場に停泊せし 大型客船 優美なるその姿は 才識兼美 
容姿端麗 麗しき マドンナの似姿よ 
彼女を 抱きしめ 征服せずにはいられぬ 暴走の野望よ 後ろから羽交い絞めし
「いやよいやよ」と艶かしげに振る腰に 下半身を押し当て 彼女の 処女地に
自らの欲望を突き立てるのだ 
ひーひー泣き喚く 大型客船 太陽に見せつけ 嫉妬の焔(ほむら)を
ギンギンに燃え上がらせるのだ 嫉妬に荒れ狂うオセロさながら 目を血走らせ
犯される 大型客船の彼女から 目が離せないのだ 
見せつけ よけい燃え上がった 猟奇の欲望 さらに激しく 腰を突きたて 彼女を
いかせちまうのだ 大型船舶の極める絶頂は ど迫力そのもの 
嫉妬に狂い 目を血走らせる 太陽に向かって 精液をぶちまけ 
彼女の犯された股間を 見せびらかしてやるがよい 
太陽が頭を抱える姿の 哀れさは ぞくぞくするほど 気持ちいい 
いっそ太陽の野郎の おかまを掘って 犯してやりたいぐらいだ どうせなら 
二人並べて うぐいすの谷渡りと 洒落込むのが おつってものさ 
太陽は 涙でぐしょぐしょ 絶望と呪いの言葉を 吐き散らし 黒く燃え尽き 
没してしまう 
優美なる姿の 大型客船は 単なる 性欲処理の セックス奴隷として 
飼い殺しにする やりたくなったら 有無を言わさず 後ろから羽交い絞めにしては
やりたい放題 犯し抜き 快楽の限りを むさぼる 飽きたら ポイ 
犯されることの 快楽しか 生きがいの なくなった 彼女は 命の限り 
すがりつくが 恥辱の限りを与え ぼろ雑巾のように 捨てる そのあとが 
ぞくぞくする 絶望のあまり 自殺するのを 舌なめずりし 口の中に 
よだれをいっぱい ためながら 眺めるのが 最高 彼女の 哀れな 死に顔は
純情な 官能美に 満ちている いっそその遺体と 一発やるのが 悦楽の境地
死に化粧は 艶かしいエロティシズム ホルマリン漬けにして 保管し 
コレクションの ひとつとして 展示する 
死してなお 欲望処理の 道具として 取り扱われる運命 
おんぼろ沈没船として 海底深くで 朽ち果てて行く 漁礁としての役割を与えられてそのじつ みっともない姿だから わざと人目につかぬ 海の底深く 
くさいものにふたをした に過ぎない このまま朽ち果てて 一切合財消滅すればよい 
あの豪華な大型客船が こんなにも 惨めな姿で 朽ち果てて行く 変わりよう 
ぞくぞくする 

  なりたい商売、職業、仕事、労働
小説を書かない小説家 文を書かない作家 絵を描かない画家 研究しない学者 
スポーツをしないプロスポーツ選手 詩を書かない詩人 歌わない歌手 演奏しない音楽 演奏家 撮影しないカメラマン 芝居に出ない役者 料理を作らないシェフ 働かなくても稼げる商売 働かなくても食える商売 働かなくても左うちわでいられる商売 
商売しないのに金だけ貰える仕事 仕事しなくても金と名誉が入る仕事人 
無責任に好きなことしてれば金と名誉が入る商売 仕事しない仕事人 
働かなくても儲かる仕事 一切責任を負わないのに金と名誉の入る仕事 
ただ無責任に人の責任ばかり追及していれば儲かる商売 
ただ自分の権利ばかり主張し他人の義務を要求すればよい仕事 
いやなことは全くしないで全て他人任せ世間任せでよいお気楽ご気楽ちゃらんぽらんで金と名誉はざっくざっく儲かる商売 
なまけていればただ金と名誉が手に入るお気楽商売 好き勝手放題したい放題やりたい放題怠けたい放題無責任放題金と名誉が有り余り放題の仕事 何もしないのに金と名誉が有り余るほど儲かる仕事 暇が有り余る儲かる商売 
そんな仕事ないかなあ そんな仕事に就きたいなあ 
ヒモに成りたいなあ、でもヒモは大変だとのこと、よっぽど女にまめでなきゃなれない、そりゃ無理だ、やっぱりヒモにもなれない さもしい人生
別に労働もせずお気楽ご気楽に生きられたらいいのに、なんでなの、うらみます。逆恨みするしかない、ままならぬ、くそ人生、わびしさ。

   何でこうなるの
 何がどうでもいいのだろうが、こんなふうにしか身を処していけない。ほんとは嫌だけど、嫌とも言えず、苦笑いと、「まっ、しょうがないか」で、結局いってしまう自分がいる。そして一人のときもんもんと人を怨み ののしり、悶絶する卑小な自分がいる。悔しさいっぱいで歯噛みしていたはずなのに、また世間に出ると、愛想笑いで世間を取り繕い、言いたいことも言えず、悶々としている情けない自分がいる。ほんとは世間嫌い、人間嫌いだ。嫌だ、嫌だ、こんな世間から離れたい。たまには一人で山の中に入って、バランスを取り戻したい。うんざりする。

   自分をだましていくしかない             06.8.16
 よく テレビドラマなどでは 「自分をだましはいけない 自分に正直に生きるべきだ」などと 言っている でもね 自分に正直になんていかない 自分をだまし続けて生きているのがおちさ だいたい 僕が 自分に正直に 自分をだまさずに あるいは 死ぬ気でやるつもりなら かみさんに離婚届けにはんこついたものを出し 家を出る 勤め先にも 一身上の都合とやらの書面を出して 今日限りでやめますって言うしかないのだ 僕は自分で自分をごまかして 社会生活を営んでいるのだ 僕は嫌々 社会や家族とつながっていくしかないのだ 僕は僕をもてあます 僕はきっと死ぬまで自分をだまし 世間もだまし くたばっていくしかないのだろう 

  なぜなの
 なぜ走るの? じつは何が答えか分からない でも自分にとってうそではないらしい答えとなるといくつかある 自分の人生 自分の生活が嫌でたまらない うさんくさくて いやみばかり どうせ人生も生活も嫌なことばっかりするしかない こんな人生も生活も 憎悪してやる 嫌悪してやる 復讐してやる 結局 走って 泳いで 漕いで 本を書いて とするしかない どん詰まり 
嫌になると ふと 山に登りたくなる こうすることでしか 自分の所在無さを  たたきつけられない                      06.9.5

  教育なんて
 その昔 アフリカ大陸にキリスト教の伝道のため 入植していった宣教師達がいる 彼等はキリスト教の宣教のため アフリカの人々に 教育を施していった 敬虔なクリスチャンになることを期待して 教育を施された者達は どうなったか 彼等は 共産主義ゲリラになっていった 期待される人間像なんて 押し付けられて 教育されても 結局は 期待されない人間像にこそ なることが 教育の一面の真実 百人教育して 百人が百人とも 期待される人間像になりました なんてなったら うえー 気持ち悪い うそだ いんちきだ 何かある 教育は期待されない人間像、悪い人間になること、悪知恵を働かせることを知らしめることなのかも 人間存在の矛盾と認識のあいまいさを知らせてしまうこと 

  キリン
 キリンをかっさばいて食べるという詩に触発されて一詩ものにせん
日本平動物園にキリンがいる キリンの園舎前から見ると キリンの全体像の遠景
それはイラストのように可愛い長首に黄色とぶち模様のぬいぐるみ
キリン園舎の裏手に上る坂を上がっていくと 坂道に生える樹木の葉を
一心に食べるキリン ちょうど目線の高さに どでかい頭 不気味な蛇みたいな 灰色の長い舌で 枝をべろべろなめまわして 葉を次々 食べていく 
死体みたいに無表情そうな 目をして こっちには 無関心そう キリンにしてみれば 無表情ではないのだろうがついそんな風に見えてしまう ついでに 生臭い生物の臭いをプンプン 撒き散らしながら これが 生物が 生きてるって ことだと 無言で 
主張するかのように 

   恨んでやる何もかも
 何をどうすりゃいいってのか 何が何やら さっぱりピーマン で 今できることといったら 恨んでやる 怨んでやる ひたすらうらんでやる こんな人生 こんな現実
こんな社会 何もかも恨んでやる 恨むことぐらいでしか自分の思いがあらわせない 
ああ どうにも なりゃしない 
 なにをどうすりゃいいってんだか やたらなんでも どうでもいいや 恨んでやる なにもかも 存在も認識も 絶対も相対も 無限も有限も 条理も不条理も 神も仏も
人生も死も 快楽も苦痛も どうでもなりやがれ

   ただセックスのためだけ
 ただセックスしたいだけのために かみさんと結婚した ただ性欲のため その性欲が満たされなきゃ 何のための人生か 何も愛してなんかいない ただやりたいだけ 自ら不幸を作り出し 好きでもない女と寝ても面白くもない のは 当たり前 よけい 不満が 募るだけ 不幸の上塗り 女はただ性欲のおもちゃ ひたすら やりたいのに 満たされない 
身も心も 満たされ マダム・チャタレイの優しい性欲に 満たされてみたい
女に愛されたい 二人で めくるめく 愛欲に おぼれ 達したい いきまくりたい 女と愛し合いたい 身も心も 忘我となるまで 
かみさんを 愛していない 嫌い 
セックスしたいのは肉欲のせいでもあるが、飲む、打つをしない私にとって、唯一の自己解放であり、淋しさへの反動、愛情渇望なのだろう。肉を重ねることで心の開放、愛情確認をしたいのだ。ミスターグッドバーを探しているのだ。身も心も満たされたい。満たし合いたいのだ。
ただ女は性欲の対象か 性欲と一方的愛情渇望の産物 肉欲の奴隷 
「性的人間」ばかりじゃないだろうけど 私にとって 「性的人間」は大問題 性欲に憤懣やるかたなし状態 満たされない これが満たされないといらいらしっぱなし しかも愛情も満たされない 

  みっともない
 父や祖母は、飲食店での宴会後、残り物を折に入れてもらい持ち帰ることを嫌った。「持ち帰るなんて、おこんじき(乞食)のまねはみっともない。」といって怒りだすのだ。店の人も宴会の参列者も困惑してしまうのだ。その様子を見ているともっとみっともなく、貧乏人が虚勢を張っているようにしか見えないのだ。
大藪春彦の小説の中に、高級スーツを仕立てに行く主人公が、仕立て屋に対し、「金なら持っている、人を見くびるな。」式のせりふがあるが、これなんかも現実にあるとみっともない。いかにも貧乏人がたまに金が入って下卑た成金趣味で横柄にしているみたいに思える。
とあるリゾートパーク遊園地で、年配の落ち着いた女性から園地内の道を尋ねられた。すかさず後ろにいた着飾った若い女が「お母さん、みっともないこんなところで人に道を尋ねないでよ。田舎者みたいじゃない。」と怒りだした。母親は娘に「まあ道ぐらい尋ねたっていいじゃない。」と上品に答えていた。娘の剣幕がひどくて、尋ねられたこちらも退散した。母親は上品そうで聡明でよいが、この着飾った娘、いかにも田舎者まるだしで、スマートじゃない。たかが遊園地で道ぐらい尋ねたっていいじゃないの、尋ねられずうろうろしている方がよっぽど間抜けに見えるのに。

   生きていたくない願望
別にどうってことないが、車が近づいてくると、ふーと引き込まれていけば人生ともおさらばだ やれやれという 気持ちがふあーとわいてくる 何の気なしに 何気ないときに ふとこれで嫌な人生ともおさらばできるのにと思うことがある がまんばかりの人生に嫌気がさす

   職員室にて
夏から秋にかけて勤務時間終了になると残業を後回しにしてプールへ、経済性利便性時間節約体力増強練習時間短縮確保公共プールへの移動時間節約等いろいろ合理的意味はあるが、精神的意味、人間疎外と搾取からの開放、感情の再生、リラックスもある。今はバランスボールに象徴している。腰痛予防、身体バランス感覚向上以外にも分かる人は分かるだろう。この精神のSOSが。少しは周囲の潤滑油、安堵感になれば。

  縫い物
穴のあいた靴下やパンツを縫い直してわざと着用する あるいは穴が開いたままのシャツを着用する これが日本へのレジスタンス 合理的経済的にも確かに金がないからだし、
もったいないからだけど いつから日本人はそんなに金持ちになったんでしょうか 下卑た成金趣味みたいに 貧乏くさいこと もったいないことを あえてばかにするようになったのは 以前未使用のタイ米を捨てたり その他あれやこれや アジアをこばかにしたみたいな その態度 ブランド物に追いすがり それを持つことで 自分の価値も上がると幻想を抱く んなあほくさ 金さえ出せば 誰だって 持てるがな それを見せびらかす さもしい根性 それを毛嫌いするという自分も同じ穴のむじなのさもしい根性者同士 
同類相憐れみつつ反発するそのねじくれた根性やいかに 単純なようで複雑 複雑なようで単純 馬鹿は死ななきゃ直らない されど死ぬわけにいかず 立ち尽くすわけにいかず ただえへらえへらにやにやと こたえていないみたいな表情で本音を言わず ひょうひょうと生き延びていくしかないこのやーな人生 うざったい 
 ギルバート・オサリバン「クレア」が頭の中で響く この歌 可愛いはずの歌だけど 
どっか黄泉の国の歌みたい ショパン「幻想即興曲」は暗い情熱の爆発だけど どっかで同じように死の国の香りがする 寒い凍える あとチューリップ「約束」が似てるかな 
 マスクを洗ってはまた使うせこい生活や
  恥
本人は自分が偉いつもりでいるけど、周囲からは疎まれ無用の長物と化しているにもかかわらず、本人はどこ吹く風といった態度なのだ。

  時代は変わった
その昔、商品の欠陥でメーカーが責任を取るなんてありえなかったということを、みんな思い出せるかな。今になって、パロマのガス器具やシュレッダーでの事故が、かなり昔からあったのにという、ニュースの口調は、そこんところまったく忘れてる。10年も前なら警察も行政もまったく被害者の要求に応えなかったろうし、メーカーもまったく無視で終わったろう。だから今、メーカーは商品の安全責任を問われて、後手後手に回る対策しか取れないのだ。だってもともとメーカーの安全責任なんて日本には存在しなかったのだから。警察や行政だって昔そんな苦情を聞いたことはあっても取り合ってこなかったから、メーカーに安全対策を促したなんてことはありえず、苦情は門前払いで、民事訴訟は被害者やその遺族が個人的に民事訴訟を起こすしかなく、警察も行政も民事にはまったく不介入なのだ。一素人の消費者がメーカーを相手取って商品の専門知識が必要な欠陥の証明なんて不可能で、裁判に持ち込むこと自体ありえないのだ。そしてマスコミもこの件に関してはまったく無視して取り上げてこなかったのだ。しかし日本も遅ればせながら製造物安全法(PL法)を制定した効果がやっと出てきたということか。しかも行政や警察も指導力を発揮するし、マスコミまでメーカーをたたくのだ。昔なら考えられない。その昔、ライオン油脂のママレモンを誤って飲み死者が出たとき、それを取り上げたのは赤旗と、多分ゆすりのねたにしたいいかがわしい総会屋などの、経済冊子ぐらいのものだったのだろう。自動車から発火し死んだ。テレビから発火し人が死んだ。等々商品の欠陥による被害は、噂や左翼系マスコミしか伝えてこなかった。そう考えると、今になってメーカー責任を声高に叫ぶマスコミって何。あんたら虫が良すぎやしない。
そういえば、テレビや新聞で同和問題という字が出た。といってそれが本題ではなく、奈良市の清掃局で長期欠席しているにもかかわらず、ほぼ満額給料をもらっていることが問題になり、表面化した。それが同和問題と絡んでいたので、積極的指導もなく放置されてきたということのようだ。同和が絡むと行政は手が出しにくい。そして今までなら大手マスコミは決して「同和」という文字すら使いたがらなかった。やっとニュースも変わってきたようだ。マスコミは行政をたたくが、それならやっぱり触れてこなかったあんたらマスコミは何様なの。これも触れてきたのは赤旗といかがわしい極右翼や極左翼ぐらいのものかいな。

   猫は家に居つく
私はネコ型かな。というのは、人に居つくというか人に忠実な犬型と、家に居つくネコ型がある。猫は引っ越すと住人は一緒でも借りてきた猫状態になるが、家が一緒で住人が変わっても落ち着いたままでいる。これって住人は誰でもよくて、家というテリトリーが同一なら心理的に安定しているのだ。家の住人というのは猫にとって便利な同居者に過ぎない。私も家族は便利な同居者に過ぎない。愛してなんていない。私が家に帰ってくるのは、最低限落ち着けるコストの掛からないねぐらがここだということに過ぎない。猫と一緒、人に対しては忠実心というものがない。

キス
もう20年以上もキスしたことがない。愛のない証拠だけど、あっちはタバコ吸うし、酒飲むし、嗜好品好きだし、口腔が弱そうだしで、結局口臭がひどいのだ。もう近づきたくもないのだ。くさい。自分だってくさいのだろうが、タバコ吸わないし、めちゃ嗜好品とらないし、もう少しましだろう。聞いた話だと、タバコとコーヒーが好きだと、うんこくさくなるそうな。

人生目標なし
中里介山『大菩薩峠』の机龍之介のような異色のヒーローは日本独自の庶民感情から生まれたヒーロー像だとの批評がある。日本の庶民は遠大なビジョンなどもたず、その日暮らし、今目の前にある物事をひとつずつ取り組んで生活し、気が付くとずいぶん進んだことに気付き、手近な目標を変更していくのだ。自分には将来構想がないことに後ろめたさがあったが、なんだ、そういう人生の送り方している庶民が多いことを知った。私にも漠然とした楽したい、経済的余裕がほしい、いい女がほしいという目標にもならぬ願望はあるが、さりとて前へ進まず、ただその日暮らし、でも経済的名誉的願望があるから、こんな雑文を書いているのだが、こんなもの書いて出版しようとすれば、なけなしの自己資金をふんだくられ、ますます苦境になるだけなのだ。資本主義社会において持たざる庶民はあがけばあがくほど、あり地獄に落ち込むばかりなのだ。

  傷つく
傷ついてトラウマになっているのに、傷ついてない振りする人、せめて平気な振りを周囲に示して倒れそうな自分を保つのだ。一種の虚勢だ。傷ついた自分をさらけ出してしまえば、社会から葬り去られる、自分が再起不能になるという不安感があるのだ。

  せこい
マスクを洗って使うなんてせこい性格。

  リモコンの発明家
リモコンの発明家のアメリカ人がつい先日亡くなったそうだ。この人便利なものを作ったはずなのに、生前、人類を怠け者にするの、不健康にするのと言われたそうだ。まあテレビやビデオデッキには必ずリモコンが付いているから随分儲けて富豪になったのだろうから、そのぐらいの不評はいいかと思うが、リモコンでごちゃごちゃ言われるぐらいなら、原爆やミサイルを発明したらもっと言われていいはずだ。車だって発明されてから、いったいどれだけの人が交通事故で死んだのやら。電車だって飛行機だってそうだ。ちなみに原爆を発明したとき、「これで人類はおしまいだ。」と感じた科学者がいるように、この人も便利なものをやっと発明できたと思った反面、虚しさも感じたかも。文明の進歩は人類の怠惰と滅亡に近づくのはやむをえないのかも。

  ポルノ画像
男は写真集やビデオのポルノグラフィを見ながら一発やる。女はいやいや義理でつきあう。まさに義理マン、女は事が済めば、いやそうに舌打ちしてさっさっと服を着て家事へ、男は後朝の別れどころか、終わったあとの満足感を打ち砕かれ、不機嫌になる。男は女のことを愛してなんかいない。男の願望は、一度でいいから愛する女と思いっきり一発やりたい、いや阿部定と吉のようにとことん性愛にまみれたいのだが、かなえられることなく人生が摩滅していくだろうことは感じている。あーあくそったれ人生。

  偏食とわがまま
個人的な推察だが、どうも偏食のひどい人と、わがままで頑固な性格の人には相関関係があるような気がする。会社の人事部の人は人事考査のときに、当該者の偏食具合を参考資料にするとよいのかなと思う。偏食の人は柔軟性が乏しくわがまま、頑固な面が目立つかもしれない。

  家電販売店にて
家電販売店にて、店員に値切り交渉を持ちかけたら、ぷいと横を向いて二度と相手をしてくれなくなった。さびしいね。切り返してきてほしいのにね。
たとえばこんな風にね。「お客さん、さすがお目が高いね。この製品に目を付けて、価格を聞いてくるなんてたいしたもんだね。こちらとしてもこの製品ぜひ勉強させていただきたいのですが、今売れ筋で、しかも内容が濃い品物でメーカーでも値引きさせないんですよ、こちらとしてはなんとかしたいんだけど、この価格が限度なんですよ、お客さん勘弁してくださいよ。それにしてもこの価格でこの内容は、この値段で十分安過ぎるぐらいなもんですよ。内容はばっちり、最高じゃないですか、ですからお客さんもお目を付けたんですよね、間違いなくいい製品ですよ。この内容でこの価格は他にないですよ。絶対お買い得間違いなしです。今ならこういうサービスをお付けしときましょうかね。またこの製品の内容のいいところは一つ目には○○○ですし、二つ目には△△△で、三つ目には□□□ですから、また………という点もあり、素晴らしい製品なんですよ。ですからこのお値段になっちゃうんですよね。」という具合にだ。客を持ち上げながら、値切り交渉をやんわりとかわすなり、引き受けるなりして、製品PRをしっかり行い、客の買いたいという気持ちを高めていくのだ。こうしてほしいのに、家電量販店や静岡の電気店では、値切り交渉は絶対嫌悪らしい。風情がないね。だめだこりゃ。
  
  人類滅亡
人類なんて滅亡しちゃえばいいんだ。どうせいたっていなくたって、人類にしてみれば一大事でも、宇宙全体から見ればどうでもいいことじゃない。恐竜だって滅亡して迷惑だろうか、恐竜が滅亡したことで哺乳類が、人類が栄えたのだから、恐竜が滅亡して人類にとっては万々歳じゃないですか。えいどうせなら人類なんて皆殺し、絶滅しろ。そうすりゃ、自殺がいいやら悪いやら、他殺がいいやら悪いやら、暴力がいいやら悪いやら、犯罪がいいやら悪いやら、存在も認識も、そんなこと全てどうでもよくなるというか、全てなくなっちまうのさ。ざまあみろ。
世の中どうしてこうも腹立たしいことが多いのか、あっちもこっちも憤懣やるかたない、いらいら、うざったい、こんちくしょう、

  収集
変な物をコレクションしている、それは爪と耳垢、どのくらい経つとどの程度たまるのか楽しみ、アナログ写真フィルムの空ケースにためている。爪は5~6年かかってケースの半分に満たない。これを満タンにしたら水酸化ナトリウムを入れてカルシュウムとしてどのくらい溶けるか見てみたい。耳垢はどのくらいの期間でどの程度たまるのやら、私のような耳穴がだれる遺伝体質の人の量を概算してみたい。ふふん、所詮こんなことでも楽しみのひとつにでもしなけりゃ、人生への不平不満をやわらげられない。

  ストレス解消
あー好き勝手なことをしているはずなのに、どうしてもいらいらがつのる。いやでいやでたまらない。どうしても心落ち着く平安が得られぬ。それは人生そのものに不満たらたらなので、人生の小手先をごまかしても納得できないのは、分かっているが、だからといって、どさきゃいいのか、離婚して、仕事もやめて、じゃどうするんだ、結局死ぬより他ない、くそばか人生。どこまでいってもくそばか。

  愛国心
このところ学校教育では「愛国心」とやらの論議がかまびすしい、というより政治面からごちゃごちゃ言われとるというべきか。教育側から客観的広い視野での論議は低調そうで、教育というより政治からの圧力でそうなっただけのことか。
まあそのことは置いといて、愛国心といきなり言われても何のことやら、この字のイメージからはカーキ色の装甲車みたいな街宣車で日の丸や菊の紋章のデザインの車体で、演歌がんがんかけて、頭ぶっとびそうな大音量で通り過ぎてくのを浮かばせる。つまりこの字のイメージははなはだもって迷惑千万な極右翼が浮かぶに過ぎない。愛国心ではいかつく固いイメージなので、地域のイメージ、まあ愛郷心というか、ふるさと思いというか、そんなんイメージすると、いつも道路をきれいにしてるおばちゃん、ごみ拾いしてる爺さん、あるいは郷土研究好きなおじさん、そういった地域の何でもないおじちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんが浮かぶんや。
また02年日韓ワールド・カップ・サッカーのとき、旧中津江村に合宿したカメルーンを応援したおばちゃんたちが浮かぶ。当方、清水ではロシアが合宿し、日本とも対戦したが、合宿先の清水ナショナル・トレーニング・センター関係者はロシアを応援したのだ。中津江も清水トレセンも本当は日本を応援したいけど、日本に来た彼らの心細さを思いやったり、彼らへのおもてなし意識、彼らの人がらへの共感などで、彼らに真心込めて応援したのだ。一種の「義を見てせざるは勇なきなり。」だ。こういった人たちの思いが愛国心じゃなかろうか。変てこな矛盾した話ではあるが、人を思う心あってこその愛国心、そしてその愛国心は状況によって他国を応援することもありうる。グローバルなものなのだろう。あの街宣車、サッカーのフーリガンなどは、少なくとも愛国心とは違うものだろう。
それにしても右翼の街宣車に愛国心なんてないのだろう。あんな大音響で一般市民を威圧、迷惑を掛け、自分たちが裏の社会の圧力者であることを表社会に知らしめるための恣意行動、街宣車の名の通り宣伝道具で商売上の営業活動の一環なのだろう。だからあえて迷惑を掛けるのだろう。「愛国心」を説く前に、全国の街宣車から愛国を消した方がよい。ついでにあの菊の紋章や「皇」の字も皇族のマイナス・イメージだと思うから、宮内庁が民事訴訟を起こして全国中の右翼に菊の紋章と「皇」の字の使用差し止めを請求したらいいとちゃう。

人生どんづまり
 落選した。別に自信があったわけじゃないけど、数十点もが入賞や佳作になるなら、一番下の賞ぐらいにはなるかな、なんて思っていたら、単なる落選、数十点もの中に入らなかった。どうってことないわけね。
ついでに出版元の「新風社」が民事訴訟で訴えられた。全国の書店に並べるといわれたが、実際は十数店舗だったからなそうな。私の見積もりのときは、全国直営の十数店舗に並ぶとのことで、共同出版で私の負担額は百二十七万でどうかなとのことだった。その額からいって、全額自己負担の完全自費出版と変わらないというか、共同出版というのが単なる建前だろうと判断した。

体の硬さと心の柔軟性
 以前「偏食とわがまま」の相関性について書いたが、今回気になるのは、体の硬さと精神的柔軟性である。ある自力整体の活動家から、そのようなことを言われ、自分なりに自分の知っている狭い世間を観察するに、どうもこれも相関性があるような気がする。体の硬い人は心も硬いことが多いようだ。柔軟性をもつにはまず股関節を柔らかくするに限る。例えば座禅は股関節をやわらげ脳波の中のα波だかβ波だかを出し、気持ちをリラックスさせるのだそうだ。体が硬いと心もカチカチに固まり気持ちが楽に広がらないようだ。

 どさきゃいいのさ この私
爆走してくる車の前に身を投げれば、そのときは痛くても、あとは楽になれる、そんな気がする。あー、ここから飛び降りれば、あの上の物が落下してくれば、といった具合に、人生とおさらばすれば楽になれる、そう思える。何でこういやいや生きなきゃならないのか、しんどいね。人生に満足できず、不平不満ばかり。無責任にのう天気にやりたいことだけやって生きていけたらいいのに。
 
   愛のない男
 愛のない男は 愛していない家族のもとに帰るが 別にどうってことはない ただタダで泊まれるから帰っていくだけで 別の愛する女ができたら そっちへ行きたいが 金はなく 度胸もなく ということは女なんて 逆立ちしたって 清水の舞台から飛び降りたって できるあてもない たんなる幻想 淡い夢 おじさんにもなってこんな調子じゃ 浮気ひとつもできない でくのぼう ただうつうつと日常を やり過ごす彼には 何も変えられない そして愛していない家族には 問題だらけ うつ病 強迫神経症 引きこもり 家庭内暴力 愛のなさが 片っ端から 問題を吹き上げさせるのか 無責任な彼としては 辛気臭くなるばかりなので なるべく家庭から離れたい 目をそむけたい 愛していない他人のような家庭に口を挟む気にはなれない 自分の所在無さ 家族観の無さの所在無さ 別に生まれてきたかったわけじゃない などと言い訳したって 責任逃れはできないだろうに 家族の問題は なぜこうも 重苦しく 逃れたくなるのか むなしくなるのか 義務感ばかりで あーどこかに 愛の巣ってのがあって そこに帰れるという まぼろしにすがりたい 彼の心情(真情)は 無責任に ノーてんきに お気楽 極楽 にこにこと ただ愉快に その場しのぎに 生きて 人生の問題何もかもすべて 先延ばしに ひたすら先の先の先延ばしにして 死んでしまえば あとは野となれ山となれ 被告人不在につき 打ち切りにあいなることが一縷の望み どうぞご勝手に 彼の遺体にでも つばを吐きかけようが蹴飛ばそうが生ごみとして捨てようが けっこう毛だらけ 猫灰だらけ けつの周りは くそだらけ 粋な姉ちゃん 立ちしょんべん 人生なんてくそくらえ 

  家に居つく猫みたいな男
 別に家にいる女が好きなわけじゃない。ただ飯を炊いてくれる飯炊き女という便利な同居人に過ぎない。猫にとって家人が単なる便利な同居人に過ぎないのと一緒。猫同様、家族が一切別人になったとて、何も困らない。家がそのままなら、それで安定しているのだ。 

  すてごま
 どうせ自分はすてごま、使われるだけ消耗され、利用価値がなくなれば、ポイ。いいときだけ持ち上げられ、都合が悪くなれば切り捨てられるだけ、だからご用心遊ばせ。あんたの希望なんてどうでもいいのさ。利用できるときだけ聞く振りして、あとは一切合財お任せコース。だめになったらあんたのスペアに代えるだけ。

  格差社会のテロ
 日本は1970年代から90年代初めまで9割中流社会といわれた。そんなのうそでたらめだと思った。それで正しかったのだろうが、今90年代末から00年代は、もっとひどい。格差社会といわれ、一部の裕福層と生活保護世帯並みの収入層がどんどん増えている。社会はさらに不安定化するだろう。社会の富の再分配が何かおかしくなっている。富をすべて公平にしろというのではない。ある程度の格差はやむをえない。富をすべて公平にしようとして一部の権力者が甘い汁を吸っただけで、大多数は意欲喪失と不便を強いられた共産主義の失敗がある。でも人がまじめに働いて得た収入が生活保護を下回る、家族を養っていけないではあまりにも間違っている。持つ者はさらに肥え太り、持たざる者は生き血まで搾り取られ消耗される世の中だ。
 そんな世の中でふと不安になるのが、アルカイダ等の中東イスラム教テロ組織だ。今彼らはがちがちのイスラム原理主義で、アメリカを白人社会を工業先進国を、その文化を敵としている。アメリカ、西ヨーロッパ、日本等はイデオロギーの敵なのだが、これらの国々は移民問題、失業問題、格差社会問題を多かれ少なかれ持っていて、そこが国内のアキレス腱だ。イスラムテロにしてみれば格好の攻撃材料で、国内の最下層にしてみればテロは一発逆転のための頼もしい味方である。今は問題が別でクロスしないが、さらに問題が深刻化すると最下層とイスラムテロが結託しかねない。
 確かに格差社会を努力したから報われる、報われないのは、すべて自業自得のごとき主張し格差社会の是認をする経済人たちは、いっそテロの餌食になってもらうのもやむおえなしと思えることがある。日本に革命はなかったが、戦国、江戸期に「百姓土一揆」があり、大正期には「米騒動」があり金持ちや権力者が狙われ血祭りにあげられたのだ。日本人もかようにただ自業自得で我慢しないのだ。

・欲求不満
 ボクはきっと死ぬまで欲求不満だろう ブスブスいぶったモヤモヤイライラを ただ抱え込んで くたばっていくのだろう どないもこないもありゃしない ただ悶々と ジリジリと その日その日を 気を摩滅させながら解消し得ない いらだちを さらに抱え込んで 人生は重き荷を背負うて歩むが如しである このくそったれ 

・不幸の連鎖 
 児童虐待など家族、親子で連鎖していきやすい。絶対的に連鎖するわけではないが、そうなりやすいというのが、関係者の感想だろう。アルコール依存症の親を持つ子が、結局またあれほど嫌がった依存症の伴侶や家族を持ってしまうのだ。同じど壷にはまっていくのだ。自己満足度が低い同士、類は友を呼ぶ如くくっついちゃうんだ。病人持ちの家族が、また同じような病人持ちの家族とくっついちゃうんだ。どこまでも暗い者同士互いの傷をなめ合うためくっついて、さらなる不幸の種を撒き散らすのだ。不幸はどこまでもころがる雪だるまのように肥え太り、家族皆を蝕んでいくのだ。浜の真砂は尽きるとも、この世の不幸の種は尽きまじ、である。どこまでも呪われたらええねん。すべて食いつぶすまでやったらええねん。でも一部をうまく生き残らせ、見えぬアメーバのように陰からこっそり触手を伸ばし気付かぬうちに獲物を侵していくのだ。まるで癌のように。未来永劫少しずつ生き血を吸われていくのだ。神は人類を呪うために生み出したのか。神は悪魔なのか。

精液
 人生は精液を出すためにあるのか 欲望の処理でヒーコラヒーコラ 心から愛情から肉欲を満たされ安堵してみたい 愛情なく 肉欲は満たされず イヤイヤお付き合いの 義理マン 何とか終われば それでよしとするしかない 他に愛情と肉欲を満たすものを探すしかない 

   人生の目的
 そうさ人生は精液を出すためにあると割り切ってしまえば早い 女におぼれる快感 
肉欲の悦楽 

   人間の生きる意味
 幼児が一心不乱に泥団子を作ることに夢中になる。大人がきれいにうまく作った泥団子を与えても、すぐそれには興味を失ってしまう。自分で試行錯誤して作らねば納得しない。またある幼児は、高い遊具に上りたがる。泣いても躊躇しても、いつかは上ろうと意欲を見せる。何度も何度も試行錯誤し少しずつよじ登っていく。そして上りきったときなんとも満足した笑顔を見せる。
 これこそ人間の生きる意味。人間の存在証明。人間の感動。
 でもそうは思うけど、それだけじゃ、生きていきづらい。どさきゃいいのか、この私、夢は夜開くのか、開けるもんなら開いてみろ、  
どこぞの誰かが言っていた お前を守るためとか これからお前たちを守ることが人生の目的だとか 自分にはそんなものない いや家族はあるが 守る気にならないというべきか ただ欲望のはけ口がほしかっただけ *マルキ・ド・サドにとって他人は欲望の対象に過ぎない 深沢七郎「別に生まれたくて生まれたわけじゃなし、人生なんてひまつぶしさ」 その欲望さえ果たせず いつも……

・なんで生きるのか
 性欲と愛情を満たしたいが、それはまったくかなわず、ちびちびあれやこれやで性欲を処理する処世術、しかもこれには貧しい私にとって多額の金がかかる。しかも愛情なんてないから満足するはずもなく、かといって義理マンでは失望するばかり。小人閑居して悪事をなすの例えどうり、何事もなせぬでくのぼうは、やることなすことみな悪事となりて、生きれば生きるほど、もがけばもがくほど、けがれるばかり、不満を募らせはけ口を求め、求めたはずのはけ口でさらなる不満を募らせ、ただひたすらド壷にはまってシャンシャンシャンである。どうせ墓穴掘ってくたばってきゃいいんだ。
 このところトレーニングを強化すると途端に体が故障する、もうちょっと強化したくても、体が老化していく、記録は地滑りのように雪崩落ち、とどまることがない、それでもやっていることで、この程度の落ち込みで済んでいると思うしかない、しかも落ちた体力で無理するとさらなる怪我を背負い込む。泣きっ面に蜂というやつだ。やればやるほど、もがけばもがくほど、ド壷にはまるばかり、一向に日差しは見えない、いっそやめろということか、でもやめたとてなんになるというのか、生きる迷宮に閉じ込められ出口なく右往左往させられる、まことに善き日である、とほほ、なんでまたこんな糞みたいな人生歩むのか。

・人生の目標
 人生の目的は何? 精液を出すこと、
モットーは? いかに無責任に のう天気に いい加減に テキトーに 享楽的に その場しのぎに 生きればよい クレージーキャッツ植木等の「日本一の無責任男」こそ理想 本当の彼は 真面目な男で 随分この役に悩んだようだが 私には理想 自堕落に どうでもよく ラクすることばかり 考えて あがいてあがいて 地べた這いずり回って くたばっていくのさ ちょうど虫けらが 歩く人の足元に出てきて アッと思うまもなく 
一瞬で踏み潰され 地面のシミとなり 何の思い入れも ストップモーションもなく 西部戦線異状なしより あっさり場面転換 歩き過ぎる人 何事もない 場面の連鎖 画面に足元なんて 映ってなくて 虫がいたことも踏まれたことも 誰も彼も、歩く当人も分かってない 死なんて地面のシミよりアパシーだ 

・今年の目標
「飯炊き女 死ね!」と1日百回は言ってやる なにかにつけてアラ探しては叱責してやる つねにサディズムを 

・人生後悔
 後悔ばかりが人生さ、そんな声は聞こえないけれど、私の中ではこだまする、あれやこれやで、後悔ばかり、蒸れたちんちんの周りがかゆくてぽりぽり、なせばなるなさねばならぬなにごとも、そんならこといわれてもどさきゃいいのさこのわたし、ゆめはよるしぼみ、せいえきのはてにゆめはちる、サイナラーとアニメのふざけたやつがハンカチふって、はなみずたらしてどっかいっちまいやがる、酔いたくても酒を飲む気にならず、精液を出そうとしてもあそこはしぼみ、「死ね」と部屋でわめいても聞く者なく、打ち込んだ文書はファイルアクセス権エラーで消滅、ふざけんじゃねえと、机をたたきパソコンに向かって喧嘩売ってなんになる、どうせこんなのが人生さ、後悔ばっかり、やり直せるものならやり直したい、愛する人と結ばれたい、あんなくそばばあはもうけっこう毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりはクソだらけ、こうもこう後悔ばっかりでこうかいこうかい改悛俊会邂逅後悔で航海にはならない、こうかいそうかいああかい、木魚たたいて何無妙法蓮華経ぽくぽく、体の周りを爪でかいてこうかいこうかい、精液を出すところをミスって、人生こんな始末、他にもあれやこれやの不始末の数々、取り返しのつかないことばかり、自分の人生自分でつぶしてきたともいえるこのあほらしさ、精液はどこへ飛ぶ飛ぶたれ落ちる、あせるこたあないって、そのうちおむかえがやってきていやでもなんでもこの世とオサラバさせてくれるってさ、一度生まれてきた以上いつかは必ず死ぬんだから、どんなくだらない人生にも強制終了させてくれるんだ、あせることなくおむかえはくる、ああせめて可愛いあのこの中に精液出して、身も心も優しい性欲に満ち足りたい、はかない夢か、居眠りよだれ、

・理想の父親像
 娘のところにひねこびたうすら寒い姿で現れ、「悪いなあ、今度だけでいいから、ちーっと小遣いくれないかなあ。」と卑しい顔して、物乞いする。「いったい何度せびれに来れば気が済むというの、今度こそこれでおしまいにして、あんたなんか家族を捨てて好き放題勝手放題な生きかたしといて、何で今さら金だけを欲しがるって言うの、あんたなんか父親じゃない、もうとっくに赤に他人よ!」と言われ、「すまねえなあ、今度だけだよ、今度こそこれでおしまいにするから。」と答え、「いつもそうじゃない。その無責任さ、口先だけの言葉ばかり、何一つ本当のことなんてありゃしない。あるのは卑しい根性だけ、あんたなんか死んでしまえばいい。」とさんざんののしられ、それでもうつむいてうすらばかな表情して、金をくれるのをぼんやり待つ。娘は結局、金を渡し、すぐに背を向け泣きじゃくりながら行ってしまう。父親もそそくさとその場を去る。おー、これこそ理想の父親像、ダンテもソクラテスもヒポクラテスもアルキメデスもミルトンも凌駕しない最低最悪極悪非道外道なる理想の父親像。人類なんてくたばっちまえ。

・とある国のとある法令
 不景気で働き口はなく、その国は国民全体をとても養っていけないことが分かった。このままでは国は転覆だ。そこでその国はどうしたっかって、法令を作ったのさ。
その名も「自殺奨励法」「殺人奨励法」。自殺したらばあとの葬式費用出します。人を殺したら賞金上げます。ついでに3食昼寝つきの快適な刑務所暮らしがあなたを待っている。殺されても香典たくさんあげます。葬式費用肩代わりします。さああなたも一刻も早く天国へ夢のパラダイスへ、憧れの地、愛と勇気と正義と平和のすてきなすてきな極楽浄土へ、あなたのおこしを首を長―くして、お待ち申しあげております。さあさいらっしゃい。覗き放題見たい放題今ならジャンジャン特出し丸見え、鼻血ドバッーの出血大サービス、本番中出し3連発、あなたを極楽に連れてっちゃう。いくいくアヘアヘ、もっと突いてー。
その結果、養えない余り物の国民はいなくなったが、エリートもいらなくなった、派遣もパートもいないが、正社員もいらなくなり、会社も無用の長物、エリート自ら動かなきゃ、何もかも誰も彼もいらなくなった社会とやらは動くこともなく社会もいらなくなった、だからエリートもいらない。みんな生きてる必要もない。さあさ先を争って一刻も早い成仏をお待ち申し上げております。さあ今すぐ夢のパラダイスへ飛び立とう。ヘド吐き、モゲ吐き、コーマンタレブー、スカピー、国滅んで墓石はあるやらないやら、墓穴掘れ掘れ、ココホレワンワン、オカマホレホレ、野グソ、タレタレ、昔なつかしウンコのにおい。

・理想の職業? 将来の夢
 そりゃ子供の頃あこがれていたのはパイロットやプロスポーツ選手、芸能人などだったけど もっとも身近であこがれたのは
「ご隠居さん」 学校に行かなくていい、勉強しなくていい、働かなくていい、でもネンキンとやらの小遣いがもらえるらしい、こんなうまい話身近ではこれくらいしかない。
何もしなくていい代わり、文句を言われるのは我慢我慢、今のような核家族世帯より二世代家族が多かったから、その家にはたいてい息子の嫁さんがいた。その嫁たちは、「あのくそじじい、孫の世話をするじゃなし、何もしないで、昼真っからぷらぷらして、パチンコに行っちまいやがる、ネンキンもらったってこっちには1銭もよこすわけじゃなし、まったくしょうがないじじいだ。はやくくたばっちまえ。」と陰口をたたかれる。でも当の本人は平気な面して好き放題。
 また別の隣のじいさん、陶器作りが趣味で自宅庭に窯を作ってしまった。それで我が家で壊れた陶器でもあろうものなら、うきうき頼まれてつなぎ合わせて再生してしまう。壊れた陶器を接着剤でつなぎ合わせたとて、熱や衝撃に弱いことは幼い僕にも分かること。多分焼き締め直すのだろうか、ガッチリつなぎ合わせてあり、欠けたところは粘土を入れ直して補修してある。僕にはそれが魔法のように思えてすばらしかった。
 でもその家の嫁さん曰く。「じじいめ、みすぼらしい茶碗直しなんかしやがって、隣近所の茶碗直しまでして、まるで乞食のような物乞いじゃないか、私ゃ恥ずかしくって世間にでられない」と大激怒。壊れた茶碗がピッタリつなぎ合わされ直るなんて今ならさしずめエコだ、もったいない精神だともてはやされるのだろうが、当時は高度成長期、貧乏くささから脱却することが当たり前。つぎはぎだらけの茶碗なんて貧乏くさく見えたし、それで何がしかの謝礼をもらうじいさんを物乞いに感じたのだ。しかもそのじいさんの再生したどこぞの茶碗がすぐ壊れたとかで、クレームが嫁さんの耳に届いたので、なおさら大激怒になったようだ。嫁さんは我が家へも来て、「茶碗直しなんか頼まないでくれ。」とか何とか言って行ったはずだ。
我が家のひび割れているのにがっちりしているその茶碗が好きだった。でもみっともないとか縁起がよくないとか言われ結局捨てることになった。
 てなわけで、嫁さんに大不評のデメリットはあるが、ご隠居さんこそ最も身近な将来の夢。

・神よ人はなぜに不幸を背負うのか
 うつろな少年の瞳、彼の前には台所の包丁で刺され、血まみれでこときれた父の姿が、その横にはあざだらけの母の姿が、アルコール依存症で暴力ばかり振るう父に止めをさした、少年の茫然自失、母を救う一心でこんなことに………
 三歳の坊やが狭い部屋で倒れている、彼の前にはすっかりなめきってきれいになっている釜が転がっている、母はとうに家を出、父も育児を放棄し数日前に家を空けた、残された坊やは、残りご飯のあった釜をなめてしのいだが、とうとう昨日息を引き取った、飢え死に………
 アンナ・カレーニナの冒頭、レフ・トルストイは、幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭の表情はそれぞれに違うというようなことを書いているが、幸福な家庭が似ているかどうかなんてことを知らない、だいたい幸福な家庭なんてあるのか、私はそのモデルを知らない、家庭イコール不幸、地獄なのだ、トルストイにしてからが、晩年貴族の生活を捨てようとして家族とすったもんだの不幸だったことは、リルケの訪問記に頼るまでもなく知られたことだ、
 世間によくある三面記事スキャンダル悲劇、トリュフォーの「隣の女」は隣家に越して来た夫婦の一方が、かつての恋人だった、焼けぼっくいに火がついた、互いに夫や妻、子供がいながら、密会を重ね、離れられなくなった、臨界点に達した時、女は抱かれながら男の後頭部にピストルをかざし、男の頭と自分の頭を同時に撃ちぬいた、道徳ではなく、理知でもなく、でもなんだかあるどうしようもない感情の発露、トリュフォーは見つめるよ、人間のどうにもならぬ感情を、人間らしさを、

・くそばばあ ぶっ殺したき 夏の終わりの熱帯夜
・義理マン妻の背中 AV見つつ一人イキ もうはずす体勢の 冷めた股間にそれでもしがみつき わが愚息 
・事終われり あと汁染み出し愚息を前に 呆けるクーラーの夜 
・愚息は果てれど 何かもの足りぬ 夜露に虫の声
・愚息にゴムバンドはめ やっといきし 秋の夜長
・くそばばあ ぶっ殺したき 陽春の生暖かき宵



些細なことがうまくいかないのが常々嫌

2023-03-12 17:47:04 | 詩、散文詩
・些細なことがうまくいかないのが常々嫌
 人生のおおごと それはたとえば仕事の一大プロジェクト そこまでいかずとも ちょいとした年中行事や関連業務にしても 天候や人間関係 ちょいとしたミスやら 果ては単なる誤解や たった一言の連絡ミスでうまくいかないことはある 
 生活にしても人生の一大買い物で家を建てたら思惑と違ったなんてことはある
 結婚相手にしても 美男美女の実業家、タレントなんてわけにはいかず 身分相応に ほどほどの庶民同士でくっつくとして それでも相手がほどほどに誠実なら まだましどころか それさえ理想かも くっついてみたら 相手は大酒飲み 浮気だらけ 家事嫌い 仕事嫌い 責任放棄 なんてのが当たり前 相場ときてる 
 人生だ生活だのの おおごとは うまくいかないのは 当たり前 何とかあきらめ 妥協するとしてもだ 何でたかが日常生活の あれこれまでもが 生活を人生を じゃましやがるんだ こんなにも 不快な気分にして あれこれ手間をかけやがって 私をバカにしてるのか 生きるな 生活するなと 言いたいのか 
 ほら日常生活の些細なことがうまくいかないってあるだろう 
 スプーンを落としちまうなんてよくあること しゃーないから拾おうとしたら テーブルのしょう油ビンは倒れ ビンを押さえようと伸ばした腕にミソ汁入りのお碗が当たり、ミソ汁ブチまけ くそもみそもいっしょならぬ やけくそ なんてよくある話 
 他にもあるだろう シャープペンの芯が折れて詰まって出てこないだなんだかんだで そんなことしてるうち 何を書きたいか忘れちまってる 
 パソコンの変換が変な字ばかり出てきて 正しい変換が見つからないで いったい何の文章を打とうとしていたか 分からなくなりパソコンぶったたいたら 文章がすべてデリートし 落ち込むばかり 
 余分な迷惑ばかり掛けられうんざりする 私は被害者だと言いたくなる 
 何 自分のミスだって そりゃそうだろうが 自分の不器用さだろうが 自分でわざとミスってるんじゃない ミスるつもりはなくとも ほんの不注意でこんな始末 手間がかかることはしたくないが 日常生活に疲れていて 余裕がないから よけいこうなるんだとは思うが なぜ天は味方してくれない よけい突き放す 私をいじめるのか あざ笑うのか こんな不注意だらけの私に 些細なことにいらだつ私に誰がした 天よ 私はあんたの被害者だ
 私はこの日常生活の些細な失敗が常々嫌だ 人生のおおごとは あきらめるにしても いや あきらめられないが あきらめた振りしなきゃ生きていけやしない どさくさまぎれのドサグレ人生 ドブネズミあふるるどぶ板人生 こんなに妥協してんのによう 私に迷惑掛けて 何の恨みがあるっていうんだ 何だてめえに不満でもあるってのか 不満だらけなのはこっちのせりふだ  
 スプーンだ しょう油だ ミソ汁だ 何でこんな些細な物が 言うこと聞かず 私を不幸にするんだ お前らに何の権利があるっていうんだ お前らは何で私の思いが分からないんだ これ以上なぜ私を不幸に追いやる 神とやらは なんでこんな生活の中に 私を放り込んだ 私は納得してない こんな人生や生活はまっぴらだ 
 ただお気楽に 無責任に 遊びほうけて安楽人生を送りたいだけなのに 人生の真理だ 日本一だ 世界一だのとは無縁で結構 詩の言葉の真実だ そんなもんどうでもええわ 真実の愛だ そんなもんも関係あらへん ほどほどのゼニに囲まれ ほどほどの美女にちやほやされ 無職で 親の遺産とやらで ほどほどリッチな生活をしたいのに 
 「虎の威を借る狐」で御相伴にあずかって 接待費とやらで飲み食いし タクシー・電車・飛行機をタダ券で乗り回す身分とやらで ぬるま湯人生を謳歌したい 
 (接待費やタクシー券、ましてや航空券をもらえるようになるまでに,どれほど苦労したか、この御仁まったく分かっとりゃせん だから貧乏人は困るんだよなあ、形だけねたむんだよな。―――の、つぶやき) 
 せめて年金暮らしの ご隠居暮しぐらい させてくんないか あー将来ムリかも 年金はまともにもらえるやら それより年金もらえるまで 生きていられるやら 
 何でこんなさもしい人生さえ まともな充足感もなく 日常の細々したことに ことごとく迷惑かけられ いじめられ 逆らわれ アップアップとおぼれおぼれのおぼろ月夜ならぬ しわくちゃ人生 このくそバカやろう せめててめーら 日常の細々したものぐらい 私の言うことを聞け 私に逆らうな こんなにも人生うらぶれてるのに いったい何でこうなるんだ 私は生まれてきたくなかったんだ 神よ納得できるように説明せよ 私はあんたを恨んでやる 

・小さなミスを恐れ、責任回避ばかりのしみったれた人生
 仕事で自分の義務、責務、責任を果たそうとする でもそれって 自分の責任がなくなるため 相手に・次の窓口に先送りするため 責任を誰かに転嫁するためなのか 小さなミスを恐れ 管理され 自分は小さな歯車のひとつ 謝罪を恐れ 責任回避に走り 自分の領分だけは 完璧だという演技まで考えといて ただ汲々と狭苦しい経済生活の奴隷たらんと 自分で生きてるんじゃない 自分は巨大な歯車組織の一つとして 生きてる間中 止まることも 逆回転することもできず ひたすら馬車馬として 焼き切れるまで回転させられてるだけ 

・人生を変えたい
 人生を変えたい だが 今さら 自分なりに 納得できる change of life なんて ありゃしない 本を出したとて 自費出版で 多額の自腹をきって 散財になっただけ スポーツやったとて 故障とジリ貧の中で 悔しさを肥え太らせるばかり ブログにあれこれ 好き放題書いたとて それで今のやりくりがついただけで 根本的な このイラダチが 開放されるわけじゃない 街へ出て なにがしかのお金でHしたとて その身の上話は なにやらの参考にはなるかもしれぬが 人生の何かが変わるわけじゃなし 恋をしたいと思うても 誰も相手にしてくれない あがけば あがくほど みじめになる あっさり人生変えるには自殺しかないみたい これしか方法ないことにがっくりくる 
 わびしい人生を 決して満足することなく 不快イラダチ不平不満タラタラで 這いずり回って お陀仏さ 私にできることは 天を呪うばかり くたばっちまえ 
 
・歯車都市
 海から見える地上には巨大都市、無数の大小さまざまな歯車が絡み合い回転し合い あまりの数の多さ、重なりの多さに 奥は暗く もはや見えない しかしその量感、質感から奥も全て歯車だらけなのは確かだろう それが鈍い音を立て 一定のスピードで回転している 全ての歯車が連結し合っているので 歯車の大小や歯の数によって スピードは変化するが 何の無駄もなく ただ 一律に回転している 近づいて見れば 歯車には何やら付着している 清潔で完璧な無機物金属の歯車にふさわしくない ぼろきれのようなものがついている よくよく観察すれば この歯車に吸い寄せられたり 落ち込んだり 服の端がつかまって挟み込まれたり 迷路以上に迷路そのものの歯車都市で迷子や遭難して えじきとなった人々の肉や服の残滓だ あっちこっちで人間がいけにえのように いともあっさり歯車にはまってミンチになっていく 断末魔の悲鳴も一瞬だけであとは回転音にかき消され残骸が歯についてるだけ 歯車集団はそんなことにお構いなくただ回転する 誰も彼もが歯車なしには生きられない 歯車の奴隷として仕えて生きるのだ 誰も歯車から離れようとしないで くっついていってはえじきになるのだ 歯車のいけにえになることを心待ちにしてすらいるのだ 歯車を故障させず ひたすら一定のスピードで滞りなく回転させねばならぬ 歯車の潤滑&クリーン・システムも完璧だ くっついたかすは 何箇所もあるそのシステムを通過したとき 涼しい顔してほこりをはたくように うすぎたない人間の肉や服を きれいさっぱり取り除いて 清潔な歯車になるのだ 歯車にとって 人間なんて どうでもいいのだ ほこりにすぎない 歯車はただ回っていたい自動律に従うだけ 歯車は人間をカスにして肥え太り量産されていくのだ 歯車は数を増やし ますます巨大化するのだ  

・身体をつぶす人生
身体をつぶしつつ人生をつぶしていくのが人生、生命維持活動のための大切な主要道具の身体を自らポンコツにしていく。精神とやら心とやら愛とやらを具体化するのも身体、その身体を良かれと思うなり、別に悪いとも思わずなりに、少しずつ壊していくのがアホの人生、偉い奴は身体をよくし精神とやらも充実させていくのだろう。何をやっても身体の元が間違ってると身体は誤学習ばかりで、神経だの精神とやらも壊れてく、間違いだらけの身体と精神、戻すに戻されぬ人生の損失、アホは何やっても間違いだらけ、その間違った馬鹿ばかりにお説教たれる一部のエリートとやらが威張るのが社会とやら、あーひねもすひねもす、のたりくたり九谷焼、お好み焼き、焼きそば、やきやき、やきもち、もっちっちいのもんちっちのもんもん悶えのアダルトビデオ、

・見せ付けたい
 かみさんの前で猫をぶち殺したい、そのさまを見せ付けたい、怒りに任せてこれが思いだっちゅうことを知らせたいが、どうせやるわきゃないだろう、怒りは沈潜し行き場なく、どこぞのよどみに沈んでいく、どぶのにおいをたっぷり染み込ませ、いつかバキュームカーが爆発するまで、そして爆発したとて、その種火は取りざたもされず、隠れた所でぶすぶすいぶし続くのだ、再び爆発するまで、そんなくだらないことを死ぬまで繰り返すだけなのが、アホに与えられた人生とやららしい、他にないのかね、
 そしてこんなこと書いたとて、なんになるのやら、アホくさ、死んじまえ 新自前 神事前 芯自前 染んじまえ しんじまえ チューチュータコカイナ

・テキトー
 人生の真実なんて悩めない、言葉の真実なんて悩めない、どこまでも深く思いつめるなんてムリ、ランボーのように言語の果てまで踏み込むなんてできない、どうせ何もかもテキトー、ほどほどに済ませ、テキトーな快楽に身を寄せ、ほっと一息つくことしかできない、その場しのぎの言葉と態度で、やりくりできれば、それで結構毛だらけ猫灰だらけ、仕事で疲れてて、さらに趣味でまで深く追い詰めるなんて、頭割れそう、ホドホドでいいにしてくれい、ストレス発散に何かテキトーにぶちまけりゃ、それでいい、人生テキトー、頭テキトー、人間テキトー、計画テキトー、どうせご臨終もテキトーさ、
 深く悩める奴もいる、人生の絶対なる真実とやらをつかむまで考え抜く奴もいるが、悩めない奴、考えられない馬鹿もいる、馬鹿は馬鹿なりに社会の底辺をゴキブリのように這いつくばって生きるしかない、人生怨み節をぶつぶつ独り言で囁きつつ、疲れて曲がった身体と心を引きずって、くたばるまで卑屈な快楽を求めても得られるわけでもなく、ただ右往左往のへなへな人生、ちくしょう、くたばっちまえ、

・アドリブ
 アドリブまたはインプロビゼーションといえば聞こえはいいが、その実、単なるその場で適当に浮かんできた言葉に過ぎぬ。その言葉が適切かどうかなんて、ある程度どうでもよい。私のこのイラツク思い、人生・生活への苛立ちを紛らせられればそれでよい。今ぶちまけたい何かが発散できるか否かが大切。なんでどうなってんだよう。なんだかいらつく不安、焦燥、怒り、不満、所在無さ、ああ何かが足りない。安定しないアンバランス。なんかをぶちまけたいよう。テキトーに生きていこう。

・さくら
 桜の花びらを撫で回す御仁。幹や枝をさすりまわす。とうとう肉棒をおっぴろげ花びらに突き立てる。ゆっさゆっさゆすりたて、身体をひくつかせ、いった。薄い桜色の花びらから白い液が滴り落ちる。そのうち花びらがすぼまり、御仁の肉棒を深く吸い付ける。御仁の悲鳴が響き、花びらから肉棒を引き抜こうともがいている。とうとう御仁の身体は離れたが、肉棒はなく、ニューハーフ状態だ。花びらが肉棒を食いちぎったのだ。幹や枝までピンクに染まりうれしげに悩ましげに樹木全体を悶えさせる桜。肉棒を食いちぎったことがうれしいようだ。なんという色っぽい立ち姿だ。

・ゴミクズ
 あっ、さて、私は、への役にも立たぬ「切った爪」や「ほじくった耳垢」をアナログ・フィルムのケースに溜め込んでいる。爪の方はケース一杯に溜めたら、薬品の水酸化ナトリウム等に漬け込んで爪のカルシウムが溶け二酸化炭素になるのを見てみたいという、漠然とした願望で、薬品を用意できるかなんていう具体性もない淡い気持ちで、ケースにしまいこみはじめケース一杯になったのだ。またまた耳垢は爪が収集されていく量の増加と比較してみたいような、耳垢ってどのくらいの量がある時期で出てくるのか試してみたいようなへんな気持ちをもち溜め始めた気がする。やってみて爪の方が早く溜まり、耳垢はいったん量が出たような気がしてもなかなか容量が増えていかなかった。爪の方は固体で硬く一定量がしっかりしているが、耳垢は薄っぺらく、しかも水分が消失し乾いていくと減量し、しかも隙間の中に埋もれていくようだ。隙間に埋もれていくのは爪も同じだが、耳垢に比べればいいようだ。そしてどちらも私の人生のようだ。無用というかどうでもよいごみだ。そこに哀愁がある。つげ義春の漫画に切った髪の毛や川原の石で一儲けしたいというストーリーがあるが、単なる川原でそこで拾っただけの石を売ってる石屋みたいなもんか。でもそのイメージを具体化した漫画は彼の代表作として竹中直人が映画化もした傑作。私のフィルムケースはくず。私は変人。私の書いたもんも川原の石ころ。フェリーニは「道」で石ころを用い老荘思想の無用の長を説いたが、やっぱりそこらの石ころは石ころに過ぎぬ。無用の人はそれでもすれっからした欲望にすがりつき、小人閑居して悪事をなす。

・私の性欲は他人の金儲け
 私の性欲はどこの誰とも知らぬ者たちの金儲けのためのカモに過ぎぬ。金だけをむしりとられ、むなしく悲しい思い、内側にやり込められた怒りと欲望を溜め込み、やるせなさを引きずり、わびしく生きながらえるしかない。こんな風に欲望を安全安心して発散させることもできず、うろたえるばかり。いっそ飾り窓のある国に生まれればよかった。

・私が金持ちなら
 私が金持ちなら自分でパソコンなんて打たない。自筆殴り書きの下書きメモを手渡し、パソコン打ち秘書に全部打ち込んでもらう。自分でHサイトでも見たいときは、秘書に付きっ切りで操作を習えばよかろう。パソコンの面倒くさいことはすべて秘書まかせ。

・死ねば
 死ねばすべておさらばさ、後悔、悔しさ、恥ずかしさ、怒り、憎しみ、怨み、わびしさ、悶々、欲求不満、不平不満、ストレス、苦痛、責任、何もかも、生き恥さらしたって、数十年、長くたって百年だ アルツハイマーになれば、初期は苦痛でも、そのうち気にならなければそれでよし 
 でも 生きて自意識ある限り、このどうにもならぬ思いを抱えていくのはなんともやるせない 少しでも気を晴らさねばやりくりつかぬ ときには気が狂いそうになる このあらぶる心をどうにかしてほしい 少しは満足感、達成感とやらを味わいたい しかも苦労抜きでね 

・白梅
 日当たりのよくない、目立たない庭の片隅にある梅の木、以前は2月中旬にピンクの花を咲かせ、3月はじめに散るので、花桃だと思っていた。しかし年毎に咲くのが早くなってきて2月はじめに咲き出し、2月中に散るようになった。そこで紅梅だなと思えるようになった。そしてここ数年ピンクが薄くなりうす桃色となっていたが、なんと今年完全に白い花となって咲いた。へえ紅梅も白梅も同じ木で年によって色が変わるんかい。
 梅の花の香りはすがすがしく爽やかで奥ゆかしく最高である。しかも冬の冷たい大気の中でほんのり香らせるところがいいのです。
 黄色い蝋梅の香りもまた爽やかですがすがしくてよい。ただ蝋梅は梅ではなく別種の花の仲間らしいが、花といい香りといい梅そのもののようだ。
 庭の白梅はまるで私の前世の恋人のようだ。

・花の香り
 梅の花の香りが最高なので、トイレ等の消臭剤にもよいかなと思ったが、ふと考えると不幸な事態になりそうなのでやめたほうがよい。というのは金木犀やジャスミンの花の香りは甘くて強い香りで豪華だ。しかし以前よくトイレの消臭剤の香りとして使われていた。そこで本物の花の香りをかいでも、トイレをイメージしてしまい、いつも幻滅してしまうのだ。花の香りをかいで、トイレを想像するとは、文明病もいいところだ。

・何がどうするやら
 何がどうするやら 何が何して何とやら 何がどうでも何とやら 何はなくとも何とやら 所在無くもテキトー ホーホケキョの春ごこちのあんにゅい コーマンタレブーの高木ブー しらじらしらけて夜明けの白日夢 はなみずき はなみずたれて いずみわくよりみぞおちにみずおち しらじらしらけのどぎつい もうそうも もうそうちく あっかんべーのよいよいよいしょのおべっかばっかりのおいべっさんにーいちしのごのいわんともういっかいむかんとななんとしょうやとなにかようかいここのかとおかとおりすがりのももすがりすっかりももんともまんとごまんとしろごまくろごましろくろつけておしろいつけてつっかけかぎかけおでかけかけんとかけんがけんしてけんかしてかけんかしてとかしてがかしてとかりつくり ものぐるおしかりけん くるおしきいきざまなり 

・まっ どうにかなるさ どうならなくても 
 死ねば なんなんなくとも なんとやら ないないずっころばし あっちきてほい ほいほいほいのほいべっさん おいべっさんのおいごさんのおまごさんのおまんたばやしでほほいのほい ほいろはわいろ わいはわしでたかでなしのろくでなし ということは いちにーさんしーごーしちはちきゅうじゅう で やっぱりろくでなし ろくろくろくろをごくろうもせずろくにろくろくろくせずろくさずろくじぞう ろっくのでんどうろくはらたんだいはたんだいじゃなくたんたんたぬきのおきものさ あーおっぺけぺーのおっぺけぺー こころくるえる くーえるだんすでくーへるねるくそだす へだす なにだすこんだすにこんだすったらこんぶだし あじつけよいならこんぶだしかつおだししいたけだしのちんだしのかさはりせいしだし あーこりゃりゃ こんにゃくちんちん おったたず まけもまげも ぼっきふぜんのいーでぃーったらそりゃみっともないったらしょげちゃって きょうもおったちたくても いれるところは きょひのあなとじでやくたたず あーどこぞにいれてやわやわとたのしみたくとも いれるさやはなくとも したたるしろいつゆとはね ひとりさびしかんとは ぐそくは しょいたらかげんでしょんぼりねにつくさ だれぞ わびしかんこころとからだをふれあわさん あーへるへるへっこきばらのつっかえぼー でくのぼー ぼーぼーぼぼやま あんりゃまあ なんたらこというだでさ いうたらあかん ひめごとはふたりでね そんたらうれしいことあったらうれしい はるはぬれおちばにすぎけん このままくさりゆくじんせいかな どうたら したこんだか あたしゃ わかんにゃぁだよ へっぺけへべへべ へべのへべして へべって のたれじんたら それでよしないな あー しぬのいきるの かんがえるより はやいとこ あそこを いっぱつ ぬくのが さきだぞなあもしかいなあ ほげなこと やっとるさけえ  なにをやっても ばかたりなんかいな 

・なにはなくとも  
 なにはなくとも 次の展開なんもかんがえず 出たとこ勝負のアドリブ インプロビゼーション といえばかっこうはつくような気もするが ようするに その場しのぎの ストレス発散 
 ようよう でたでた なにがでた 白い栗の花 マロン・アンド・スクワーレル 
テン・サウザンズ・チャイルド キャワイイおなごのなかで 白い花咲かせたや
思いはあれどもあれたたず 肝心のおなごもなく 金もなく カミさんにせびれば 金はないと つっぱられ あげくに しぼんでくさい あそこを提示してよこす しかもいやそうに 舌打ち しかと おわれば さっさと その場を離れ 何事もなく 一人呆ける わたしゃ バカ むなしく AV画面 止めて そそくさと 次の日常生活の ひとこまに 戻りし 無反省 無自覚 無為無能 無体たらく 無常無理 無風無用 無意無識 
無縁無論 無限無尽 無線無賃無念 

     ・心の叫び     12、3、2
 心の叫びったって いったい 何を叫ぶのだろう 心って何、何を思ってるの? でもなんか 叫びたい つうか 何か こみあがってくるものがある 分からないけど 何か
ワアッーと 思いっきり わめいてみたいんだよ 
あー いっそ 歌が歌えたら いいだろうに うまく歌えりゃ 大きい声で 
ろうろうと ひびかせ 少しは つかえがおりるだろうに 
ダンサーなら 全身で踊って表現するのだろう 
とりえのない 私はとしましては こんなつまらない ちんけな文でごまかすしかない 
   


雑文の詩みたいなもの    どうでもいい

2023-03-12 17:44:48 | 詩、散文詩
    雑文の詩みたいなもの 
  どうでもいい 
天使に抱きしめられるとつぶれてしまうと震える心で告白した人
絶対なる美の前では人は崩壊するイメージ
美に苦々しく毒づいた奴
ありとあらゆる中に存在と言葉、絶対なる詩を見ようとした者
言葉は道具か目的か……ありとあらゆる詩…
でもそれらのことはどうでもいい、ただありきたりの妥協、適当に自分の表層の思いを
単なるストレス発散のため、何となく浮かぶよすがの言葉に、飲んだくれの
記憶にも残らぬ卑しい言葉、それらをただ書きつれば、こと足りると思うとしよう
飲んだくれが、店の勘定払わないと酒を出せないとののしられ、うらみつらみの捨てぜりふを残し、すごすごと店をあとに、いくあてもなし、
荒野をのっ切るのに憎悪が必要だと言われるが、それもなく ただ日々の安楽をのみ
求める しがない人生
渡り鳥の先頭の鶴が不快そうに首を振るようにきびすを返すでもなく ただ日々を
のらりくらりとやり過ごす
こうもり傘とミシンが不意に解剖用手術台で出会ったような美しさもなく
Aは吐き気のエーで、
Iは拒否のイーか アイーンのアイか、
Uは唸り声のウーか ねじくれ曲がった根性か、
Eは疲れた心と体を鞭打つためのアリナミンEか、
Oは驚きのオーか もうけなしの0か オマンコか
自動律の不快なんて どうでもいい

むなしい人生でも 死ぬわけにもいかず かといって生きたい積極的理由があるわけじゃなし 生かしてもらってるのは 使役奴隷だから しぼんだみかんみたいな家族養うため 
金稼ぐしかない経済生活 卑屈な根性で 屈辱に耐え 金稼ぐために働き その金を吸い取られる いや 吸い取られるために 生きて 金稼ぎ 資本主義を肥え太らせるための
エサでしかない自分 やれ真実だ 美だ 絶対だ そんなもん どうでもいい ただ 
安楽 お気楽 極楽に 好きなことだけして 生きていたい そのためには 小難しい
哲学はいらない 数億円の卑しい現ナマがあればいい でもそれを どこぞの 卑しい
経営コンサルタント会社社員とやらは 1ヶ月に¥100万、¥200万稼ぐのが どれだけ
大変か知らないから ど素人は困るんだなと いやみなしたり顔 精神的真実がダメなら
すぐ物質的利益に群がろうなんて甘いんだよ 
人生はひまつぶしだと答えてうそと感じる ガソリンやマッチ箱のように どうでもいいような臭い物だけれど 火気厳禁で いったん火がついたら おおごとで どうにもならないものだと感じるからだ 単なるひまつぶしより タチの悪い ハイエナみたいな奴だ
人生って

あなたに… 
私はあなたの業績や影響力に関心がある 人はいったい何歳で世界を動かせるのか 世界を変えられるのか その史上最年少は何歳か スポーツや戦争には未成年の最年少記録っぽいものはたくさんある 
1976年モントリオール・オリンピック、女子体操で歴史を塗り替えたのは 14歳の妖精、ナディア・コマネチ ただしプログラムを考え指導したのはベラ・コーチだ でもそれを忠実に実践し 究極の10.0を連発したのは まぎれもなく彼女だ
百年戦争 フランス救国のヒロイン オルレアンの少女 ジャンヌ・ダルク 17歳
島原の乱 天草四郎時貞 16歳 彼には黒幕がいたのでふさわしくないかも 
神童モーツァルト でも彼が作曲家として音楽史に名を残す作品は 20代半ば以降だ 
ボブ・ディラン 「風に吹かれて」は22~3歳だ
ポール・マッカートニーがビートルズのメンバーとして全英No.1になったのが20歳、全米No.1が21歳、音楽史を変えたのが67年『サージェント…』で25歳
織田信長 桶狭間の戦い 25~6歳
ナポレオン・ボナパルトが功績を挙げたのが24歳、将軍になったのが26歳 
フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』 16歳 でも小説の歴史を変えたとは言われない コレットの『青い麦』も
レーモン・ラディゲ『肉体の悪魔』16歳 『ドルジェル伯の舞踏会』19歳 でもこのところ 評価が低い
結局 20世紀の詩の歴史 とりもなおさず現代文学史を塗り替えたのは あなた 19歳
21世紀になった今も やたら取り上げられるのは あなた 
あなたなしには 現代文学 現代詩は語れない なぜ それほどまでに 高く評価されるのか たかが 19歳の若造が 書いたものなのに  
まるで現代芸術、人文学、現代文学のすべてを凌駕する深遠なるドグマとして扱われるのは なぜ
文庫本で読んでも既成概念・常識、偽善、自意識への怒りや苛立ちは分かるが 何を言いたいか具体的には?だ 解説書からして読まざるを得ない 
見者の思想とは 詩作とは 詩とは 言語とは  

アッパラパー   
 アッパラパッパッパッパー ピーパー ピーパラ ピープルプッパプーパー
シャズケ ナルケ マルケ サルケ カルケ アルケ タルケ ヤルケ ウルケ ラルケ リルケ レルケ リョルケ ショルケ ソーケ 
リズムやメロディをそろえようとするせこさ
P音連発 a行音 i行音 aruke音の連発 頭韻 脚韻 押韻 倒置法 
意味なしの音声効果 聴覚イメージ 架空のオペラ? ではない? 
文字となっての視覚イメージ 
海に溶けた太陽? ではない? 私は存在する? しない? 
言語は音声に化け意味を成し、別物に成りぬ
言語は文字に化け意味を成し、別物に成りぬ
音声は文字に化け意味を成し、別物に成りぬ
果たして意味をなしたやら ふーん
言語は音声にして文字にして何ならん
語は語にして語ならぬ語なり そは迷宮か
錯乱の振りして語を振り回し 語に振り回される語
語を発せんとほっし いざや何ならん 私は何なさん?
イザヤ・ベンダサン いざ便出さん いやくさい
しかし何ものかを発せんといたして 便の代わりに 語を出だす
それも手垢だらけの どうにもならぬ言の葉ばかり 
しか浮かばぬ 貧困イメージの 私かな
アー どうでもいい ただ 浮かぶよすがの 
ありきたり言葉や音声、文字で お茶を濁して
すたこらさっさ 二番煎じの人生を歩み
三番煎じにもならぬ 四番煎じの詩とやらの 
たわごと わいわい くやしまぎれの すてぜりふ
ならぬ ひとりごと 
赤面した不安を打ち消すため ふと口をついて
勝手にしゃべってしまっていた 恥ずかしい
ひとりごと わびしい 思いの かけらを
残さん 

・老化現象、更年期障害?  
 冬の夜、寝るときに靴下履いたまま寝られるようになった
以前なら足が温まるとムズムズと不快になり耐えられなかったのに
冬、手袋つけたままランニングして温まるとやはり手がムズムズ不快になりはずさざるをえなかったのに
 すごい暑がりで汗かきだったのに、ここ数年冷え性
冬、厚着して自転車こいでるとすぐに汗をかいてたのに、ここ数年、あまり汗をかかなくなってきた 
 物忘れ ド忘れが増えた こまごましたことあれこれを一気に覚えて一気にこなせなくなった アレ抜け コレ抜け いろいろ抜け 櫛や歯が抜けるように 寂しく中抜けする中古品 ポンコツ 
 頭が切り替えられない 回らない スイッチがさび付いたか 適応順応遅滞 
ついでに性欲も落ち目 

・詰めが甘い 12年3月 
 できる奴、出世する奴は よく言う 「詰めが甘い」 わてはどうじゃらほい 
しょっちゅう 詰めが甘いことだらけ それを直しもせず いけしゃあしゃあと 恥こいて生きてる できる奴から しょっちゅう 「詰めが甘い」ので 揚げ足取られては 恥かきっぱなしでも それでも平気な面してる振りして 何とかやりすごし のほほんと ひょうひょうとしてる振りして 悔しさごまかし やせがまんの 生き恥さらし 詰めの甘いことだらけの 哀れみの三流人生をこいてる こんな奴だから できる奴は近づいてもこない できる奴は 時間の無駄になる奴には関わらない 当たり前か 出世街道無縁の 無駄だらけのごみかす人生 できない奴は できそこないの 負け組み落ちこぼればかりで集まって わいわいいこう 詰めの甘いことだらけの 課題先送りの逃げて逃げての無責任ちゃらんぽらん その場しのぎの無計画人生 出たとこ勝負のリスク商売 
 理想はクレージーキャッツ植木等の日本一の無責任男、釣りバカ日誌のハマちゃんだね。出世も名誉も金もなく、うだつの上がらぬ、わが精液出し人生 これからも愚劣なる
生き恥さらし人生をするよ 別に覚悟もなにもなく その場でただ直面するだけの なんの準備もへったくれもない すべてアドリブの、いやさアドリブさえ効かぬ へっぽこ人生 ただシコシコ精液出すだけの あほたら人生、死ねばいっそいいのに それでも
生きさらばえている よくもまあ 恥じらいもなく 生きていられるものさ と陰口叩かれても どげんもできず ただボケーとしたふりして 恥らい隠し がまんがまんの 忍耐人生 忍耐なんて大っ嫌いだが どうすることもできず 傷ついても傷ついた痛みを知らない振りで ひょうひょうとしたふりして ごまかして うんざりしつつ 生きていくしかないさ あきらめだけが 人生さ  

・ちくしょう、くそばばあ 12.4.21 
ちくしょう、くそばばあ、てめえをひっぱったたいてやりたい このどうにもならぬ 
くそ人生への 腹立たしさに いらつく 思い くやしさいっぱい フコウばっかとしか思えぬ くそ人生への 悔恨 やりきれねえ 腹立ち紛れの くそ怒り やりきれぬ 思いを どこぞに 捨てちまえば いいやらだが 捨てもできず いつも むらむら ブスブスといぶしては 心を曇らせ すてばち怒りをやりきれねえ 憤懣やるかたなきいじけ虫思いで 苦虫つぶしてばかり そのうちすぐにまたブスブスいぶっては 心曇らすことを続けてばかり あのくそ女と一発やりたさに くっついて 一発やる気も失くし いらいらばかり つのらせ 自分で自分の人生と あいつの人生めちゃくちゃにして 無責任に 逃げたいばかり ああ新たなる一発やりたい女を見つけて 出直したい    

・野ざらし けっこう  ’12 4/29  
 野ざらし けっこう 毛だらけ灰だらけ 自分の遺骸が カラスにつつかれようが 風に舞おうが ぺしゃんこにつぶされ臓物が飛び散ろうがもう痛くもかゆくもないし、汚物の中に捨てられようが、臭くもなけりゃ、あとははやいとこ 腐りやすく 肥料にでもなるなら はやいとこやってくれだ ハイエナのえさでも、ゴキブリのえさでも もうどうとでもなれさ 墓なんざ いらない 捨ててくれ どうせ野となれ くそとなれ 
アボガドロの定理通り 宇宙全体のエネルギー総体は変わらないということで 自分の遺骸は 土に帰るって寸法さ どうせ宇宙で造られたものは また宇宙で再利用されるのさ 

・生まれ変わるなら ’12 4/29   
 生まれ変わるなら あの娘のブラジャーやショーツ ナプキンやタンポンになりたや 
あの娘の乳首や乳房にずっと触れていたい あの娘の股間にずっとくっつき あそこの香りに包まれ、おりものも受け止めたい  
 あるいは 女の子に生まれ変わり 可愛いコスプレして ど変態の性欲の限り 絶頂快楽に身をゆだねたい  

・窒息死したい ’12 4/30 
 若いおなごのぷりぷりのふとももに挟まれ割れ目の愛液ちゅうちゅう吸っておなごのむせ返るにおいに包まれ窒息死したい

・わては脳障害か ’12 4/29  
 のろまで 注意力散漫で 人と付き合うのが苦手で 人生や生活にいつも生きにくさを抱えている自分は脳障害か? 分からない 

・人付き合いが苦手で  ’12 4/30  
 おなごの愛人がでけんちゅうのは わての人付き合い苦手意識からかなあ そりゃフーゾクのおなごにも気い つこうて 結局わてが疲れちゃういうことはあるしなあ 勝手なおなごに振り回され 自分が 一発もぬけんと あきらめて 金だけ払うて とぼとぼ 出てくるゆうんは あるしな これこそやらずぶったくりや だからフーゾクでさえ わてには 気疲れすることが多いんや 
でもな なんとかして 愛人つくらな わては おかしくなっちまう さもなけりゃ かみさん ぶっ殺すよりほかないわ 自分の いらいらを おさめるには 愛人つくって たがいに 変態愛欲にまみれるより しゃあないやろ しかし 変態に会うゆうんは 甲子園に出るぐらい 難関なんやそうな どないしよう とにかく 交際希望を いろんなとこに 出すより しゃあないやろ 精液と孤独な気持ちを受け止めてほしい 

・中途半端な座右の銘   ’12 4/30  
 人生の合言葉は「復讐するはわれにあり」と言いたいが、結局中途半端な自分の人生への自虐の復讐劇、快の原則通り、不快からはすぐ撤退、ラクなほうばかりに逃げ込むだけ 
自虐にもなりゃしないし なにもかも中途半端で 宙ぶらりん いいさどうでも なるようになればいい といっても 結局が薬局 ほどほど どうにかして 痛いやけどは 負わないようにする始末 そう 復讐するはわれにありからも撤退だあ どうにもなりゃしない 座右の銘は「中途半端、いらいら、宙ぶらりん、無責任スイスイスーダラ人生、けっこうけだらけネコはいだらけ、いきな姉ちゃん立ちしょんべん、けつのまわりはクソだらけのホンダラケのソンダラケのモンダラケのコンダラケのオンダラケのトンダラケのノンダラケのヨンダラケのロンダラケのヲンダラケのポンダラケのボンダラケのゾンダラケのゴンダラケのドンダラケのコーマンタレブーだ」

・趣味  ’12 4/30 
 私の趣味、それはカミさんに悪口罵詈雑言で罵倒してやること、及び殴る蹴る突き飛ばす、物を投げつける等ドメスティックヴァイオレンスの限りを尽くすことでございます。そんなぐらいしか、自分の人生の腹立ちを紛らすことができんとです、自殺もできず ただテキトーに生きさらばえるしかない 無能の人生 いつかきっと カミさんを殺すかもしれませんが、どないもこないもしゃあないでしょう、なるようになればいいですわいな、わての人生はグチうらみつらみ、暴力、性欲、欲求不満、テキトー、イイカゲンに彩られてるちゅうこんですな、オバンザーイ、ああしんど、逃げたい 快楽だけに浸りたい 

・嫌なことするのが自分の人生  ’12 7/23  
 嫌なことばっか いやいややらざるをえないのが 自分のあほ愚鈍な人生 愛する人にも出会うことかなわず こーまんたれぶーな愚痴ばかり浮かべくる どうにもならぬ ごみだらけ人生 人生はいやなことばっかなのに カミさんさえ分かってくれず DVの果て 別居され ぐうたら バカ きちがい 自分勝手 のうえに 恥の上塗り どこまでやっても ばかはばか バカは死ななきゃ直らない やっぱ死ぬより他ないのに どうせ生きさらばえるしかないのは分かりきってる どこまでもどこまでも 愚劣で卑しい生き様さ 人生とは罰ゲームだ 
 といって カミさんのことなんか これっぽっちも 可愛げも愛情の一片もないから 平気で嫌味な女だとぶんなぐってたくせに よくあるDV男が愛してるのに 殴っては あとで後悔するのと 大違い、どうせアルコール依存症の境界性人格障害者の地獄家庭育ちのアダルトチルドレンの自分には自己肯定感低く、こんな嫌な女でも自分に少しばかり優しくしてくれたからと我慢して結婚してはみたものの どうしてもこれっぽっちの可愛げチャーミングさ愛情のひとかけらも定着せず、いらいらしてはぶん殴ってばかり だめなやつと自分で自分にあきらめつけるなら あの嫌な女とでも 平穏無事に暮らすべきなのに やっぱできない 子供3人も作っといて 家庭を自ら破滅させてもどうにもならぬ 平和な愛情に包まれた家庭がほしかったのに 自分にはまったく無理だ 誰か救ってくれ やっぱ他力本願(仏教用語ではなくごく一般的な意味で) 自分で自分を見つめ 自分自身を変えねばならぬと皆言うのだろうが どさきゃいいのさこの私 女の優しさに何でもいいから包まれたい そして性欲も満たしてほしい  
 といって幸せなことは何かって そりゃカミさんが子供と楽しくかかわっているときばかりが 浮かんでくる 結局自分のブルーバードは あそこにしかなかったのに 自分で破滅させた 
別居1ヶ月前 カミさんと息子と流通センターのしみだらけの廊下を通って、安っぽい定食屋2軒で 幸せそうにメニューを作ってくれたものを出され 決して愛してないのにさも幸せそうな一家みたいに見えることに居心地の悪さを感じながらも 食事したのが 最後の家庭らしさかいな いつもカミさんのだんなであることに肯定できず虚しさをひきずっていたのに 何で今更 わびしくも 引き寄せられるのか もう終わりだ 明日を見つけるしかないのに 
 幸福は妄想の中にしかない 

・やりたい 
 やりたい 精液出したい 可愛いオナゴを抱きしめては 膣、肛門、お口にどくどくと出したい 可愛いおなごの あそこをしゃぶりたい 

・留置場を越えて恋に生きる   ’16 7/8, 7/2 10:40  
 どうせこうなったのも自業自得、ただ これ以上 家族を苦しめるのだけは たまらない 自分の臆病と 忍耐の無さ ストレス発散の下手さ加減 
どれだけ 家族を 苦しめたら 気が済むんだ
 いやまあ そう言いやしてもエヘヘヘだんなさん
やっちまったものは やっちまったものとして そりゃまあ 反省はいたしやす
 ではどうするんだ
いやまあ 釈放されたら 一応 別棟で寝起きしようと思いやすんで 
そりゃまあ 今 物置で汚れてて 掃除や片付けは 並み一通りではないでしょうよ
 それで済むのか 
イヤイヤ そんなんじゃダメで まあ 本格的別居とか 離婚とか 
まあこれから これから 少しずつ考えていきやしょう 
 具体性はないし、心の面はどうするんだ 
それはまあ ほんまに これから これからとしか 
そして心が弱いので 自分の好きなブログやビデオ、トレーニングで心を 落ち着かせんと どうにもこうにも 前へ進めませんし 
あの傷ついた家族には申し訳ないと思っておりますが、父であり 夫ではありますが、
何分 私には荷がきつくてというか こんな 自堕落で欠陥だらけの私には とても
務まりません いるとよけい邪魔だし こんな小さなことも どでかい穴だらけになるのが オチ とくに こんかいのこのザマは その証明に他なりません 私はソーッと
いなくなるのが おあとがよろしいようで 
さ さて そんなところで よろしいでしょうか なんとも無責任きわまりなく申し訳ないのですが 責任の一端を負おうなんて思おうものなら 結局 今回のような ザマになるのがオチ、私はとにかく早々に退散するのがよろしいようで 
 家族はこれからどうするんだ 
まあ一応 私抜きで 協力し合って やっていってもらいたいという
なかば 無責任な他力本願 希望的観測 他人事にはなってしまうのですが 
まあ そういうことで 経済的には 生活保護申請なり 何なり 福祉関係と
接触し合ってもらって いければと思いやす 私がしゃしゃり出なうほうがよいかと
思います、私はきっと 邪魔しかできないでしょうから、いても無駄 いるだけで攪乱しそう 
 あんたは どうすんだい  
え、ええ、まあ、私としては とりあえず 隣で寝起きし 好きなブログ、ビデオ、トレーニングでストレス発散をします
ビデオはテレビ上映映画を録画したり、お下品AVまでということで
そして今回 留置場で考えたことは 一生一度 ぜひやりたいこととして 
皆様方 こんな初老のおっさんが また何 冗談をぬかすか と思われるでしょうが
言いにくいのですが、
太宰治、小説『斜陽』に出てくる 「恋と革命に生きる」ってえ 言葉に似てまして 
何せ 現代においては 革命はちょっとねえ 困るなあ… 何せ 革丸派だ ISイスラム革命にはちょっと ついていけないし 嫌ですしねえ 
なんで 革命という言葉をはずして 「恋に生きる」ってえ ことでいかがでしょう
そんな 笑わなくてもねえ 本気なんですよ 
恋人 GFガールフレンドがほしい 離婚できないうちは 浮氣だ 不倫だと
言われてもいい ガールフレンドほしい
そうだ 「恋に生きる」です 全然似合っていないし 現状把握が 全く なっていない
そうなんですよ でも ガールフレンドほしい
 そんなこと本気で思っているのか
そりゃもう 本気で 何なら 老いらくの恋と呼ばれてもいい といって相手のめどが
あるわけじゃなく とりあえず お金がちょっとあったならば 
いかがわしい場所にでも行って ほんの少しのお時間限りの恋人気分だけでも 
というか…
 それではGFではないではないか
まあ交際相手は じっくり期を待たないと出会えないでしょうし 
おいおい できるといいなあ ハア ため息 こんなおっさんに チャンスは ないか
でもまあ 生きてんだから チャンスはゼロではないな ということで
 本当にできると思っているのか
できるかったってえ… うんまあ 頑張ります 
本格的別居も 離婚も 相手がいたら どうしても そうなるでしょうし 
家族もあきらめるでしょうし

・好みのGFガールフレンド  ‘16 7/8
 ちょいと痩せてて細身でスレンダー カップはAAAでもかまわない AA, A, B, Cどれでも結構 巨乳とやらは苦手なので E, F, Gなんてのはちょっと引くけど 可愛くて
スレンダーならOK
そして 可愛い顔して ほんとはすけべ あらゆるHに興味しんしん 
おっぱい噛まれるの好きで、全身なめなめOK
縄、クリップ、アナル責め、AF、浣腸、むち打ち、SMプレイ、にチャレンジOK
幼児プレイ、おむつプレイ、ろうそく、コスプレ、何でも挑戦OK
すけべ可愛いガール、そんな娘いるわけないか でもでも「Looking for Mr.Good-Bar」だ

・孤独なH  ’16 7/8
 Hとは変態HENTAIのHとか、戦前の女学校生徒の発明言葉か
Hは世間からみれば異常者、犯罪者、異常性欲者
映画やドラマでは犯人か異様な狂言回し
でも大多数のHは日常生活をなんとかこうとかやり過ごしつつ
その抑えきれぬ願望を 細々と しみ出させ やりきれぬ日常を、落ちてゆく精神を
 やっとの思いで ふせぎ止め かなわぬ 願望に とりつかれつつも まるで
隠れキリシタンのように 表面を装い 孤独で 淋しい 思いにため息をつき 
どうにもならぬ 日常を あがなっている
その思いを 共有し合えることを望みながらも ほとんどの者は 出会えぬらしい
それはさながら大宇宙で宇宙人の住む惑星に行こうとするようなもの 地球人は
地球人以外の 生命とは 出会えぬ確率が99.9%以上 地球以外に生命のある
惑星へは 光より速く移動しないと たどり着かないから さもそれに似て
H同士もほぼ出会えぬらしい。出会えるものは ごくごく少数の選ばれし者のみにてなり
99%の男に 1%の女 ほとんどの男に 相手はいない 
では女は? おそらく ほとんどの女は オモテに願望を出すことなく 
抑圧し続けたまま 一生を終わらせるのか おそらく 自分一人で 願望処理を
むなしく するのでしょう
ああ Hは孤独だ 淋しい 自らの肉体と精神のアンバランス不一致に悩み 
悶々として 解決がない この大宇宙でただ一人 宙ぶらりん 
いつか出会えることを夢見つつ その一生を終える
初めからアンバランスしか与えられず むなしい喪失を 抱えたまま 生きづらい人生を
やっとの思いで 生活し 喪失したままの人生を終える運命 虚しさで 心を病み
満たされぬ思いに やりきれなく いかばかりか いくかばかりの
Hの心

・妻へ  ’16 7/8, 7/1 17:35
 お前のことを愛していないのに 結婚した 愛のない家庭 愛の与えられぬ妻 
そして子供、子供、子供、
愛がないのに 温かい家庭なんてありえない
はじめから 壊れていた 喪失した家庭
妻も 子供、子供、子供も、みんな壊れた
何もないよりひどい いるだけ邪魔で悪魔だった夫で父
いない方がよほどましだった
それをどうしようもない どうにもできない いればいるほど 泥沼にはまっていく
夫、父は去った方がましだ いるだけ皆 不幸になる 
夫、父にもならぬ でくのぼう 名義だけの夫、父、責めろ、責めろ、責めるがいい
どうか 恨んで 憎んでくれ それしかできない
夫、父とやらを しょうもない奴として 捨てられるとき 
少し心の荷が降りるのではなかろうか
愛のないことに いらだってばかりいた 気が合わない 気に食わない 
体も合わない しょうもない 何もかも合わない 分かり合えない
妥協できない 折り合いがつけられない いるだけイライラするばかり

・長女へ  ’16 7/8, 7/1 15:40  
 どうしたらいいのだろう どう謝ったら どう言葉で…  態度で…
お前の 態度に 言葉に 困惑し 落ち込み 疲労感 苦痛 苦い緊張感 
いつしか愛情も薄れ いっそお前なんか生まれてこなければよかったのに
そして 私も どうせ こんな 薄情者で 
今まで父らしいこと 何一つ したことはない
お前が突っかかってくるのは それは当たり前だ 
お前は嘉永の愛情を知らず 父の愛情を知らず 育ってしまった 
故に なおさら 愛情に飢えて 渇望し 叫びまわり 飢えたるごとく
求めずにはいられない 愛のない砂漠で 水を求めるかのように愛を求めるのは
しごく当たり前だ
しかし、父は お前に 愛を与えられない 不安と恐怖しか与えられるものはない
いっそ父が 生まれてこなけりゃよかったのだ 生きてること自体が迷惑だ
そんなこと 今更 言ったところではじまらぬ 
かっこつけた言葉など いくら連ねても 何も変わりはしない
喪失した心はひたすら愛を求めて 飢え続けるだけだ
お前に与えられるものは 父への恨み 憎しみだけだ お前が生きる
証として 父を恨め 憎め それが生きて在ることの権利
そのすさまじい心の地獄を よく今まで生きてきたものだ 
(サバイバーといわれる アダルトチルドレンとも)
お前にとって とても生きにくい苦しい人生を これからも 
地獄の苦しみで生きていくしかないはずだ 
おそらく心安らぐときはないだろう 重荷だらけの人生になるしかないだろう
それを父は 何の手助けもできない どころか いっそ いない方がよい
いれば 更に 不幸にするだけだ 
それでも お前はズタズタになりながら 更にボロ雑巾になりながらも
生きていくより他に道はないだろう 
少なくとも お前は こんなにも くだらない父という名だけのジャマ者を 
恨み 憎み そしていつか あんな奴のこと かかずりあってもしょうがないとして
捨てていけると きっと少し気が楽になり 木漏れ日が差すだろう

・長男へ   ’16 7/8, 7/1 17:00
 お前は いつの頃からか 生気を失い 不安の中に閉じ込められた
お前がそうなったのは 家庭の愛情を知らないからだ 父の愛を知らないからだ
お前は 愛を求め 安心に包まれたいのだ 
はじめから 不安や恐怖しか与えられず 心は喪失したまま 
とはいえ お前に これからも 父らしいことは 何一つしてやれない
お前を 救うことはできない どころか 更なる 不安と恐怖しか与えられない
お前に与えられた権利は 父を 恨み 憎む ことだけだ
父を恨み 憎み いつか あんなやつのこと捨てるしかないと 思えたとき
少し 心が落ち着くに違いない
よく今日まで 心の地獄を生き抜いてきたものだ サバイバー
お前にとって 人生はこれからも 苦難の連続だろう 
お前は生きていく限り 心の喪失に耐えて 地獄を渡っていくしかないのだ

・次女へ  ’16 7/8, 7/1 17:05
 お前は 発達障害と診断されたそうだが それはそれで当たっているとして
それだけではないだろう 引きこもりもそうだし 他にもあろう
お前がこうなったのは 家庭の愛を知らないからだ 父の愛を知らないからだ
お前に与えられたのは 不安と恐怖だった
心は喪失にさいなまれ 愛を求め 安心、安全に包まれたいのだ
よくもまあ 現在まで 心の地獄を生き抜いたものだ サバイバー
お前は愛を求めても 結局 与えられるものはなく
喪失の中を 必死にもがいて 生きてきたものだ
それは心の地獄だ しかし、父は決して救うことはできない
それどころか いるだけ邪魔になるだけだ
お前に与えられた権利は 父を恨み 憎むことだけだ
そしていつか あんな奴のこと しょうがないと思って捨てるしかないだろう
そうしたとき きっと少し心が落ち着くだろう
お前は 心の地獄に耐えて 生きづらくどうにもならぬ中を
生き抜くより他ないのだ
お前は生きているだけで 一般の人より10倍は偉いのだ

・皆様へ   ’16 7/8, 7/1 15:10  
 今回 取り返しのつかない 申し訳ないことをしました
社会や世間様にも とんでもない 大迷惑で心外なことをしでかして 謝っても 謝りきれない どうやっても 取り返しのつかないもので 皆様に どう謝ってよいのか いかなる言葉があるのかさえもわからない ともかくも 平に謝るしか思いつかない 他に
どうしてよいのかさえ思いつくことはなく、頭の中は真っ白だ 
 これから 私は ただ 毎日を淡々と自らの課題をこなしていくだけ、今までと変わらず、ただ淡々と日常生活を過ごすことだけしかできそうもないし そうすることが 広い意味での謝罪につながるのかもと思える おそらくその姿を 見守っていただくよりほかに謝意を表せないのではなかろうか 

・ ’17 2/12
  死ねばいい そうつぶやいて 繰り返し 朝が始まる いつもと同じ
 
うんこでちゃう そんな独り言でもしてなきゃ どうすればいい 夕暮れ時 


・ ’18 1/13
  くそったれ、どうせ生きていてもくだらないことばかりしてやがるなんてもんじゃなく くだらぬ淫行、悪趣味、小人閑居して悪事をなすの例え通り、些細な悪事をかさねていかねばとても生きていけない それとても毎日毎日 耐えられない よっきゅう不満ばかり抱えたまま 何も満たされず 不平不満を全部閉ざして 唯ひとりごとで 死ねばいい 馬鹿野郎 などとどうしようもない 人生を嘆き、 生き恥ばかり 世間様とやらに さらけ出し それでも何食わぬ顔してるふりして 今日も一見のうのうと恥じぬふりして 生きていかねばならぬ ああ一度でいいから 満たされる何かを抱きしめあいたい しかしそんなもの 一生出あうこともなかろう 愛する者には死ぬまでたどり着けず、 愛もない どうでもよい いや 嫌悪感さえ抱くやつと 一生死ぬまで一緒なのかと思うと がっくりする 恋人 ほしいけど どさきゃいいのさこの私 夢は夜開く いやさ開くことはなし 唯ひとりさみしく 自らを汚すのみ それでも生きてるのは もっと下らぬことにうつつを抜かさねば とても生きていけない あの親父は生きてる価値はなかった いっそあいつは生まれなきゃよかったのだ そうすりゃ私も生まれてこなかった といっても生まれちまったものは取り返しがつかない そこで生き恥さらして 無様な生き方をしていく 無様でも愛 性欲 肉体と心がみたされてればどうにかなるだろうが 何一つ満たされず ただ宙づり の欲求不満ばかり 若いころはいったい何度もくるいそうになったことか 今はあれもこれも ふさぎとめられ 行き場を失い 元気もなく たれるばかり でやっと 押さえつけていられるようにはなったが、ただただ押さえつけるばかりの人生 なぜに満たされない こんなでくのぼう 生きてるより 死んだほうがまし こんなやっかいもの 生きてるだけ迷惑 死ねばいいのに それでも死ねずに おめおめ 生き恥ばかりの醜態を世間様にさらけ出し 平気の平左の とんまばかり 生きてりゃ 悪いことして 耐えられぬ 狂おしさを 少しでも減らすしかないでしょう 虚しさ わびしさ くやしさ 欲求 もてあますばかり 死ぬまでがまんかよ たえられないよ 

・一人飄々とやってるだけ そして誰も気づかぬうちにいなくなる  '21 4/4
 そいつはいつも注目されるでなく、ただそこにいて 一人飄々とエントリーしているだけだ。別に速そうでなく 強そうでなく、のろのろと もくもくと やってるだけ。 時には 人にばかにされても 平然とした表情でやってるだけ。 しかも40歳で手術をし、一気に力が入らなくなり、粘れなくなった 50歳代半ばで膝を痛め 常に膝をかばってやっていくしかなくなった そして膝をかばい、別の個所を次々に痛めるようになり、1年のうちほとんどを故障するようになり ほとんどまともに走れなくなり、競技レベルに程遠い のろのろよちよち走りしかできなくなっても 遅々と走っている馬鹿だ もうびりっけつしか走れないだろう。制限時間との戦いだろう。それでもやる気だ。どこまで馬鹿なんだろう。誰にも褒められず 馬鹿にされても それでもやっていく。
そしてもう数年後には制限時間にも間に合わなくなり 引退するしかないだろう。誰にも何も言われず、いつの間にか その場にいなくなるだろう。いなくなったことを誰も気づきもしないだろう。痛む膝をかばい 腰や肩もかばい 猫背でS字カーブの屈曲した身体で、左右や前後のバランスも崩れ切ったみっともない体を引きずって その場を去るだけだ。整体屋には、そのみっともない身体を笑われ、こんな体じゃ つぶれるだけだと 軽んじられ、歯牙にもかけられない。みっともない恥さらしな人生をこれからも ただもくもくとこなし、けなされることはあっても褒められることはなく、くたばっていくだろう。挫折、怪我、故障、病気、恥さらしは限りなくあり 栄光はなく、体を痛めつけ、心を傷だらけにして くたばっていく。

・幸福  ’22 9/19
  この世での一番の幸福は、排泄が漏れそうなのにトイレにすぐいけない状況で、やっとの思いでトイレにたどり着き、間にあった瞬間だ。そのピュアなまでの混じりけの無い純粋かつ清らかな満足感、安心感、幸福感は、他では味わえないものだ。それはそれでよいが、他に幸福ってあるのか?どうせ人生なんて99%不幸の連続でつらいことばかり、とはいえたまにほっとすることもある。
  


留置場, ’16 7/8

2023-03-12 17:38:17 | エッセー
・留置場
                               ’16 7/8
○長所:
・反省、反省、とにかく反省、社会に家庭に… 二度といたしません。まあそれはともかくとして
・ダイエットできている。食欲を失い、胃がもたれていた。きっと釈放後リバウンドするだろう。
・左膝痛が薄らぎ、久しぶりに正座姿勢が取れた。ただ正座すると痛みは出るので、おそるおそるほんの少し行うし、ぺたっと座らずにかかとを太ももにつけたり、完全には座らないよう配慮しつつ行う。
・恋に生きると決めたこと。まあ無茶でもなんでも希望ができたつもり? 無理か。
・睡眠不足解消、眠りは相変わらず浅く、夜中によく目覚めるが、就寝から起床までの睡眠時間が長いためか、目覚めていても、身体や精神が休まるようだ。多分釈放後、数日で元のもくあみかもしれない。
・刺激が少ないので、悟りの境地のような生活。よく言えば心穏やかに平安に過ごすというか、逆にそうしないと過ごしていられない。社会の動きに隔絶され、よく言えば桃源郷かもしれないが、そう思うことでしか生きていけないかも。
・エアコンが効く。扇風機もある。暑さをしのげた。

●短所:
・運動不足。
・社会生活停滞、普段居住していた所での生活は全く止まり、日常生活は100%ぼつとなる。支払い等も不払いになる。
・フラストレーション増大
・将来への不安増大――起訴、裁判、釈放後の社会復帰
・入浴週2回、1回15分、頭皮ふけだらけでかゆかった。
・自己決定なし、可処分自由ほぼなし、移動、行動不可。
・ダイエットできたが、やたらとおならが出てきた。腹部圧迫感あり、胃もたれ。


妹のこと ’19 10/12

2023-03-12 17:35:28 | エッセー
・妹のこと ’19 10/12  
 昭和36(1961)年4月3日生まれ、だが本当は3月31日か4月1日生まれ。早生まれで一つ上の学年にするのが可哀そうとのことで、4月2日にしようとしたが「しにん」で語呂がよくないので、4月3日で出生届を出したとのこと。
 小学校は地域の小学校(中央)に入学したが軽度知的障害があり、「なかよし学級」(特別支援学級)で教育を受ける。中学校は通学費を市が補助するとのことでバス通学して、少し離れた中学(桜木)の特別学級に入学し卒業する。
 進路は少し離れた地域の工場(島田市、日清紡)の寮に住み込みとなった。そこでは通信制の高校が併設され、働きながら高卒資格を得たが、職場での人間関係に疲れ、退職した。家庭に入り、家事手伝いとして母の手伝いをするようになった。
休みにはファンシーショップ、CDレコード店、書店等を回っては、店員と話をして、ジャニーズ系アイドルグッズや可愛い小物を集めて、芸能ネタで楽しんでいた。
2010年頃家庭で突然倒れる。脳梗塞で半身不随。(掛川市民病院、御前崎病院リハビリ)入院手術、リハビリを受ける。(掛川北病院)でリハビリに励み、車いすながらトイレ処理等はできるようになり、セラピストが話し相手となる。家庭から病院リハビリにデイケアに通う日々となる。母が骨粗症状で骨折が多く面倒を見られず病院に入院となる。病院生活ながらリハビリを楽しみ、笑顔の写真が多く残っている。病院イベントやカラオケを楽しんでいたようだ。病院作製のアルバムに残っている。リハビリでは塗り絵に励んでいた。藤子不二雄の漫画を気に入っていた。
 2019年8月突然黄疸症状を呈し、肝硬変であることが分かる。すでに治療うんぬんではなく、終末医療となる。9月28日見舞いの折り、友達や知り合い関係等を問うと、見舞いに来た人はいなくて、話し相手は看護師とリハビリの方たちだけであることを再確認する。そこで家族葬の予定を考えた。
10月2日夜突然病院より電話があり、症状の急変があり得るとのこと。10月3日早朝、電話で病院に来てくれとのこと。呼吸器をつけつつ浅い苦しそうな呼吸をしていたが、9:08頃、呼吸が静かに止まり、アラームが鳴り響いた。9:10医師より臨終を告げられる。享年58歳。