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東京国立博物館 『運慶展』記念講演会「興福寺と運慶―特に北円堂の諸像をめぐって―」

今日は、東京国立博物館で開催中の『運慶展』の講演会。
トビカン、西洋美術館での講演会には何度か行った事がありますが、
トーハクでの講演会は初めて。

って言うか、トビカン、西洋美術館は、館内にチケットなしで入れますが、
トーハクは、構内に入るのに総合文化展の入場料を支払わないと、
構内に入れないので、敷居が高いんですよねぇ。

トーハクにたどり着く前に、科博の前を通ったんですが、
『深海展』の物凄い行列を目の当たりにしました。
噴水の方まで、行列が伸びていました。
こんなの見た事無いです。
さっさと見ておいて良かったです。

と、トーハクについてみると、『運慶展』も入場待ちの行列。
『深海展』ほどでは無かったですけどね。

そして、講演会の整理券も大行列。
どこもかしこも行列です。
整理券配布30分前に到着したのですが、満席になる勢いの行列。
なんだかなぁ。
まぁ、今日の講演会の講師が、興福寺貫首の多川俊映師なので、
大人気なんですかね?

それで、実際には11:30からチケット配布なのですが、
それよりも前からチケットの配布が始まります。
どうやら、その時点で満席が判明したので、
早くチケット配布を開始したようです。
なんとか、整理券は無事ゲットしました。


そうそう。
トビカン、西洋美術館での講演会との違いが、もう一つ、
いや、もう二つ。
一つは、展覧会のチケット一枚につき講演会整理券が二枚もらえる事と、
もう一つが、講演会の座席が自由席ではなく、指定席であること。

指定席方式は、好きなところに座れないと言うマイナス点がありますが、
事前に座席が判るので、講演開始まで来ればよいので、
時間が有効に使えると言う利点もあり、一長一短ですね。

そんなこんなで、講演開始時間になり、講演開始。
講師は上記の通り、興福寺貫首の多川俊映師で、
講演タイトルは、「興福寺と運慶―特に北円堂の諸像をめぐって―」

事前の整理券の状況の通り、講堂内満席です。

講演要旨は以下の感じ。

  • 現在、中金堂再建工事中。来年、落慶法要が行われる。今回の『運慶展』はその記念
  • 今回の講演タイトルにも入っている北円堂は、焼失と再建の繰り返し。4回焼けている
  • ちなみに、中金堂も七回焼けて、8回目の再建物が今のもの
  • 北円堂は、興福寺境内の中央から外れているので、焼ける回数が少なかったか?

  • 興福寺のある場所は、春日山の丘陵地の西の端。平城京からは一段高い場所。
  • 北円堂は、そんな興福寺の西の端に位置している。
  • 当初は、単なる円堂(円堂院円堂)と言う名称だった。のちに内円堂ができたので、北円堂と言う名称になった

  • 北円堂が造営された平城京は70年間都だった。当時の時間軸で70年というのは、十分に長い期間
  • 興福寺は、左京の張り出し部分にある。平城京、平安京の東の張り出しを外京と今は言うが、明治の研究者が名付けたもの。あくまでも左京の一部という認識
  • 興福寺は、平城京中心部から徒歩で40~50分と言う距離。当時は高い建物は無いので、興福寺からは平城京の様子がよく見えた。
  • 円堂院円堂(北円堂)は、平城京造営を推進し、興福寺を創建した藤原不比等の廟として、逝去一周年の時に建てられた

  • 円堂院円堂への安置仏は、無著世親と言われているが、創建当時の北円堂の安置諸像としては、弥勒仏・脇侍菩薩二躯・羅漢二躯・四大天王とあって、無著世親では無い
  • 1180年に治承大火があった。
  • 九条兼実の日記に興福寺の火災被災状況が記載されている。興福寺は、ほぼ全損だった模様
  • 創建以来藤原氏が興福寺のパトロンであった。11世紀はその影響もあって、火事の後の復興は非常に早い
  • しかし、12世紀の治承大火の頃になると、政治的状況の変化もあり、そうもいかなくなってきている。実際、北円堂の再建は遅れる。いま目にする北円堂は、この時の再建したものだが、正確な年次は不明。しかし、この時も、安置仏は創建時と変わらず
  • 解脱上人貞慶は、非常に頭の良かった人。貞慶は、藤原不比等の長子(南家)の系統につながる人物。しかし南家は、後に北家に凌駕されるため、南家の人々は、出家したりしている
  • 貞慶は、大火からの再建が遅れていた興福寺の再建に力を注いだ

  • 法相宗の考え方では、唯識は、無著が弥勒の教えを受けて継いだもの
  • 一寺一宗は最近鎌倉以降のこと。奈良時代は、いろんな宗派が一つの寺に一緒に居た
  • 貞慶の弟子良算。堅義(りゅうぎ)とは、僧侶の修行における口頭試問の事。堅義を受ける毎に修行のランクが上がっていく。最後の堅義をパスしたら、僧侶として栄達したことになる。
  • 今も小僧として修行入りした後は、毎日お堂を巡る修行をする(入堂と言う)。2時間くらいかかるが、入堂する事を大事にしている。
  • 1205年段階では、北円堂再建に着手しておらず、羅漢二躯を無著世親に当てたのではないかと見ている
  • 無著世親については、『猪隈関白記』には、世親、玄奘と書かれているが、いまそう言う考え方は取っていない。貞慶の『修行要鈔』には、慈尊、無著とある。
  • 誰が、羅漢二躯を無著世親としたのかを考えると、貞慶と考えるのが今は妥当
  • 無著と世親は、実年齢5歳くらいしか違わないと考えられるが、美術的には、この二つの像は、老年と壮年の像であると対比をされる事がある。しかし、それは違うのでは無いかと思う。東大寺の重源上人像の程であれば、老年だろうが。
  • 無著と世親の姿形の違いは、唯識のどのレベルまで修道を治めたかによるのでは無いか。無著の方が、世親よりも修行のレベルが進んでおり、それが、像の形に現れたのではないかと思う。
  • 修行のレベルを造形に表す運慶は凄い

こんな感じでしょうか。
仏教関連の知識が無いと、理解しにくいところもありましたが、
それでも、中々興味深い話でした。
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