作者不詳 『桑つむ少女』
最近はもっぱらTwitterや『曽我兄弟』に掛かりきりでした。すっかり、ブログの方はご無沙汰してしまいました。ブログを書くのはもっぱら最近は昼間より、夜の方が多いです。何故か夜の方が、頭が冴えて、しかも今は、深夜はとても涼しいからです。
菊池華秋 『そよ風』
いけない事だと分かっていますがもう昼間は寝てばかりの有り様。皇后陛下みたいです・・・・大汗😵💦
ご養蚕を受け継がれるため皇居に入られる皇后様(何故か?御一緒の敬宮様と陛下)
最近の話題は皇后陛下が、余り“ご養蚕„に対して余り熱心ではないような風聞が、聞こえて来ます。しかし・・・
(やっと小石丸の『初繭掻き』をされる映像が公開されました)
ご給桑をされる令和二年の皇后陛下
(小さな生き物にも慈しみ深い愛情を持たれていらっしゃるとの事です)
始めての御養蚕の時の皇后様の様子は
紅葉山御養蚕所主任
「かなり勉強していらっしゃると見受けられました。やり方とか蚕を扱う、扱い方とかそれはかなり勉強しているんじゃないでしょうか?それでないと、あそこまで出来ない。御養蚕所にいる間、私が感じた事は、明るい人だな・・・・凄く几帳面というか、真面目というか、物事をきっちり捉える人。始めると積極的に仕事をして頂ける方・・・・という感じですね」
これ程の熱意を持たれて養蚕に励まれていた皇后陛下。なのに本年は、“体調が整わなかった„とか“腰が痛かった„という近代の皇后もビックリな理由でご養蚕を度々欠席。何があったのでしょうか。
堀井香玻 『異端の女』
現在では天皇陛下や敬宮殿下方が、熱心のように見受けられます。
敬宮殿下自らの養蚕
養蚕は歴代の皇后陛下が、大切に受け継がれてきたお役目です。
ご給桑をされる上皇后陛下
ご養蚕所で育てられた“小石丸„は奈良時代の正倉院に伝えられた、絹織物を復元するのに一番相応しかった、というのは良く知られた話しです。
小石丸の糸を使用してよみがえった正倉院の織物
現在の蚕の絹糸は改良されて、昔に比べると、絹糸が、太いとの事です。
それに引き換え小石丸は、繭もとても小さく絹糸の量も少なく、一時は生産を止める話しまでありましたか、上皇后陛下が、
『昔から伝えられた純日本種と聞いております。繭も小さく可愛らしいので、もう、少し続けましょう』とのお言葉で、小石丸の生産が、細々と続けられていたのでした。
須藤しげる 『たなばた姫』
その小石丸が、正倉院の絹織物の復元に一番相応しい糸であると伝えられて、ご養蚕所でも小石丸の増産が、図られました。もう二十年前、専門学校の先生が、『今の日本で一番蚕を生産しているのが、皇居の養蚕所だ』と言われていたのが、印象に残っております。
皇后の養蚕は明治四年三月に宮中の吹上御苑で養蚕を始められました。
詳しい様子は、翌明治五年三月二十三日の夕刻、養蚕婦達を指図する、『お下げ髪にて、御衣は緋の総もようの御ふり袖』という華やかな御所風の昭憲皇太后の姿が、養蚕婦の一人田島民の日記に書かれております。
紅縮緬地藤松菊亀模様振袖(鍋島家伝来)
しかし宮中の養蚕は、明治六年の御所の火災によって一時中断されましたが孝明天皇妃でいらした、英照皇太后が、明治十ニ年から、明治ニ十九年まで青山大宮御所で養蚕を引き継がれました。英照皇太后の姪が、貞明皇后です。英照皇太后と同じ九条家出身だった貞明皇后はお妃になられる前、叔母の皇太后の元に度々参内されましたから、きっと養蚕を直に拝見されたでしょう。
貞明皇后は紅葉山に現在の御養蚕所をお建てになられまして、そちらで養蚕をなさり香淳皇后、上皇后陛下、そして皇后陛下へと皇后自らの御親蚕が、受け継がれているのです。
昭憲皇太后御歌
『いたつきを つとめる桑子の まゆごもり 国のにしきも 織りやいずらむ』
『雨風も 心にかけつ 国のため 蚕飼(こがい)のわざの 富をおもひて』
貞明皇后は大変養蚕に熱心でした。皇后時代は勿論の事、皇太后になられてからも、赤坂の大宮御所の一部を蚕室されて、貞明皇后は自ら桑を与えられて、お掃除もなさったということです。
故高松宮妃殿下は
「大宮様が、養蚕にご熱心でいらっしゃったことは、天下周知の事実ですが、本当に心から蚕そのものを愛していらっしゃったようでした。あの乳白色の幼虫を、手の上にお這わせになって、優しいお声で『おこさん、おこさん』と、お目を細めていらっしゃいました。いかにもこの小さな虫が、可愛くて仕方がないというご表情でした。・・・・(省略)大宮様がこのように、養蚕にご熱心になられたことは、英照皇太后や昭憲皇太后のご遺志を継がれたのも、勿論ですが、生糸が、日本の輸出産業の重要なものであり、農家の富、ひいては日本の富に繋がるのかというのを、深くお考えになっていられた結果と申せましょう」
昔は、蚕の事をお蚕様と農家では言っていたようです。あの金さん銀さんの昔話で、養蚕の時期では家中に、蚕の棚を作って夜、自分たちは、外で寝ていたという事を言っていたのを記憶しています。それくらい農家では蚕が、生活のたてになっていたとの事です。
石井健之 『うりこ姫』
貞明皇后御歌
~養蚕につきて思う事どもを~
『国民の たつき安くも ならむ世を ひとり待ちつつ 蚕(こ)がひいそしむ』
皇后陛下が、養蚕をなさるのは、現在では伝統の保持という面が多いですが、しかし養蚕を通じて歴代の皇后の思いまたかつての農家の苦労、『あぁ野麦峠』の養蚕業の負の側面等様々な事を身を持って学ぶ機会であるのです。
須藤しげる 『棘の門』
決しておざなりにしては、なりません。腰を痛めた香淳皇后も続けておられたのですから。貞明皇后は、東宮妃でいらした、明治四十一年より御養蚕を始められたという記録があります。
東宮妃になられる前から養蚕に関心をお持ちでいらしゃったことは、次の歌より伺えます。
『かきりなき みくにのとみや こもるらむ しつかかふこ まゆのうちにも』
大正の御代となり皇后となられてから、紅葉山に養蚕所を建てられた貞明皇后は養蚕の時期になると・・・・・御用係吉田鞆子の証言
『養蚕期にはお差し支へない限りは、毎日のように御養蚕所にお成りになりました。御養蚕所は、御茶屋も付属していますので、そこでお休みになられることもあり、成らせられるといつもなかなか還御になりませんでした』
シロガネは養蚕の事は詳しく分かりません。しかし今回、『昭憲皇太后からたどる近代』『孤高の国母貞明皇后』や主婦の友社の『貞明皇后』等を参考にして皇室の養蚕について勉強しておりますが、貞明皇后が、皇后としての『役割』として定着させたのは間違い有りません。
蚕は白い幼虫はなんとも気味の悪いですし、糞等の匂いもするでしょうし、香淳皇后や上皇后陛下や皇后陛下方は優雅な装いや絹の作業着を召されての作業ですが、決して優雅なお仕事では有りません。
須藤しげる 『露を踏みて』
昔御養蚕所を見学した人が、“相当大きくなった蚕„が、桑を食べる様子を見て卒倒したという話が伝えられています。
貞明皇后はかの小石丸の品質保全に務められました。それは『奈良朝この方、日本の昔の絹がたぐいなき優秀さを保ってきたことは(中略)一つには、それが純日本種の蚕の吐いた糸でおられた』とお考えになられたからです。
その貞明皇后の思いは、香淳皇后、上皇后陛下へと受け継がれて、正倉院の絹織物の復元に繋がるのです。
貞明皇后御歌
『神代より つたわりきぬる 蚕(こ)がいわざ すえもさかゆく 法(のり)をさだてむ』
佐藤光華
“腰に違和感„が、あって本年は作業をほぼ見合せられた皇后様が、デカイ蚕を御覧になられてショックで、卒倒されたかは分かりません。・・・・その時、腰でも打たれたのかなんて、やんごとなき雲の上ですから、分かりません。しかし皇后としての覚悟が、この御養蚕によって試されていると言って良いでしょう。
ここから香淳皇后のお洋服のデザイナーとして知られた田中千代氏が、上皇后陛下のご成婚の時の衣装についての手記を載せます。大変貴重な証言ですので。
(香淳皇后は親しくしていたデザイナーにこう言われたと言います)
「わたくしは古いものを直せば、まだ着られるでしょう。美智子の為に新しいのを作って下さい」
香淳皇后が、自ら選ばれた「明暉瑞鳥錦(めいきずいちょうにしき)」
「明暉瑞鳥錦」をデザインした龍村平蔵氏。氏らは、半年間かけて織り上げてそして・・・・
フランスに送られ、クリスチャン・ディオールでローブ・デコルテに仕立てられました。
『ご盛儀の日の衣裳~ローブ・モンタントとローブ・デコルテ』
◆夢の国のお洋服
女学校時代の頃、よく母が父と共に、宮中に参内するので、ローブ・モンタントや(ローブ)デコルテをきている姿を見かけました。
海老茶の袴をはいて、学校から帰って見ると、鏡の前でデコルテの衣裳を付けるのに、大童わな母の姿をよく見かけたものです。クリーム地に銀糸の織り込まれたラメの長く引かれたトレーンなど、当時の娘心には、お伽の国の服のように思われて、床に流れた裾をそっとなでて見たりしたものでした。ダイヤモンドの輝く冠を眺めては、ハーーッとため息をついた事もありましたが、こんな姿は母というか、何が別世界のお伽の国の貴婦人のような気がして、私の記憶に残っています。しかし今度はその夢の国のようなお洋服を、私が作るという“現実の仕事„が与えられて、そんな服にも、自分の仕事と直接に結び付く、現実さがあったのかと、何だか感無量な気がします。
◆世界でたった一枚の布
さて、どんなデザインをすべきかで、打ち合わせをしました。その時皇后様(香淳皇后)を始め、皆様の意見が一致したことは、日本の伝統の美しさを持つ服を作るという一つの線でした。もう一つは、日本の美しさを基盤として、その上に国際性を持ったものとしてご結婚の儀式に溶け込める美しい服という線です。この二つの方針で製作を始めることにしました。
私の担当は、お披露宴のものになりました。午後に行なわれるというので、ローブ・モンタントにしました。もうひとつは、皇后様と皇太子妃殿下が、最初にご主人役となられるデコルテでした。勿論、皇后さま、美智子妃殿下、清宮さまとお揃いでお出ましのおふり合いも考え、数枚のモンタントや、デコルテをお作り致しました。お披露宴の席になどに、若し同じ布でも召したら大変と、現在販売中のものは、選からはずし、結局世界中に一つしかない一枚織りのものを使うことに決心いたしました。織り物では、日本一の伝統を誇る龍村謙氏をおたずねした処、この意見に大賛成で、色々見本をみせて頂きました。その中で私の心をとらえたのは「洗雲庭」と名付けれた暁から日暮れまでの雲と光りの変化を一枚に織り出した布でした。これは龍村氏の一生一代の傑作の布です。
上皇后陛下が召された「洗雲庭」
◆皇后さまも感激
数点選んだ布地この中から、皇后さまもこの布地にお目をつけ、たいへん感激されました。短時間には製作は難しいようでしたが、龍村氏はこの布を土台として色をかえ、服の寸法に合わせて製作されました。この布地は、誠にユニークな風格を持っておりました。そして西洋的な普通のデザインを受け付けようともしません。私は、独自のデザインの必要を布を見る度に感じました。また雲のそれぞれの位置を服のどの辺りに置くかということは、このデザインの良さを決定する一つのポイントであり、この布が自然に作り出すシルエットも大きなポイントをにぎるものだと気がつきました。それ以外の複雑な装飾は、この布の風格を損うものであるので、別布を使ってシルエットの製作を色々試みました。その上に何回も、雲の模様の位置を書き込みました。この仕事は、思いがけなく大変で、布の織り初めまでに、この試作が手間取りました。龍村氏の方では、特種な糸を用意するだけに、相当時間を要したようです。
◆盛られた日本的雰囲気
別布でシルエットの模様の位置だけのお仮縫いに上がった時、美智子妃殿下は、日本の伝統の布を使われたので、デザインも日本時な雰囲気を盛ろうとしたことを早速お気づきになりました。
何回もうなずいて、
「自分の気持ちが、この服の雰囲気に溶け込みそうだ」
といわれました。美智子妃殿下の感覚の鋭さを、私は目の当たりに見、その深いご理解を大変うれしく思いました。
早速歩いてみられ、服の動きを知られると同時に、その時の動作まで心にとめられた事を知り、御用心深さを感じとり乍ら、女官の皆さま方にも、この行き方が完全によろこんで頂けた事を知って、ホッとした思いでした。
◆苦心の柔らかいシルエット
本布にかかる手配をはじめましたら、何分にも、一枚織りの手織りなので、毎日のように、一枚ずつ前身、後身、前スカートという風に、一枚ずつ織り上がってくるので、総括して裁断する事ができず、手順が、随分くるいました。
一枚織りの服には、縫目は禁物なので、どうにか隠れる位置に縫目をおき乍ら、思うシルエットを完成する事の難しさを痛感しました。また、雲の柄のあるところは、糸が何本も横にかかり、そこだけ布の張りが強くなり、無地のところと柄模様によって、布の張り、重さが違ってきます。これには裏打ちしたりして、シルエットを出すのに苦心しました。
丁度いぶし銀の夕暗みの先で、トレーンの先がきっちり終わらせようという計画は、正確な仮縫いが必要になってきました。
トレーンの長さ、タックの深さ、縫目の位置など、正確な土台が要求され、良い勉強をしました。日本的な雰囲気のために、丸いスカート線や、強い曲線をさけて、柔らかみのある直線的な線や、襞をねらい乍ら柔らかさを持たせようとしました。
◆透き通るようなデコルテ
これと反対に、デコルテの方は、フランスの見本によって始めて織られるというレースを特製して頂きました。
レースの会社も感激して、この申出を受け、短い期間に完全に製作して、その期日を一日も狂わさず、守られたのには感心しました。淡いぴんくのチュール地に、花模様のレースの中にピンクのリボンが花のように織り込まれたもので、立体的な盛り上がったレースは格別な貴品と若さが、感じられました。
この服にも、シルエットが大切なことはいうまでもなく、縫い込みをみせたくないというのも、透けるのに当然のことですが、特に縫い目を普通にせず、花模様をたどって、切込み乍ら、左右から合わせてつなぎ合わす方法をとり、縫目をなくしてしまいました。また裾線、衿ぐり、そでくちといった端にも、縫目を一さいさけて、リボンの織り込みで終わるように、模様を変化し乍ら縁を作ってゆく方法にしました。このために完全な仮縫いが必要で、ちょっとした変更も許されないというきびしさが、このレースの布が教えてくれました。
布巾の都合で、二段にスカートを作り、後にトレーンを流したデコルテです。
白のチュールとピンクのチュールを重ねながら、このレースを最も美しく、その個所によってチュールの重なりを変えたりして、すき通る軽やかな感じを与えてみました。
◆皇后さまのお洋服
こうした美智子妃殿下のお洋服に対し、皇后さまは「歌集唐草」と名付けられる龍村氏の銀糸に唐草模様をおき、スカートに移って、金の模様が浮き上がるような、一枚織りのものにしました。
デコルテは、ピンクに合わせて、皇后さまは真白のアレンコレースに銀のラメをすかし、真珠の母貝のような、ブルー・ピンク、クリームといったスパングルを、一面に刺繍して作りました。この二枚も、勿論、シルエットと縫目の縁の苦心は、美智子妃殿下のものと同じことでした。
◆清められた仕事部屋
この他、ベージのレースのモンタントや皇后さまのお和服や清宮さまのブルーのレースの服などに、お三方お揃いの時の折り合いを頭に入れ乍ら製作しました。
その他に、美智子妃殿下のご旅行着や、コートアンサンブル、皇后さまのコートやアンサンブルなど、数々のお洋服を、無事にお納めした時は、本当に肩の荷がおりたようで、どうぞぴったり身体に合い、皆様お美しく召して頂けたら、と心から祈りました。
白い布が多かったので、製作のメンバー達は、白エプロン、白のカフスを必ずはめ、テーブルには白の布を張りつめ、何時の間にか清められた私の仕事部屋でした。
箱にお納めして、皆でかん杯をして、それを送り出した時は、感激で一杯でした。
田中千代さん(テレビのインタビュー)
「皇后様、色がお白いもので、ブルー系が良くお似合い遊ばすもんでブルーの絹でドレスとジャケットとコートとちょっと濃淡がございましたけど、それをお作りしました。仮縫い等に伺っておりますと、本当に大らかでいらして、私何かが、ちょっと寸法がどうかな・・・・と思って、私何かが間違えたのではないかと、戸惑っておりましても、皇后様から『私は太っているからね』そう笑って下さいますと、もう、何もかも、寸法なんてすっとんでしまって、皆が和やかになってしまって・・・・」
昭和五十九年五月、ご養蚕所で桑の葉を与えられる香淳皇后