池田蕉園 『夢の跡』
例えヨーロッパで戦火が、収まらなくともコロナが、まだ完全に終息しなくとも九重の宮中では、例年の通りの新年のお行事が行われます。
昨日から新年の準備に明け暮れておりました、佐義宮皇嗣邸の衣こうには、皇嗣妃殿下や姫宮殿下が新年祝賀の儀で召されます小袿が二領掛けてありました。また宮家の紋を蒔絵で施した黒漆のお広蓋にはお二方が着用される小袖に袴帯、切袴等がきちんと畳んで入れてありました。お広蓋の側には火取香炉からゆかしい香の薫りがただより、その薫りがほのかにお二方様の召しますご装束に薫りが移っていました。
萌黄色に松立涌地に鶴丸の上文の二倍織物の小袿は妃殿下、紅梅色に雲立涌地に紅梅の折枝丸と花菱の組み合わせた比翼文の小袿は姫宮がお召しになられるのです。そのご装束をじっと正座をして見ている方がいらっしゃいました。皇嗣家のご長女白菊夫人です。新年に相応しくキラキラと光るマジョリカお召しを着ていらっしゃいましたが、しかしお太鼓を結ぶまでには、まだ体調が、十分でなく、負担の少ない楽な兵児帯を結んでおりました。しかしキチンと背筋を伸ばして、薫りが仄かに立ち登るなかを母宮、妹宮がこれから身に付けます、小袿をじっとご覧になられておりました。
上村松園 『初音』
こちらは和室でしたが、その部屋にも花瓶に花が活けられていて新年の華やかさをかもしだして、おりました。宮中の新年はとてもお早いのです。早朝の光がさすなかを夫人のかつては豊かな黒髪・・・・しかしいまは白髪と色が変わり、その髪に日の光が差すと、やつれた夫人の容姿と共に髪は銀髪に見えました。
「お姉様」
とお部屋に入ってこられたのは、撫子の姫宮です。
「この小袿、お姉様に譲っていただいたのだけど、どうかしら、似合う?」
そう仰ると、衣こうからするりと、小袿を下ろしご自分の身を包んでしまわれました。小袿と言っても実際に大きいのです。幼い頃、母宮の小袿をご覧になられたり、着付けの様子も見せて頂いたりしましたが、こんな大きなものが自身の身をまとるなんて、幼い頃から信じられなく、始めての新年用に用意された小袿を見た時でさえ信じられない思いでした。それは姉の白菊夫人も同じでした。
栗原玉葉 『衣変え』
小袿をまとった妹宮の姿を見て
「とても似合うわよ。でも私はこんな有り様よ、この小袿を着たら、きっとまた喧しく言われるわ、それでもお宜しいの?」
不安げに言われる夫人とは逆に姫宮殿下はからりと、
「ははは・・・これくらい何ともないわよ」
「それよりもお姉様と一緒にまたこうして新年を一緒に過ごせるのだもの。こちらの方が、私には凄く大きいことなのよ。良かったわ」
心身を病んで出戻って来た姉宮に言うべき事では、ないかも知れませんが、しかし姫宮殿下は本当に姉宮がこちらに戻って来た事が嬉しくて仕方がないのでした。
須藤しげる 『姉の結婚』
そんな日の光のように、明るい妹宮を、夫人は暗闇に光が差した、眩しいような目でご覧になられていました。
「ご機嫌よう、新年からお賑やかなことですね」
そうおっしゃりながら、皇嗣妃殿下がお部屋に入ってこられました清香妃殿下は襦袢に菊文様の板絞りの羽織りを召されていらっしゃいました。撫子の姫宮殿下も同じ装いでそちらは華やかな銘仙の羽織り。これから直ぐに袿袴道中着姿になられるのです。
「ご機嫌よう君様(妃殿下の事・御所言葉)、姫宮様。お召し変えのお手伝いを致します」
白菊夫人は言葉を改めて、皇族でいらっしゃる母宮と妹宮にそのように、言われました。
「大丈夫なのね」
清香妃殿下は夫人の顔色を見ながら案じ声で言われました。こちらに帰って来た時に比べると格段に良くなってもまだ体調は万全ではなく、余り無理をさせたくないというのが、やはり親心と言うのでしょう。そして白髪になった娘の姿を痛ましく思うのでした。
道中着はそれほど手間のかかるものではありませんが、夫人は着付は出来ませんので、ただ補佐役のような役目をするのです。
「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
現在は御用掛の先の老女の唐糸と現老女の花吹雪の二人が妃殿下の後より入って来ました。二人は小筥を持っており、それを鏡台に置きました。中にティアラが、入っているのです。
「さぁ急ぎましょう。唐糸さん小袖を」
清香妃殿下のひと声で道中着の着付けが、始まりました。姿見の前で妃殿下は唐糸がお広蓋より差し出す小袖を直ぐ様身に付け衿を正し直ぐ手渡された腰紐をサッと結び次に袴帯を唐糸に手伝わされながら結びました。緋の切袴身に付け、そして道中着には欠かせない、綿の入った丸くげの紐状の帯を袴の上から後ろに結ぶのです。
本当に互いに着付けに慣れていないと、直ぐには出来ませんが、流石に妃殿下も唐糸も手慣れていますので、あうんの呼吸でさっさと着付けてしまいました。最後に萌着の小袿を身に付ける時は、唐糸一人では、無理なので撫子の姫宮の着付けを白菊夫人と共にしていた花吹雪が、小袿をからげて上にあげ平帯で結び、そして両衿を丸くげの紐にきっちり着込むのを唐糸と共に手伝いました。
未婚の女性用の濃色の袴、小袖を身に付けそして綱のような紅の太い丸くげの帯を結んだ撫子の姫宮は、
「お姉様、小袿を取って下さる」
「はい。どうぞお召しになって」
夫人は元に戻した小袿を衣こうから下ろしました。そこからは香の薫りが、漂いその薫りのしみた小袿を妹宮に着せました。姿見には美貌を讃えられる撫子の姫宮が、紅梅色の小袿を袖に通した姿が、映っていました。あぁ我が妹ながら、なんて美しいのだろうと夫人は思わず見とれてしまいました。
須藤しげる 『みどりの風』
衣装の文様と同じく紅梅の花が、咲き誇っているような華やかな妹宮の姿に、夫人はわずか数年前も、自分も同じ装いで新年を迎えていたのが、あれは、現実だったのだろうかと幻のような気がしましたが、この美しいものを手放して、一体自分は何処へ行こうとしていたのか・・・・
吉村忠夫 『野分』
と思い巡らせながら薫り漂よふ火取香炉を見つめておりました。
山岡丘人 『海の微風』