昭和10年『桃太郎』
もう20年以上も前の香淳皇后の追悼番組で紅葉山のご養蚕所で製作された絹糸で織られたという『お好みぎれ』というのを始めて知りました。数々のお好みぎれの意匠は香淳皇后が絵を描かれる感覚で楽しみながらなさっていたということです。
昭和44年、ご趣味でいらした日本画を描かれる香淳皇后
薄紫の訪問着をお召しですが、左ムネの鳥の友禅は“やつがしら„です。ご自身が描かれたのをお着物にされたものです。
一部で有名な(グロテスクなお姿との事)昭和45年6月に紅葉山ご養蚕所で蚕に桑を与えられる香淳皇后。
白い“お蚕さん„が、うじゃうじゃと動き回るなかでの桑の葉を与えられるのですから本当に“お好きさん„でなければ出来ないでしょう。
・・・・しかしこの『お好みぎれ』詳しいことは良く分からないままだったのですが、最近ヤフーで主婦の友社『皇后さま』という題名の香淳皇后の御写真集(昭和59年出版)恐らく昭和天皇御夫妻の御結婚60年を記念しての出版と思われます。
昭和57年の昭和天皇と香淳皇后御夫妻
その中で長年、気になっていた『お好みぎれ』についての文章や『お好みぎれ』の数々の写真やそれから作られた小物の写真もありましてやっと詳しく知ることが出来ました。
『お好みぎれ』は戦前、新年に参内される各宮妃殿下に、天皇皇后両陛下から下される小さい細工物を仕立てられる様に、両陛下の『お好み』によって織られた『名物裂』風の紋織物という事でした。
『お好みぎれ』は戦前、新年に参内される各宮妃殿下に、天皇皇后両陛下から下される小さい細工物を仕立てられる様に、両陛下の『お好み』によって織られた『名物裂』風の紋織物という事でした。
昭和12年製作『田家雪』(その前年昭和天皇が北海道を行幸されたのにちなんでの牧場の景色)
その起源は明治の末の頃から始まり、大正3年に皇居の紅葉山にご養蚕所が新築された後はそちらで養蚕された“お蚕さん„の絹糸から織られた紋織物の『お好みぎれ』が毎年のお正月に宮中に参内された妃殿下方に下されたのでした。
しかし昭和まで引き継がれたこの『お好みぎれ』も世の中の変化によって年々種類も減りまして、昭和14年を最後に取り止めになられたということですので、現在は『お好みぎれ』は製作されていません。
その意匠はその年の事柄にちなんでのことが少なくないとの事です。
追悼番組ではその『お好みぎれ』のことを語る故勢津子妃殿下と百合子大妃殿下の場面がありましたので、紹介します。
勢津子妃殿下
「・・・・その年の主だったお行事そのようなものをね」
百合子大妃殿下
「・・・・そう」
勢津子妃殿下
「そちらはね、文化勲章がご制定になった時のものだと思います。記念にね」
勢津子妃殿下
「“海藻„という陛下の御研究の、ほら」
司会者
「あぁ・・・・」
勢津子妃殿下
「ヒドロゾアとかいう・・・・」
百合子大妃殿下
「そうね・・・・」
番組の場面で出ていた『お好みぎれ』から作られた可愛らしい小物です。
こちらのオペラバックは別の皇室の本で書かれていましたが、百合子大妃殿下が三笠宮殿下とご成婚(昭和16年)の時、もう当時は『お好みぎれ』の製作されていなかったのですが、貞明皇后が『お好みぎれ』で自らお作りになられて下さったと、大妃殿下が語っていらっしゃいました。例え作られなくなったとしても宮中の雅を伝え身近に置いて欲しいいという貞明皇后のお心遣いだったのでしょう。
シロガネの記憶違いでなければその本で、百合子大妃殿下は『今でも使っております』と言われていました。
番組から幾つかの『お好みぎれ』を紹介します。
主婦の友社『皇后さま』から
昭和8年『御能かるた』
昭和3年『松折小鳥』
昭和13年『神苑朝』
昭和12年『松にいかる』
昭和13年『文化勲章』
昭和5年『春駒』
昭和7年『えびら』
『お好みぎれ』から作られたアルバムや額縁
それぞれの『お好みぎれ』から仕立てられたお袖落とし
戦後はかつての『お好みぎれ』とは違う、洋服用の広幅の紋織物がご養蚕所の糸から織られまして、外国訪問の際の贈り物や皇族方のお祝い用の洋服地として香淳皇后から下されたということです。
小林古径『織機』
古希・還暦のお祝いの折りに香淳皇后から下された洋服地をご覧になられる故秩父宮妃勢津子殿下、故高松宮妃喜久子殿下そして、三笠宮百合子大妃殿下のお三方。
百合子大妃殿下がお持ちになられているお洋服は色から推察して(もしかしたら・・・・)
昭和58年、三笠宮容子(まさこ)内親王がご結婚される時に宮中賢所三殿に拝謁を終えられた後の記念写真
その時に大妃殿下がお召しになられていらっしゃいるローブ・モンタントかもしれません。
この時のお写真の撮影場所は多分当時の高松宮邸だと思いますが、右側の華やかなお花を見ますと・・・・その約36年後・・・・
同じく高松宮邸の、現在は仙洞仮御所となっていますが、なんとも言えないどんよりとした色彩のないインテリアや未亡人か喪服にしか見えない・・・上皇陛下はお元気ですのに・・・上皇后陛下のお召し物や雰囲気・・・・
以下はシロガネの妄想の上皇后陛下のお言葉です。
「あぁ・・・・何時までこんな狭い邸に押し込められているの、こんな狭い所に居たらわたくしは窒息してしまうわ」
「この一輪差しのバラはわたくしの気持ちを現しているのよ。コロナの最中で大盛りの花なんか飾っていれば、きっと多くの国民はわたくし逹は税金で贅沢をしていると思われるわ!」
「そんな風に思われるなんて耐えられないわ・・・だから飾るお花も一輪差しにして倹約しているとアピールしているの。国民への慈愛に美智た(満ちた)態度を示しているのよ」
~コロナで生花店も大打撃を受けております。国が喪に服している訳でもないのですから、お花位華やかにお飾り下さい~Byシロガネ
それに、上皇陛下はここのお住まいに至極ご満足されてご不満もないご様子です。
国が大変な中で、余計な税金を使わないよう、そのまま高輪の仙洞仮御所を終いの御所になさって頂ければ有りがたいのですが。秋篠宮皇嗣家にこれ以上余計なバッシングを受けないようになさるのが真の『ご慈愛』のお心だと思うのです。
昭和30年に当時、東宮でいらした上皇陛下が自ら撮られた香淳皇后のお写真。『皇后さま』からです。こんな珍しいお写真もありました。
話題は、反れましたがたった一輪しかないバラを見ますと(美しい上皇后様も花瓶の薔薇と同じく眉が一輪に2つ合わせて・・・・)
昭和30年に当時、東宮でいらした上皇陛下が自ら撮られた香淳皇后のお写真。『皇后さま』からです。こんな珍しいお写真もありました。
話題は、反れましたがたった一輪しかないバラを見ますと(美しい上皇后様も花瓶の薔薇と同じく眉が一輪に2つ合わせて・・・・)
当時の未亡人でいらした勢津子妃殿下のお召し物やこの華やかさや雰囲気は住む人のセンスやお気持ちで同じ邸宅でこうまで違うのかと思うのです。
『皇后さま』のお写真集はシロガネも初めて見る香淳皇后の御写真が何枚も載っていました。上の御写真もそうです。とき下げに袿袴姿の香淳皇后のお姿は初めて見ました。
ネットでしか見たことがなかった、地毛でお中に結われた香淳皇后の小袿姿のカラー写真。お中は前髪のある“おすべらかし„です。・・・・やはり“おすべらかし„は地毛でなければならないと思います。
戦後に撮られたお着物姿の香淳皇后等色々あります。
昭和4年、葉山御用邸にご静養中の昭和天皇御夫妻と長女の照宮様。香淳皇后が抱かれているのは三女孝宮様。(次女の久宮様は夭逝されました)
孝宮様を抱かれる香淳皇后の珍しいスナップ写真
昭和22年に御文庫(防空施設)のお庭でコスモスの手入れをされる香淳皇后。コスモスが一面に咲き誇っています。
昭和25年、昭和天皇御夫妻とご結婚間近の孝宮様
昭和30年、ご養蚕をされる香淳皇后
雅な伝統はこれからどうなってゆくのか・・・・香淳皇后のお姿を拝見すると不安でしかありません。まして、現在とんでもない金食いK虫が『わたしたち皇室』にまつわりついているのですから。
それを排除出来ない現在の皇室の有り様・・・・悪い予感しかないです。しかし・・・・
きんさん・・・香淳皇后と同じ明治・大正・昭和・平成と4つの時代を生き抜きそして香淳皇后と同じ、平成12年(2000年)に他界しました。
「そりゃええときもあるし、悪い時もあるよ。悪いときだけということもない」
「ええ時ばっかりでもない。それで暮らしてゆくんじゃないかね。うん、わしそう思う」
(・・・・本当にその通りです。いい時も悪い時もずっと続くわけでは在りません)
しかしそれでも、どうかこれからも雅な伝統が受け継がれてゆくことを願って止みません。
小林古径『禄(かずけもの)』