
高松宮喜久子妃殿下(卒寿をお迎えになられて)
入手不可能と思っていた喜久子妃殿下のお写真集《菊に華あり》をなんとシロガネは購入出来ました。有難いことです。

有栖川御流で書かれた表紙。色は妃殿下がお好きな撫子色
皇室ファンの方々も滅多に手に入らない非売品である、妃殿下の秘蔵アルバム集がこうして手元にあるなんて信じられない思いです。それ故出し惜しみせず出来る限り公開してゆきます。

平成5年の春
徳川慶喜家と有栖川宮家の両家のお血筋でいらっしゃる妃殿下はまさに妃殿下として王道でいらっしゃる。もう二度と、現れないお方でしょう。

平成五年の秋
宮邸のなかもキチンと写されていて当時の高松宮邸の華やかな暮らしぶりが忍ばれます。それから約20数年後に上皇御夫妻が暮らされるのですが、辛気臭い写真しか公開されませんでした。

(絶対に世間から非難されたくは無いという上皇后様の強い意思を感じられます)
同じ邸でも暮らされる女主人の趣味や雰囲気で大きく落差が生まれるものだと感じております。

お部屋で寛がれる妃殿下

午後のひととき

高円宮邸新築祝いにお越しになられた浩宮殿下と礼宮殿下と喜久子妃殿下と三笠宮百合子妃殿下

昭和61年 来日されたチャールズ皇太子夫妻を迎えての宮中晩餐会時、皇族休所での上皇后様と喜久子妃殿下。高松宮殿下撮影

昭和48年 新年祝賀の儀の折り秩父宮勢津子妃殿下とご休憩。高松宮殿下撮影

お雛様を飾られて

昭和61年 高松宮殿下をお見舞いに訪れられた華子妃殿下と桂宮殿下と近衛寧子さん

平成4年 常陸宮両殿下のお招きで午餐を共にされた皇族方

平成4年5月 アートフラワーの飯田深雪さんと喜久子妃殿下と秩父宮勢津子妃殿下と百合子妃殿下

避暑先にて

同級生とお出かけ先にて

活け花をされる妃殿下

昭和39年 マレーシア元首主催の晩餐会にご出席された皇族方

昭和40年 スウェーデンのクリスティーナ王女を迎えられての《午餐会》妃殿下がこの時お召しになられた訪問着は常陸宮華子妃殿下に受け継がれたようです。

因みに・・・・

クリスティーナ王女はご健在です

現在の両陛下御成婚の祝宴時の盛装姿の妃殿下

昭憲皇太后から妃殿下の母君・有栖川宮実枝子女王に御下賜された象牙御紋付蒔絵扇子・・・・。
両陛下御成婚の時に喜久子妃殿下より現在の皇后様に贈られました。
その後妃殿下亡き後、疑惑の対象に・・・・。でもこちらはキチンと扇子を入れる蒔絵の箱がありますので、

売るとしたら箱とセットにして売りに出さなければ可笑しいです。ですので例のネットオークションの話は信じていません。

昭和50年 アメリカ大使館で開かれた晩餐会時の妃殿下

平成4年宇都宮で開かれた済生会総会のレセプションで。

「紀子様みたいにしないでね」と着付けの人に言われたという妃殿下のお見事な唐衣裳のお姿。平成の御大礼にて
《美智子さまの恋文》より
『宮内庁から旧華族グループへ衣紋の委託が正式にもたさられたのは、それから間もない頃だった。高倉文化研究所が担務した十一月二十四日を除けば、即位の礼関連の一連の公事と女房装束の着付けに関しては衣紋道研究会がすべて取り仕切った。
直宮妃では高松宮喜久子妃殿下について、衣紋道研究会の柳原順子、山尾公子のペアが担当だった。その高松宮妃が即位礼に参列されるとき二人に、「紀子さまのようにしないでね」た注文をつけた。
二人が親族の若手であったから気さくに口にされたのだろうが、「紀子さまのような」とは結婚後公表された十二単姿がひどかった事態を指している。それは思わず目を覆うほどの出来であり、これは高倉流によっていた。紀子妃の着付け具合はどこかだらしなく、檜扇から垂れている三十九橋綴り合わせ飾り紐が乱れていた。』
平成の御大礼で喜久子妃殿下がお召しになられた唐衣裳は令和の御大礼の時には・・・・

「ふん💨」
三笠宮信子妃殿下がお召しなられました。

昭和55年 三笠宮寛仁親王と信子妃殿下がご結婚の挨拶に高松宮両殿下をご訪問

昭和55年 浩宮殿下成年の儀式である『加冠の儀』の時の浩宮殿下と皇族方
・・・・悠仁親王殿下の『加冠の儀』は来年の春であります。

昭和46年 新年祝賀の儀の合間で皇族休所での皇族方

昭和34年 上皇・上皇后両陛下御成婚の時の皇族方と旧皇族方
・・・・盛り花が素晴らしい

前田青邨《ラ・プランセス》
『菊に華あり』より
・・・・その前田画伯の、ぜひとも高貴な婦人の雰囲気を描きたいとの再三の願いにとうとう根負けし、昭和三十三年五月、米大使館の晩餐会に出席されたそのままのお姿で宮邸でスケッチに応じられた。画伯は妃殿下の左頬に顔を付けるように近づき、妃殿下が、私は右側が好きとおっしゃっても聞かず、そのまま何枚もスケッチをしていた。妃殿下がダイヤの指輪をしていたところ、前田画伯は緑の翡翠の指輪に替えるように指示するほどの力の入れようであった。