45年ぶりに独身になって感じることは、ひたすら寂しいという事。一人になり、愛犬も亡くなった今。自分は100パーセント自由に、勝手に、いつでもどこへでも行ける身分ではある。が、一人旅は過日経験してみてやはり寂しい。話相手がいて、そして気遣い合って一緒にご飯を食べて…。 だから楽しいしそこに幸せがある。人は「自由でイイネ「」「羨ましい「」などという。リップサービスもあろうが、それぞれに無いものねだりということ。ゴルフでいいスコアーを出して「今日よかったよ」「そうよかったね。」ただそれだけの会話でも充分。何も無いという事がどれほど寂しいか。モチベーションが上がらないのもそこにある・・・・・・・・・・・
妻が亡くなって1年と8か月が過ぎた。この間モチベーションが上がらず、ただ、生きていただけの様が気がする。
日常の中で、仕事で相談があればそれに応え、時には同行もした。そこには熱意がなかったような感じがする。
誰かのために何かをする。その誰かが自分にとってどれだけの誰かなのかによって気の入れ方が違う。
よく自分のために生きればいいと。言われるがそれは今の自分にとってあまり意味がない。
以前、夢中になっていたBBフィッシングに数年ぶりに行ってみたが1匹も連れはしなかったが
その時は楽しめた気がする。以前はあ~だった、こ~だったと記憶を楽しんでる自分がいて
でもそれじゃ~だめ。前向きにという自分もいたりして。しばらくは釣りしながらぼけ~~っとしてみよう。
妻に先立たれて1年2か月余りが過ぎた。毎日のように当時を思い出すと、もっと何かして尾毛られなかったかとか医療についてもっと何かなかったのかとか自責の念だけが脳裏を走る。妻からの書置きを手渡されたとき何度も読み返したが最後に「今までありがとう」て書いてあった。そのままその言葉を妻に返したい。今からでも伝えたい。毎朝好きだったコーヒーを入れて仏壇の前で手を合わせるが早く死にたいな。ってよく思うけど、自ら断つことはしない。それほどの勇気も度胸もない。
昨日妻が大事にしていたミニ胡蝶蘭が咲き始めた。唯一明るく希望的なことのように感じた。
妻が亡くなってもうすぐで一周忌。9月の20日過ぎに中学の時の先生(渋谷智子先生)から電話があって妻の名前を聞いてきたので、気遣い無用ですよ。って言ったのですが数日後に、写経が送られてきました。今までお付き合いさせていただいた先生は渋谷先生ただ一人だけだったが、秋季彼岸という事でわざわざ妻のために写経していただいた。どんな慰めの言葉よりもどんな供物よりも嬉しい。それに写経を送るという事を知らなかったから「とってもかっこいい」と先生に電話し、11月に同窓会で会えるからその時改めてお礼をと考えていた。だが、この日からほぼ1か月後に先生は座椅子に座ってテレビを見ながら天国へ。88才だった。先生からいただいたお便りなどすべてのこっているのでもう一度読み直し、励ましや、お例文等々本当にありがとうございました。先生も多くの教え子に囲まれ、自分も先生と知り合えて幸せ者です。2016年は自分が最も大事に大切に思っていた妻、早知子、そして先生までもが亡くなった。自分もいつまで生かされるのかわからないがモチベーションが無くなってしまった。生きていく喜び、目的を見つけないと。