心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

主と歩む365歩のマーチ

2023年01月01日 | ◆聖書の言葉
礼拝は信仰者にとっての中心的ことがらです。礼拝は信仰者が365日を神に感謝し歩む為の土台です。ですから礼拝の失敗は信仰の失敗へと繋がります。その土台となる礼拝はあなたが「何を持って」捧げるかがとても重要なのです。神は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるでしょうか。たくさんのささげ物を持ってゆけば喜ぶのでしょうか。そうではありません、たくさんの金品を持ってゆけば喜ぶのは、偽預言者、偽救世主、偽宗教指導者だけです。神があなたに礼拝で捧げてほしいものはただ他一つ、それは「あなたの心」です。そうです主はあなたの心からの礼拝を待っておられるのです。『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』(ミカ書6章8節) 公義とは神の思う正義を行うことであり、誠実とは人に対してはもちろんですが神に対して誠実を尽くすという意味があります。神は私たち信仰者にまことの礼拝者として生きそして神に対して誠実に生きへりくだってあなたの神とともに歩むことを望んでおられるのです。水前寺清子さんは“365歩のマーチ”で「♪ 休まないで歩け~ 」と歌います。でも人生には時に、躓き、倒れ、一度、休まなければ、もう一度、前に向かって歩きだすことが出来ない時だってあります。今日2023年1月1日、今日からはじまるあなたの365日では、三歩進んで二歩下がるそんなもどかしい思いの時もあるかもしれません。でも聖書は語ります。大切なのは、あなたがどれだけ歩けたか、ではなく、あなたが誰と歩いてきたか、であると。
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ビビる時だってある

2022年12月08日 | ◆聖書の言葉
途轍もなく大きな仕事を任されたらそりゃあ誰だってちょっとはビビります。でも偉大な指導者モーセの跡を継ぐ事になったヨシュアがビビってたであろう時、神は『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』(ヨシュア記1章9節)と励まされました。「なんかこれなら私にも出来そう」っていうスケールの仕事なら、もしかしたらそれは逆に神様からのものではないのかも。モーセは辞退を固辞し、ヨナは全力で逃げだすほど、神様からの任務は重いものでした。でも主があなたとともにいることを信じて、あなたにはどんな時も強く雄々しくあってほしい。
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キリスト教葬儀

2022年11月08日 | ◆雑
キリスト教の葬儀、それはその人が信仰者としてどのように生きて来られたかの証しの場でもあります。それは召されたおひとりおひとりに、クリスチャンとしての人生があり、神を愛し人を愛して生きたその方の人生の証し、天国での希望、そして神の義と平和と喜びあります。それは再び神と出会う義と平和と喜びであり、それは今を生きる私たちにとっても慰めであり励ましなのです。クリスチャンにとっての葬儀は人生最期の証しの場です。そこであなたの人生が人々の前で、神への栄光として語られる時、それは夏の線香花火の最後の輝きのように、そこに参列してくだった方々に向かって、大きな大きな希望を与えるものとなるのです。そうですそれは、あなたがこの地で信仰者としてどう生きたかが語られる、あなたから神への『地上の最期の捧げもの』なのです。
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人生の成功者とは

2022年10月05日 | ◆雑
この世に失敗をしない人なんていません。ではその失敗の根本的原因はなんなのでしょう。それはそこに「愛がなかったから」なのです。イエス・キリストの十字架を信じると言う事は、それまでの自分の中には愛が無かった事を知るということです。失敗は成功の素です。失敗したら神の前にすぐに悔い改め、自分の中に神の愛を、イエス様の十字架の愛をもう一度、しっかりと心に刻み込んで、二度と同じ過ちに陥らないように歩む努力が必要です。「本当の人生の成功者」とは、かつてはそのような者であったのに、今は十字架の愛を知って「神の愛と共に生きる人」のことです。今、あなたのその手に世がうらやむような宝は何一つ無かったとしても、十字架のイエス様を信じ、神を愛し、隣り人を自分自身のように愛する者こそが、まさに、まことの『人生の成功者』なのです。
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十字架に勝る愛はこの世にはない

2022年09月11日 | ◆聖書の言葉
イエス様の十字架は人間の罪の贖いの十字架、苦難と死、無実の死、犠牲の死、無償の愛のしるしなどなど、いろいろな言葉で語られます。しかし実際の十字架刑は耐えがたき痛みとみじめな恥辱の極致、恥じと屈辱にまみれたそれは決して美しいものなどではなくただただ残酷な血なまぐさい、直視できないほどのむごたらしい刑罰であったのです。でもそれは実はあなたの為の十字架だったのです。その十字架を信じ救われた信仰者にとっては救われる前のすべてのものは、恥ずかしい過去でしかありません。イエス様はそのあなたのはずかしい過去のすべてを持って十字架の上でその恥辱を受け入れ、贖いを成し遂げてくださったのです。イエス様はあなたを救うためにその十字架を自らお選びになりました。それは全人類に与えられた愛のうち最も優れたものであり、このイエス様の十字架に勝る愛は、この地上には、存在、しないのです。『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(コリント人への手紙第Ⅰ-13章13節)
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